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犀の角のように

 さて、元々は一昨日アップしようと思って書いたこのエントリ。
 でも以下書いてあることは、とってもイタタです。
 宗教的に寛容でない方は、できれば見ないで頂けるとありがたいかな、お互いのために。

 そんなヒト、そもそもこんなトコに来ないでしょうけどw

 つーわけで続きを読む

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食の矛盾を乗り越えることとは

 えーっと、実は、昨日の朝はですね。
 クンバハカについてじゃなくて、アノ存在の正体的な何かについて触れたエントリを上げようと思って用意してたんですが、
 唐突に開眼(ぇー)しちゃったもんだから、今日に回そうということで……


 と、思ってたんですが、
 今日もまた別の書きたい事が出てきたのでそっちをアップします(ぇぇー

 正体的な何かについては、またまた明日に回しちゃいますすんまそん( ̄д ̄;)
 特にコトノハさんが楽しみにしてるのかも?w
 つーかしれっとその予想惜しいっ(何



 では、本題。
 うみさんのブログのこのエントリで、特に心に触れる部分があったんですが、
 コメント欄で返すにはちと長文になりそうだったので、こっちで書くことにしたんですよ。


 それは、さむらいさん、そして、けいさんのコメント。


>ですがすぐに「いや…まてよ」…屠殺よりも苦しんで死んだのかも知れないけれど、鶏肉と何処が違うのか?
>そう思うと、いつも普通に肉を調理して…例えば軟骨や筋を処理する時には「感謝」が無いわけです、確実に食材や料理を粗末に扱ってはいなかったつもりなのに、何か違うなと
>「食」に対して感謝していたつもりでしたが、何だかもっと“根本”で違っていたのかも知れない


>いつも思うのが、植物も生きているから殺生になるのかな?と言う所です。
>それを言い出すと人間は生きて行けなくなりますが、
>人によっては顔があるものを食べるのが殺生だという人もいますし、



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クンバハカ法の体得記

 今朝、起床は午前三時。
 その前に二時半ごろ一度薄く目が覚めて、それから三十分うたたね(二度寝)状態だったんですが、その間に、夢を見まして。

 昨夜、ありがとう仙人さんがブログで、中村天風師の提唱したクンバハカ法について触れられていたのを見たせいでもあるんでしょうね。
 
 夢の中で、このクンバハカ法を実践してたんですよ。


 クンバハカ法ってのは、

 ・肛門を引き締め、
 ・丹田に意識を集中し、
 ・肩の力を抜く。

 この三つを同時に行うことで、感覚刺激に対する精神の過剰反応を防止するというものです。


 でもですね。
 天風師を私淑するたわしですが、恥ずかしながらこのクンバハカ法、
 全然その感覚がつかめないまま長いこと棚上げ、というか忘れてたんですよ。

 それがですよ、今朝夢から醒めて。
 寝起きに自然と、布団の上であぐらをかいて試してみたんですね。


 ああ、なるほど、こういうことか、と。


 どうやら以前までは、方法を勘違いして、余計な力を入れてしまってたみたいです。
 具体的にはたとえば肛門を締めるのに、一緒に大臀筋まで引っ張りあげてた、とか。
 あとは丹田に意識を集中しようと、下腹部に無駄な力を加えてたとか。

 後者については、これまでの瞑想の経験が明らかに効いてます。
 力を入れるんじゃなくて、ただ、意識だけを集中させる感覚が。

 たわしの場合、とりあえずは丹田だけでなく気海もまとめて意識してみてます。
 気海は臍下(せいか・へその下)一寸、丹田は臍下三寸といわれてまして。
 実は若き日の水野南北が、観相の際に意識を集中するポイントとして
 師匠である水野海常に教えられたのもまた、この気海だとか。


 で、感覚を掴んでみてわかったことなんですが。
 言ってみればこのクンバハカ法ってのは、瞑想法です。
 ただ、これまでたわしが入ってきた瞑想よりも、とてもずっしりとした、
 といっても重たいのではなく、非常に安定感の強いエネルギーを感じます。

 要は、チャクラで言うところの第1・第2・第3といったグラウンディング寄りを重視したものなんですね。
 今までのたわしが、第4~第7を主に駆使(?)したチャネリング寄りだったせいか、
 その(よい意味での)ギャップが強く感じられます。


 それにしても、朝イチでこれは大きな変化・恩恵を得たものだ……と、感慨にふけっとります。
 そういえば昨日の仕事は普段より少しハードで、肉体的な疲労が少しあったんですが、
 おかげでかえって脱力して、いろいろ流れ込んでくる下地になってたのかもねーとか。
 これまで経験してきた瞑想の感覚も、またひとつはこれを理解するために必要だったんだねーとか。

 ありがとう仙人さんはもちろんのこと、
 そういった与えていただいた全ての全てに、
 本当に、ありがとうございます。


 あ、そうそう。仕事で思い出した。
 昨日職場から帰宅したら、予約してた引き寄せの法則CDブックが届いてますた(・ω・)ノ
 こっちもぼちぼち体験してみて、何か気付いたことがあったら記事にあげていこっかな。

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呼吸呼呼吸呼吸(太郎)

 ♪フゥワフゥワ(何


 昨日ちょいと人体実験のために大食しまして(ぉ
 おかげで新たにわかったことがあるんですよ。

 それは、「過食は深呼吸を妨げる」ということ。

 正確には、呼吸の「呼」を妨げるんです。
 腹部の膨張感が、腹式呼吸において息を吐くときに物理的な抵抗となるというか。
 見もフタもない言い方すれば、でぶると腹が締まらない(ぇー


