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ヨル・タル・シル

 えっと、初めにちゃんと明言しておきます。

 今回の記事は、特にたわしの偏った主観や自意識、旺盛な批判精神成分をいつもよりも多量に含んでいます。
 なのでそういうのが嫌な人はぜひともスルー推奨。

 そんなの全く大丈夫っつー大人な物好きさんだけ続きをどうぞ。



 でわ。

 唐突ですが。

 大まかに、「にんげん」ってのは、
 次の四つの「ル」で成り立ってます。

 ・フィジカル ―― 物質性、肉体的な健全さ(頑強さとは違います)。
 ・メンタル ―― 心理。いわゆる知情意(知性・情緒(感性)・意志)の働き。
 ・ソーシャル ―― 社会性、外部への敬意や受容性。
 ・スピリチュアル ―― 霊性・精神性。知情意の働きを統合し、バランスを保つ働き。


 いわゆるジャンル的な「スピリチュアル(精神世界)」ってのは、
 この四つのうちの「スピリチュアル(霊性)」に着目して、
 そこへの自覚や関心が薄いために他とのバランスが取れず不健全になっちゃってるから、
 霊性への理解を通じて、この世に生きる「にんげん」としての、
 「『四ル』を総合した」人間性のバランスを健全化しましょうよ、
 ってコンセプトも根底にあると思うんです。


 要するに偏らずに人生を生き切りましょう、ってこと。


 本来的な「宗教」というものも、その根本スタンスはこれと全く同じはずです。


 だけど。

 どんな理念も、忘れ去られたり、
 あるいは曲解されたりすることは往々にしてあるもので。


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「■喜■憂」:■に入る漢字を答えよ

 一喜一憂、プラマイゼロ。

 これじゃ無限の喜びには程遠く。尚遠く。


 山のあな、あな、あな(ry






 閑話休題。



 じゃあ、

 一喜一憂を手放して、一喜一憂しなくなると、どうなりますか?


 零喜零憂?

 それって単なる無感動、無感情、無味乾燥?

 それじゃやっぱりプラマイゼロじゃない?


