超個人的新着RSSリーダー

  • JavaScriptをONにすると、RSSリーダーが表示されます。


     

お知らせ

 ・オリジナル小説 『うたいしこと。』
  各章冒頭への直リンクはこちらからどうぞ。
   プロローグ/第1章/第2章/第3章/第4章


 ・『ストーリー・オブ・ウォーターフィールドサウスノース(水野南北物語)』
  各話への直リンクは以下からどうぞ。
   第1話/第2話/第3話/第4話/第5話/第6話/第7話/第8話/第9話
   第10話/第11話/第12話/第13話/第14話/第15話/第16話/第17話/第18話

記事一覧

ity&ism

 keiziさんブログの先日のエントリを読んでふと感じたこと。
 (というか、読む少し前に個人的な日記に書いてたこと)



「スピリチュアル」というモノに対する人の解釈、あるいは姿勢には、二種類あると思う。


 スピリチュアリティと、スピリチュアリズム。


 前者は、霊性。
 言い換えれば、霊性を発揮して生きるということ。
 あるいは、霊性本来の神聖さを発揮して、ということかもしれないです。
 それは同時に、
「『この世に霊的ではないものは存在しない』がゆえに、『スピリチュアルなど存在しない』」
 ってことを理屈を越えて理解している。
 つまり、「すべてはひとつ、ひとつはすべて」という、
 限定された霊性という概念のみにとらわれない深い敬意と洞察が伴っている。そんな姿勢。


 後者はイズム、すなわち主義。要するに、霊的主義。
 主義が生み出すもの、あるいは生み出される基盤は、分離であり、分離に伴う排他。
 だから、霊的主義に軸足を置くと、大なり小なり、自覚の有る無しに関わらず、必ず物質面を軽んじる。
 この極地が精神至上主義と言っていいと思う。
 気合さえあれば何でもできる、できないのは気合が足りないからだ、みたいな。
 まあそこまで突っ切らなくても、イズムな時点で既に、霊性と物質性を別々のものとして捉えている、そんな姿勢。


 つまり、スピリチュアルと称されていても、両者は完全に異なるわけで。
 主に「スピリチュアル」として悪い意味で槍玉に挙げられるのは、スピリチュアリズムの方じゃないかな。



 だから。
 スピリチュアリティ(霊性・精神性)は、
 スピリチュアリズム(霊的主義・精神主義)を手放す事で初めて万全に現れるんです。



 どういうことかって。

 さっきの繰り返しになるんですけども。
 だって、この世に、スピリチュアル(霊的)でないものはないんですから。



 新聞紙やクエン酸や重曹でいろんなものを掃除できる。これもスピリチュアル。

 イースト菌が発酵ガスを出してくれてパン生地が膨らむ。これもスピリチュアル。

 交差点にミラーが設置されていてくれるおかげで、出会い頭に衝突しないですむ。これもスピリチュアル。



 さて。
 そんな世界の根っこの中で、ですよ。
 スピリチュアル(精神世界)なんて『ジャンル』は、いったいどこに存在しうるんでしょうね?



 たわしが現状ブログランキングの類に参加してない理由は、まさにここ。

 いやさ、参加してもべつにいいんだけどね……まだその気にはなってない。

  • この記事のURL
  • コメント(6)

  •  

クンバハカ法の体得記

 今朝、起床は午前三時。
 その前に二時半ごろ一度薄く目が覚めて、それから三十分うたたね(二度寝)状態だったんですが、その間に、夢を見まして。

 昨夜、ありがとう仙人さんがブログで、中村天風師の提唱したクンバハカ法について触れられていたのを見たせいでもあるんでしょうね。
 
 夢の中で、このクンバハカ法を実践してたんですよ。


 クンバハカ法ってのは、

 ・肛門を引き締め、
 ・丹田に意識を集中し、
 ・肩の力を抜く。

 この三つを同時に行うことで、感覚刺激に対する精神の過剰反応を防止するというものです。


 でもですね。
 天風師を私淑するたわしですが、恥ずかしながらこのクンバハカ法、
 全然その感覚がつかめないまま長いこと棚上げ、というか忘れてたんですよ。

 それがですよ、今朝夢から醒めて。
 寝起きに自然と、布団の上であぐらをかいて試してみたんですね。


 ああ、なるほど、こういうことか、と。


 どうやら以前までは、方法を勘違いして、余計な力を入れてしまってたみたいです。
 具体的にはたとえば肛門を締めるのに、一緒に大臀筋まで引っ張りあげてた、とか。
 あとは丹田に意識を集中しようと、下腹部に無駄な力を加えてたとか。