 というのもですね。
 「いまここ」に意識を置くために有効な深呼吸。

 この深呼吸には三つのタイプがあるんですよ。


 一つは「呼」優先。
 徹底的に吐ききってから、力を抜いて「吸」は肺に空気の流れ込むのに任せる方法。

 一つは「吸」優先。
 大きく深く吸ってから、力を抜いて「呼」は肺から空気が出るのに任せる方法。

 一つは「呼吸」共に深く行う。
 吸うも吐くも目一杯やっちゃう方法。


 この三つのうち、一番いまここに帰れるのが「呼優先」です。少なくとも個人的に。
 これは「まず手放すことで流れ込む」イメージを養うのにも最適で、また肺ひいては体内に溜まり淀むエネルギーの排出という側面もあるです。



 逆に「吸」優先は、上三つの内では最も望ましくないようです。
 言ってしまえば、「空気を貪り食う」呼吸法なわけで。
 また、淀んだエネルギーは体内に溜まり続けますし。

 大食や肥満によって腹式呼吸を妨げられた状態で、それでも深呼吸をしようとする時、
 たわしの周囲の人々も含めて観察した限りでは、ほとんどの場合、この「吸優先」方式に陥るみたいなんですよ。
 更に、特に肥満体型の人が深呼吸を意識してない時、吐く息が短く、吸う息が長く、そしていずれも浅い傾向がありました。
 大食や肥満が健康を害する理由の一つは、もしかするとここにもあるのかもしれないなぁ、と。

 ちなみにこの辺、スピ的によく言われる「お金というエネルギーの流れ」と同じですよね。
 溜め込もうとすればするほど流れをせき止めてしまい、今度は入ってこなくなるっていうアレ。
 呼吸するのは、空気を吸うのは、生きるためでしょ。
 より生きたいと貪欲に空気を吸って、吐くのを怠れば、
 お金と同じで流れのバランスを損なって、結果、より生きたいという欲望とは逆向きになる、と。



 呼吸共に目一杯やるのは、酸素過多状態になりやすいです。
 ちゃんと吐く分だけ「吸優先」よりはましかもしれないですが、
 しかしたわしの過去の経験から言わせてもらえば、
 うつ病・パニック傷害の時に深呼吸すると、この呼吸になりやすいのではないでしょうか。
 何年も前、当時のたわし自身がまさにそうだったように思うんですよ。
 「落ち着かなきゃ。深呼吸しなきゃ。深呼吸しなきゃ」と、強迫観念的に節度を越えてしまう、そんな感じ。、
 それで仕事中に酸素過多状態で目を回して、仕事にならなくなったケースは数知れずw
 なので、瞑想的活用法としての恩恵は「呼優先」に劣りなどは決してしないとは思いますが、
 この方式では特に、ゆったりと長く行うように心がける必要性が強いのではないかな、と。


 てなわけで、いまここを強く意識するのを意図したとき、
 たわしは「呼優先」の深呼吸をするよう心がけてます。
 大食はその大きな妨げとなるので、腹八分以上には食事せず、貪らないのが望ましいという論拠をまた一つ手に入れた次第。
 

 ちなみに「呼」優先にはもう一つメリットがあって。
 吐く時に、胴体を一本のチューブのように見立てて、それ全体を胴部の筋肉や骨格(腹筋・背筋・胸筋・胸郭など)で細く締めるような感じで力を入れて吐いていくと、腰や背骨が楽になります。
 要は、筋肉などを引き締めることで、コルセットや和服の帯を巻くのと同じような効果になるんじゃないでしょか。

 いや、本格的に腰や背骨に痛みを抱える人に有効かどうかは知りませんよ? 大人しく治療してください( ̄∀ ̄;)
 



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"Now Here" is...?

 終わりはしない。始まってなどいないのだから。
 始まりはしない。終わったものなどないのだから。


 あまねく時間とは、永久であると人は言う。

 時間というものが存在するならば、
 それはいつか存在の始まったものであるがゆえに、いつか必ず終わる。
 しかし、永久に終わらぬものに、そもそも始まりはない。
 時間が永久なのは、それはそもそも、始まってなどいないがため。
 ゆえに、時間という実在は、存在しない。

 時間とはただの概念であり、
 無常に基づく万物の変化量を測る為の、ただの物差しであり、
 社会運営において人々が足並みを揃えやすいよう、
 円滑に営めるように編み出した決め事、無形の道具にすぎない。

 ゆえに、元来時間は人に対する従であり、
 また相対性理論も示すように、時間の流れは一定のものではない。

 つまり、時間とは絶対的存在ではない。
 あくまで無常という根源を表層的に把握するための、
 無限に続く相対という幻でしかない。

 ならば、その無限の幻たる時間すら内包して存在し続ける、
 「Now Here」とは一体、何だろうか。

 それは、始まりと終わりの二元性を超えた存在。
 有限と無限の対極性すらも意に介さない、存在。

 そも、存在という概念自体のない、
 それでも存在としか一語では表せない存在がただ、無にして在るだけ。

 「Now Here」は存在する。ゆえに、存在しない。
 「Now Here」は存在しない。ゆえに、存在する。

 どこにもなくて、どこにでもあるのだから。
 どこにでもあって、どこにもないのだから。

 Nowhere is "Now Here".
 "Now Here" is Nowhere.

 どちらの表現でもいい。
 どちらも正しく、どちらも正しくないのだから。

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