 普通はそう考えるわけで。

 これまで世間は、みんなにそう教え込んできたわけで。

 だから誰もが敬遠するんだよね。



 でも、それは実は上っ面だけの誤解、フェイクで。



 面白いことにね。

 一旦まっさらの、本当の零喜零憂にたどり着いた時から、

 その後は、零喜零憂にいる間中、

 喜だけが勝手に、一つずつ増えていくようになるんだ。



 零喜零憂が一喜零憂になり、二喜零憂になり、

 気がつくと、百喜零憂になっているんだ。



 面白い法則なんだよね。

 どうしてそうなるのか、

 なぜそんな法則が実際に成り立っているのか、

 その原理は理屈じゃよくわからない。

 でも、そんな不可思議な原理を、

 ある人は「無為」って名づけたんだ。



 だからね、気をつけたほうがいいよ。

 一喜一憂しか知らない人は、

 百喜零憂してる人、無為の人を見ても、

 愚か者だと思って軽んじたり、

 そんなのありえないって疑って否定しちゃったりすることがあるから。


 まあ、仕方ないといえば仕方ないけれども。

 だって、無為を心得た人は、懐があまりにも大きすぎて、

 傍目にバカなんだか利口なんだか、よくわからないものだからね。


 宇宙空間の具体的な広さなんて、誰にも実感できないのと同じでね。

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フラットで格別なすべて

「びっくりするような好プレイが、勝ちに結びつくことは少ないです。
 確実にこなさないといけないプレイを確実にこなせるチームは強いと思います。」

  ――イチロー



「神懸り」な自分を神懸りだと喜んでしまう間は、

 それ以外の時の自分を見下している。



「神懸り」な他者を神懸りだと讃えてしまう間は、

 それ以外の時の他者を見下している。



「神懸り」を賞賛するほどには、

「神懸りでないもの」に讃嘆随喜するのは容易くない。



 ドラマへと心踊らされず、

 波乱万丈へと心揺らされず、

 自他に対して誠実に、

 今、つとめて目の前の事に心を置く。


 格別であれ、と自分(他人)に求めようとせず、

 格別であるな、とも他人(自分)に求めようとしない。



 そんな日々の人生を送っていない限り、

 どんな局所的な「神懸り」も砂上の楼閣、あるいはただの蜃気楼に過ぎない。
 

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内にある自戒の部分

 えっとまあ、そんなわけで。
 今個人的な二つの自戒が、とんでもなくタイムリーに、
 シンクロ的な形で訪れて、ありがたくも示唆してくれてます。



 まずひとつが、ありがとう仙人さんの今日のエントリ
 これついさっきアップされてるの見つけて、正直そのタイミングの良さに驚いたんですけどね。

 ご存知の方も多いでしょうが、
 このお話、故事成語「人間万事塞翁が馬」の語源です。

 価値判断、評価、定義、分類、レッテル貼り、解釈、分析、ジャッジ、

 それらを行わないことで、幸せも不幸も消滅する。
 だけどそうすることで初めて、本当の意味での幸せが顕になるという、
 逆説の真理を理解している老人のお話です。

 現在に至ってたわし自身が抱き描く生き方、在り方の、
 ある意味最も大きな柱の一つってのが、まさにこれと同じものなんです。

 ちなみに、
「禍福はあざなえる縄の如し」って諺がありますが、
 これはまだ判断と二元性の世界の中にいます。
 だから、心がこの領域にある限り、決して不幸はなくなりません。
「人生楽ありゃ苦もあるさ~」ってのも同じです。

 閑話休題。

 つまるところ、喜び、感動はしても、浮かれず、
 いや、浮かれても全然構わないんですけど、
 ただ「いまここ」から遊離してしまわないよう、
 過去や未来や観念や判断を手放し、リラックスし続けていようね、と。自分へ。
 要は、全てが「今=現在=present=贈り物」ですよ、ということなんです。




 そしてもうひとつは、この写真。

昔ガンジーと鑑真って同一人物と思ってた(ぇー

 いつぞやの店内陥没の店近くの寺の、掲示板です。
 これを見つけて撮ったのが、一昨日のこと。
 予言的という意味では、思い返せばこちらの方がインパクトは強いかも。

 (ちなみに件の店はまだ閉まってました(ぇー
  ただシャッターから店内陥没の張り紙は消えてたけどねっw)

 ……この数ヶ月、たわしに訪れてくれた流れは、
 自らを苦に縛りつけようとする観念を手放す感覚を根付かすために、
 観念を自覚させる状況を与えてくれる、これまた贈り物の連続でした。
 それは決して、表面的には嬉しいものばかりじゃありません。
 むしろ、世間的にはネガティブな感情を伴うものの方が圧倒的に多いです。
 まあ幸いにもというか、大きな事件事故は一切無く、日常の些細な出来事からそれらを拾い上げてこれたのが、思い返せば嬉しくもあるんですが。

 ともあれ、R・バッジョ風に言えば、「仏陀からの究極の問いかけ」なんです。

 というか、(特にネガティブな)観念が浮かぶそのたびに、つねに問いかけられているんですね。
 それをようやく悟れたっていうのが、まずこの休止期間中の収穫の一つ。

 それを踏まえて、今回のような状況的変化が訪れたことで
 自分の内深くに眠っていた、忘れていた遠い過去の観念が浮上し、ある意味で新たに向き合わされています。
 言い換えれば、新たなステージに進む準備ができたから、実際に進んで、さらに手放していきましょうね?っていうコズミックティーチャー?wの新学年講座開始w

 でも結局は、やること(根本的な正答)は同じなんですよね。

 いまここにある。それだけ。

 自我にかまわず、思いを眺めて流し、観念を手放す。

 うれしければうれしがり、楽しければ楽しがる。
 でも本質的な部分では一喜一憂せず、流れを信頼し、ゆだねる。


 ……と、一つ目の示唆とかぶるんですが、
 ここまでが、これまで自分が精神的に在らせていただいた道でした。

 それ自体は、今後も基本的にはそれほど大きく歪む感じはしていません。

 が、同時に。
 新しいステージでは、何やら追加要素があるようでして。
(追加といっても結局は同じところに帰結する、ってのは分かりきってるんですけどね)

 これまでは比較的、自分が既に幸せであるのを前提にするだけでよかった。
 でもこれからは、それだけじゃない。

 まさに掲示板のガンジーの言葉、そのものを問われているというか、
 あるいは問うというか、確認するというか、その配慮も持っていくんだよ、
 という示唆だったのかもしれません。