 後者については、これまでの瞑想の経験が明らかに効いてます。
 力を入れるんじゃなくて、ただ、意識だけを集中させる感覚が。

 たわしの場合、とりあえずは丹田だけでなく気海もまとめて意識してみてます。
 気海は臍下(せいか・へその下)一寸、丹田は臍下三寸といわれてまして。
 実は若き日の水野南北が、観相の際に意識を集中するポイントとして
 師匠である水野海常に教えられたのもまた、この気海だとか。


 で、感覚を掴んでみてわかったことなんですが。
 言ってみればこのクンバハカ法ってのは、瞑想法です。
 ただ、これまでたわしが入ってきた瞑想よりも、とてもずっしりとした、
 といっても重たいのではなく、非常に安定感の強いエネルギーを感じます。

 要は、チャクラで言うところの第1・第2・第3といったグラウンディング寄りを重視したものなんですね。
 今までのたわしが、第4~第7を主に駆使(?)したチャネリング寄りだったせいか、
 その(よい意味での)ギャップが強く感じられます。


 それにしても、朝イチでこれは大きな変化・恩恵を得たものだ……と、感慨にふけっとります。
 そういえば昨日の仕事は普段より少しハードで、肉体的な疲労が少しあったんですが、
 おかげでかえって脱力して、いろいろ流れ込んでくる下地になってたのかもねーとか。
 これまで経験してきた瞑想の感覚も、またひとつはこれを理解するために必要だったんだねーとか。

 ありがとう仙人さんはもちろんのこと、
 そういった与えていただいた全ての全てに、
 本当に、ありがとうございます。


 あ、そうそう。仕事で思い出した。
 昨日職場から帰宅したら、予約してた引き寄せの法則CDブックが届いてますた(・ω・)ノ
 こっちもぼちぼち体験してみて、何か気付いたことがあったら記事にあげていこっかな。

  • この記事のURL
  • コメント(4)

  •  

呼吸呼呼吸呼吸(太郎)

 ♪フゥワフゥワ(何


 昨日ちょいと人体実験のために大食しまして(ぉ
 おかげで新たにわかったことがあるんですよ。

 それは、「過食は深呼吸を妨げる」ということ。

 正確には、呼吸の「呼」を妨げるんです。
 腹部の膨張感が、腹式呼吸において息を吐くときに物理的な抵抗となるというか。
 見もフタもない言い方すれば、でぶると腹が締まらない(ぇー


 というのもですね。
 「いまここ」に意識を置くために有効な深呼吸。

 この深呼吸には三つのタイプがあるんですよ。


 一つは「呼」優先。
 徹底的に吐ききってから、力を抜いて「吸」は肺に空気の流れ込むのに任せる方法。

 一つは「吸」優先。
 大きく深く吸ってから、力を抜いて「呼」は肺から空気が出るのに任せる方法。

 一つは「呼吸」共に深く行う。
 吸うも吐くも目一杯やっちゃう方法。


 この三つのうち、一番いまここに帰れるのが「呼優先」です。少なくとも個人的に。
 これは「まず手放すことで流れ込む」イメージを養うのにも最適で、また肺ひいては体内に溜まり淀むエネルギーの排出という側面もあるです。



 逆に「吸」優先は、上三つの内では最も望ましくないようです。
 言ってしまえば、「空気を貪り食う」呼吸法なわけで。
 また、淀んだエネルギーは体内に溜まり続けますし。

 大食や肥満によって腹式呼吸を妨げられた状態で、それでも深呼吸をしようとする時、
 たわしの周囲の人々も含めて観察した限りでは、ほとんどの場合、この「吸優先」方式に陥るみたいなんですよ。
 更に、特に肥満体型の人が深呼吸を意識してない時、吐く息が短く、吸う息が長く、そしていずれも浅い傾向がありました。
 大食や肥満が健康を害する理由の一つは、もしかするとここにもあるのかもしれないなぁ、と。

