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めくります。

<人生を 楽しむ人は 観自在>

 今朝海にログインして、鬼絵さんとの話の中でふと、そんな一句が浮かびました。


 仕事、というか生業を遊び(あるいはゲーム)と捉えることができる人は、いろんなことを楽しみながら生きられます。
 そんなことはできない、そんな風には考えられない、とほとんどの人は言うかもしれません。

 本当は、人生に仕事も休みも存在しません。
 仕事と呼ぶものも休みと呼ぶものも、その全てが、「人生」です。

 ただ、人間の意識がそれを細かく切り取って、それぞれに仕事だ休みだと名札を貼り「定義」しているだけに過ぎません。
 「できない」という人は、単にその原則に気づいていないだけです。
 気づいていても、戯言や屁理屈と考えて認めていないだけです。
 別に批判や否定をしているわけでもなければ、そのつもりもありません。
 良いとか悪いとかの話ではなく、単にそうである、というだけです。

 もちろん、仕事と休みを分けて捉え、そのメリハリからやり甲斐を見出しているのなら、それはそれでとても素晴らしいと思います。

 でも、少なくとも自分の周りを見渡す限り、メリハリをつけているつもりであろうがなかろうが、大多数の人はそうであるようには見えません。

 その人たちにとっては、仕事は生活のために不本意ながらも従事しているもので、更には休みも結局のところ次の仕事のための骨休めに過ぎません。
 つまり無意識のうちに休みも仕事の内と捉えてしまい、結果休日にも息を抜ききれずにいるのです。
 それでは、いつまでも疲れっぱなしなのも当然です。


「観自在」とは、「観ること自在」。
 観音菩薩の別名である「観自在菩薩」の観自在です。

 それは、あらゆる固定観念なしに、「あるがままの物事」を観ることができるということ。

 観念とはつまり、「あるがままの物事」に対して人が意識の中で下す、「評価」や「定義」や「価値判断」です。
「これは仕事で、あれが休み」これも観念です。
 そして「その観念によって定義された価値こそが現実である」と、それが確固たるものであると無意識的に決め付けてしまうのが、「固定観念」です。
「この価値こそが当然である」という「固定化された観念」です。
「この物事にはこんな価値があるのが当然で、当たり前である」という観念を何度も何度も何度も頭の中で繰り返してきた(あるいはそういう情報に触れ続けてきた)結果、固定化されてしまったのです。


 固定観念は、大なり小なり、あからさまなものから一見そうは見えない巧妙なものまで、人間社会のあらゆるところに普遍的に存在しています。
 むしろ、人間社会の構造は現状、固定観念によって構築されているといっても過言ではありません。

 上で挙げた「大多数の人」はおそらく、この固定観念という「色眼鏡」を通して見た物事を、絶対的な現実だと思い込んで疑っていません。
 その思い込みが、「いつまでも疲れっぱなし」…ひいては、幸せでない(不幸な)状況を継続させています。

 逆に、「観自在」つまり色眼鏡を介さずあるがままに物事を見られる人は、同時にあらゆる観念=色眼鏡を自在に入れ替えて物事を見ることもできます。
 多くの人が「不幸だ」としか捉えない出来事を、観自在の人は「幸いだ」とも「幸でも不幸でもない、ただの出来事だ」とも自然に、自由に解釈することだってできるのです。
(もっとも、自分でも気づかないほど固定観念にどっぷりとらわれちゃってる人からすれば、「そんなことできるもんか」と思うかもしれませんが…)


 なら、「あるがままの物事」とは何なのか。

 それは、いかなる物事においても、それを「物事という枠組み」に捉えてある以上は存在します。
 とはいえ「定義の外にあるもの(禅でいうところの不立文字)」なゆえに、言葉によって「定義」してしまうと、矛盾しているようにも見えてしまいます。

 それでもあえて、上の「仕事と休み」で自分なりの回答例を出すなら…

 これも既に上で書いてますね。
 「人生」です。

 自分としては、しばしばこう考えています。
「人生というお仕事の余暇に、労働という趣味に従事している」
(言葉にすると前後の話と噛み合わない印象を受けるかもしれませんが、字面にとらわれず、裏に流れている感覚を汲み取ってもらえるとありがたいです)


 とにかく、繰り返しになりますが、いかなる物事も「あるがままに観る」ことは可能です。

 日々の生活の中でその原則を見出し、理解したとき、それまで「自分は幸せでない、不幸だ」と漠然と思っていた人は、その不幸は外部の物事によってもたらされていたもの(=自分が被害者)ではなく、不幸の原因を自分自身で後生大事に握り締め続けていた(=自分が加害者)であったことに気付けるかもしれません。

 というか、いつかの自分がまさにそうだったなぁ…と、ふと思い出したクリスマスの朝のひとときでした。
 全ての存在に、感謝。


 ちなみにタイトルはメリークリスマスの略だから!(台無しだー

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