 あるいは。
 自分が幸せであることは最早当然。
 君はもうすでに、この世というゲームの次のエリアを十分楽しんでいけるようになってるんだから、ためらわなくていいんだよ、と。

 前エントリでちらっと触れた、三次元における成功と貢献への意識にも、さりげなく繋がりますけどね。



 ま、そんなところです。
 現象は現象として置いといて、
 あくまでたわし個人の在り方、内的な姿勢を確認させていただいた、という観点からの徒然でした。



 ああ、まとまりもとりとめもないのはいつものことだからキニシナイ ホジホジ( ̄δ ̄ )(ぇー

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変わらない信号はない

『赤信号 みんなで渡れば 怖くない』

 ……なんてたまに言われますが。

 ちょっとタチの悪い印象で用いられるんでしょうけど、
 実はこれ、まだマシなほうでして。

 だって、
「赤信号はほんとは危ないから渡っちゃ良くない」
 ってことを一応自覚してますもん。

 見渡す世間の内、多くの人々には、
 むしろこっちの標語(?)が当てはまるんです。

『赤信号 みんな渡ってるから 渡れって意味なんだね』(超字余り)


 怒る
 怒鳴る
 威張る
 愚痴る
 文句を言う
 不平不満を言う
 悪口を言う
 陰口を叩く
 嫉妬する
 嘲笑する
 いじける
 羨む
 貪る
 侮る
 騙す
 奪う
 暴力を振るう
 こき下ろす
 尊大に振舞う
 他人を糾弾する
 自分を卑下する
 他人を見下す
 自分を責める
 他人を責める
 他の何かに責任転嫁する
 自分を運命の被害者だと思い込む
 自分を悲劇の主人公だと思い込む
 世界の全ては私の敵だと思い込む
 過ぎたことを後悔する
 未来の状況を不安がる



 全部、赤信号。

 たくさんの人々が、それでも渡ろうとする。
 渡ろうとして、もれなく車にはねられて、痛い目見てる。

 でも、やっぱり赤信号は渡らなきゃいけないんだって思い込んでるから、また渡る。

 渡って、渡りきった先に、
 素敵な素敵なご褒美が、幸せが待ってるって思い込んでるから、また渡る。


 でも、それで向こう岸に辿り着いた人なんて、いないんですよね。
 そもそも「向こう岸」なんてどこまで渡っても見えないんですよね。
 なのに、なんで「向こう岸に幸せがある」なんて、わかるんだろ。


 それは、
 偶然はねられずに「独自の目標に決めた距離まで渡った」人が、
 「ああ、俺はここまで渡ったぞ! やったぞ!」
 って、一時の達成感・解放感を幸せと勘違いして、そこでバンザイしてたから。

 他のみんながそれを見て、
 羨ましがったり、「よーし俺も!」と意気込むから。
 あの場所こそが向こう岸なのだと、こぞって目標にするから。


 そこはまだ、車道のど真ん中なのにも関わらずね。



『山のあなたの空遠く、幸い住むと人のいう
 噫(ああ)、われひとと尋(と)めゆきて、
 涙さしぐみ、かえりきぬ
 山のあなたになお遠く、幸い住むと人のいう』

(カ-ル・ブッセ 作/上田敏 訳)




 だけど、そうやって無数の人がはねられていく中、
「あれ? なんかおかしいんじゃない?」
 って疑問を抱く人が、僅かながら出てくる。


 更にその中から、この疑問を真摯に受け止めて、
「もしかして、赤信号って渡っちゃまずいんじゃない?」
 って仮説を打ち立てる人が、僅かながら出てくる。


 更に更にその中から、この仮説を誠実に検証し続けて、
「あ、やっぱり赤信号って、渡っちゃいけないんだ!」
 って確信と結論を導き出す人が、僅かながら出てくる。


 それが、「目覚め」の始まりです。


 そして、渡っちゃいけないんだという結論を、
 それまでの「渡り癖」と問答しつつ、地道に実践していくことで、

 時々焦りながら、でもやっぱり焦らずに、
 ゆっくりじっくり、少しずつ力を抜く術を身につけながら、
 ただただ、「渡らない」「その場に在る」という実践をしていくことで、

 いつしか気付くんです。


「ありゃ。渡らなきゃ幸せじゃん」



『赤信号 渡らずにいれば 青になる』



 ♪とーぉりゃんせーとーりゃんせー

 ちなみに青信号の中には、が描かれてます。

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