 ちなみにこの辺、スピ的によく言われる「お金というエネルギーの流れ」と同じですよね。
 溜め込もうとすればするほど流れをせき止めてしまい、今度は入ってこなくなるっていうアレ。
 呼吸するのは、空気を吸うのは、生きるためでしょ。
 より生きたいと貪欲に空気を吸って、吐くのを怠れば、
 お金と同じで流れのバランスを損なって、結果、より生きたいという欲望とは逆向きになる、と。



 呼吸共に目一杯やるのは、酸素過多状態になりやすいです。
 ちゃんと吐く分だけ「吸優先」よりはましかもしれないですが、
 しかしたわしの過去の経験から言わせてもらえば、
 うつ病・パニック傷害の時に深呼吸すると、この呼吸になりやすいのではないでしょうか。
 何年も前、当時のたわし自身がまさにそうだったように思うんですよ。
 「落ち着かなきゃ。深呼吸しなきゃ。深呼吸しなきゃ」と、強迫観念的に節度を越えてしまう、そんな感じ。、
 それで仕事中に酸素過多状態で目を回して、仕事にならなくなったケースは数知れずw
 なので、瞑想的活用法としての恩恵は「呼優先」に劣りなどは決してしないとは思いますが、
 この方式では特に、ゆったりと長く行うように心がける必要性が強いのではないかな、と。


 てなわけで、いまここを強く意識するのを意図したとき、
 たわしは「呼優先」の深呼吸をするよう心がけてます。
 大食はその大きな妨げとなるので、腹八分以上には食事せず、貪らないのが望ましいという論拠をまた一つ手に入れた次第。
 

 ちなみに「呼」優先にはもう一つメリットがあって。
 吐く時に、胴体を一本のチューブのように見立てて、それ全体を胴部の筋肉や骨格(腹筋・背筋・胸筋・胸郭など)で細く締めるような感じで力を入れて吐いていくと、腰や背骨が楽になります。
 要は、筋肉などを引き締めることで、コルセットや和服の帯を巻くのと同じような効果になるんじゃないでしょか。

 いや、本格的に腰や背骨に痛みを抱える人に有効かどうかは知りませんよ? 大人しく治療してください( ̄∀ ̄;)
 



  • この記事のURL
  • コメント(3)

  •  

手放すという意味と、手放し方。

 感謝している瞬間、心から傲慢や怒りなどは消え失せています。

 つまり、傲慢や怒りから意識のフォーカスが外れているということ。

 傲慢や怒りは、観念の一種。

 いわゆる「観念を手放す」というのは、つまり意識のフォーカスを、そこ(その向けている対象)から外すということです。

 そのための根本的な方法というのが、
 「今この瞬間」を感じきることで、意識のフォーカスそのものを希薄化、あるいは停止し無効化してしまうというものだけれど、
 これは瞑想や何らかの経過・アクシデントを通じて固定観念を打ち破ったことのある人でないと、いきなりは難しいでしょう。

 そこでオススメできるのがやはり、その派生形とでも言える、感謝。

 感謝に意識のフォーカスを移すことで、傲慢や怒りからフォーカスが外れます。

 つまり、「意図せずして」傲慢や怒りを手放すことになるわけです。

 さて、問題はそれをどうやって普段かつ不断の実践として取り入れるかですけど。

 手っ取り早いのが、今見ているもの、あるいは触れているものが、
 いったいどれだけの人や物や現象の連なりによって今ここにもたらされたかを可能な限り想起し、感謝すること。

 その感覚と心的姿勢を保つよう努めつつ、とにかく繰り返すこと。
 反復は力なり。習慣は第二の天性。それを地で行くこと。

 そのようにして、その瞬間瞬間に、連なりを思い起こす癖をつけていくと、
 いつのまにか、その瞬間瞬間に、連なりを感じることができるようになります。
(正確には、「感じている」ことを認識できるようになります。なぜなら、感じるだけなら無意識的にでも最初からできているのですから)

 思い起こす、つまり「考える」ことで把握できるキャパシティを遥かに超えた、
 計り知れない連なり・繋がり・広がりを、「感じる」という境地に至れば一瞬にして感得しえます。


 全然話は変わりますが。
 今週の少年週刊サンデーのARAGO、
 守るべき人の前で異能の力を見せてしまった主人公のアラゴに投げかけられた感謝に、目頭がひどく熱くなってもう。
 好きなんだよなぁこのマンガ。
 これほどの作品の掲載位置が巻末ってのはいかがなものかってつい思ってしまうくらいに。

  • この記事のURL
  • コメント(5)

  •  

おつかれサンガ

 ふぃーっと。
 先月から抱えて詰まってた案件が、おかげさまで昨日ようやく片付きまして。
 これで少しは更新にもリソースを割けると思うます。ほったらかしぎみでほんとすまそん。
 巡回もほとんどしてなかったしなぁ、ぼちぼちネットお散歩しよっと。



 さて、sarasaさんにいただいたコメントでふと思ったんですが。
 確かにたわしも含めて、なかなかほとんどの人は一つの方法論に固執しちゃい気味なんですよね。


 昨日買ったスマナサーラ長老の『怒らないこと』に、
『私こそが唯一正しい』が人間の本音
 とありましたが、うむ、これにも当てはまるなぁ、と。


 正しい、は、間違い、があるからこそ存在する二元相対の観念。

 人はとかく、あらゆるものを二元相対的に見ようとします。
 言葉や思考、またそれらが表現するものも、全て二元性の上に成り立っています。

 でも、この世は実は一元絶対の世界。

 そこを履き違えるから、そのギャップが苦しみという摩擦になるわけで。
 ちなみにここでいう苦しみってのは、怒りや嫉妬や渇愛といった、自分の心を束縛する思いや感情。


 まあ、一元性と二元性、という考え方自体も実は二元性的な観念に基づいたものなので、
 本当には一元性も二元性もないってことでもあるんですが、
 ああもう二元性に基づいてしか言葉では説明できないのがもどかしいw


 まあだから、要はお釈迦さんとかが言ってるのって、
 この二元相対性による幻の世界から、一元絶対性による真実の世界に戻りましょうよ、ってことでもあるんでしょうね。

 ほとんどの人が現実だと思っている二元相対世界が実は幻想で、同じく幻想だと思っている一元絶対世界が実は現実ですよ、っていう。
 となると、そのアベコベを見抜くのが目覚めで、アベコベを元通りにするのが悟りって解釈もできなくもないかもしれないけどそれはまあいいや(ぇー

 にしても、言葉にするとやっぱりニュアンスのズレや誤誘導の危険性が出てきますねぇ。
 書かなきゃ話にも記事にもならないんで書いちゃいますが。w


 でね。
 さっきの『怒らないこと』には、こうもあったんですよ。

『私は正しい』と思うから怒る」と。

 案件詰まらせてたここしばらくの間、結構この怒りに属する感情が湧いてしまうことがあったんですが、
 振り返ってみれば、ただの一つもの例外なく「自分が正しいと思っていた」から、なんですよね。

 だからどんな種類でも怒りが湧いたら、それを治めるには、
「自分が正しいわけではない、相手が正しいのかもしれない」
 そう思うことがまず入り口だと、身をもって痛感します。


 ……が、それはあくまで入り口なんですね。
 対処療法的であって根本治療的ではないというか。


 そこから更に進めて。
 正しいというのは間違いというものがあって成り立つ二元性の産物なのだから、
 そもそも自分にも相手にも、正しいも間違いもないのだ、ということを把握する。 

 それを敢えてこの二元相対世界でも解釈できるように言えば、
 強いて言うなら正しいしかない、ということになる。
 もちろんそれは一元絶対における正確な表現ではないけれど、
 そこを踏まえた上で、それが、あるがまま、ということになる。

 そこまでいくと、これまでの色んな精神的な知識や解釈とも有機的に結合し始めるんですよね。
 結局のところ、「いまここ・今この瞬間」に何もかもがあるということを見抜いていること、それが唯一の全てなんだと、改めて腑に落ちている次第。

 そういうことを実感できたという意味で、ここしばらくの経験は面白いものだったと、省みています。


 とまあ、またとりとめもない徒然でしたが、今日はこのへんで。
 南北くんもぼちぼち再開取り掛かるかぁ。

  • この記事のURL
  • コメント(7)

  •