そんなこんなで。
昨日はさんざっぱら電波カーニバルな戯言を、
産廃不法投棄ばりに垂れ流させてもらっちゃったわけですが、
今更ながら、あれ全部、
(; ̄Д ̄)<妄想ですから!(ぇぇー
(c)m●caさん
いやぁ、ぶっちゃけね、そのくらい恥ずいww
天照さん絡みについても、後出しじゃんけんと受け取られちゃう恐れがあるのはどうしても否めないし。
けどね。恥ずい以上にどういうわけか、
全部明かして吐き出して、すっごくスッキリというか、心が楽になったんです。
今まで誰にも言ったことなかったことだったからかもしれないけど。
そもそも、後出しじゃんけん扱いされる可能性も、もちろん始めから承知の上。
始め(一気に書くと決める前)は、その点正直踏ん切りがつかなかったんですが、
川´ー`)「後出しだろうが先出しだろうが、わしらの次元では全く関係ないぞ」
なんて言われたり。
更に公開を決意した一昨日から昨日書き終えるまでのたった二日間に、
度々繰り返しこれでもかと目にしたエンジェルナンバーがありまして。
それは「555」、そして「1&7」。
自己顕示欲かもという不安だって、そりゃぁありましたよ。
だけど、書き上げて公開してみて、ようやく改めて明確に察したことがあるんです。
まずこうしてブログに人目に触れる形で、今自分が触れている要素を、書きまとめる。
いわばのっぴきならない状態に自分を追い込む。追い込んで、一時的にでも自分への枷を外す。
この全てが、現段階の自分にあるエッセンスを再整理・再確認するための手段だったと。
同時に、その再構成によって、また新たな創造を進めていくための一プロセスだったと。
思えば、それをはじめから川´ー`)に促されてたわけで。
だから、あんな風に書いたのも全部、原則的に、
『自分のため』
なんです。
『自分が幸せであると認識し続ける』
という信念に基づく方法論の、一環なんです。
どこまでいっても、自己中心的なエピキュリアン。
それが「私」という人間稼業、その現在の奥底です。
とはいっても、そうしてできた落書きが、もしかしたら誰かの役に立つかもしれないね、ってのもあるにはあります。
見知らぬページで目にした何気ないワンフレーズで、大きな気付きを得たこともある自分のように。
とはいえ、そっちはたわしの責任範囲を超えますから、どうにもできません。
だから、どうにもしません。
しかし。
たった一つ確実に言えること。
今回、川´ー`)について書いたその直接的動機でもあるんですが、
最初ユウさんとこで天照さんの話題が出たとき、
「ああ、一つはこういう繋がりで、縁で、
今ここに巡りあわせて頂いて、辿り着かせて頂いているんだなぁ」
というのを、真っ先に実感したんですよ。
しかも、その話題は一箇所に留まらず、連鎖して広がっていったのを目の当たりにして、
「この『縁』という無限の樹形図を自分で留め置くのは、なんか違うんじゃないか?」
そんな衝動がわき起こったわけで。
いくら縁あって根っ子で繋がっていても、現世的には言葉で言わなきゃ伝わらないですから。
普段は「言葉」というものに対して批判的な物言いの多いたわしですが、
しかし言葉を否定するわけではないし、否定しようもないし、
むしろとても重要なファクターであるのは疑いようもなく。
「始めに言葉ありき」
その一原則の再確認、という意味合いもあったと思います。
……とまあ、丸一日かけたご乱心の結果、
私的には結構な恵みを頂いて、誰にとも何にともなく感謝を捧げる次第です。
ありがとうございます。
あ、最後に一つだけ。
「太陽であれ」ということについて。
こう聞くと、
「それじゃ自分も太陽にならなきゃ。光り輝いて周りを照らさなきゃ」
って意気込む人もいるかもしれません。
いやいや、そうじゃないんです。
きっかけとしてはそれでもアリなんですが、そうあり続けるのは本質的に姿勢がズレてるんです。
一言で言うと、順序が逆なんです。
目的と手段が摩り替わっちゃってるんです。
太陽になろうとするのではなく。
太陽になろうと努力するのでもなく。
太陽に「なる」という「Do(やり方)」ではなく、
太陽で「ある」という「Be(あり方)」なんです。
自分が光源になることで喜びや幸せが増すのではなく、
喜びや幸せを認め感じ続けることで、光源になっていく。
周りを照らすという目的のために、自分が光り輝くという手段を得ようとするのではなく、
自分が光り輝くことこそが、実は目的そのものである、ということなんです。
光り輝くこととは言わずもがな、
『喜ぶこと・嬉しがること・楽しむこと・幸せだと認め感じること』
それも、過去の喜びでもなく、未来の楽しみでもなく、
今、この瞬間の幸せを。
それは、人によって様々なバリエーション・シチュエーションで、
それこそ手の届く範囲に無数に存在するはずです。
そんな、日常という、ダイヤモンドの細粒で作られた砂浜を、
ただの砂浜ではなく、実は宝の山であると見抜けるようにするための一方便が、
たとえば宗教とか精神世界とか呼ばれるものだったりするわけで。
更に言えば。
精神世界的、宗教的な示唆を突き詰めて血肉にしていくと、
いずれ辿り着くのは、
「ただ、在ることの至福」
「ただ、在ることへの感謝」
となります。
これは頭で考えている内は本当に感得できるものではないのもまた確かですが、
しかし、頭で考えること自体が入り口になる場合が多いのもまた事実です。
なので、たわしも含め様々な人の文言を見聞きしてきたけど、全然根っ子が理解できないー、
って嘆きがちな人は、気にするこたありませんし、また気にしたいだけするのがいいです。
なぜって、
感得しようがしまいが、「在る」という根本に決して差はないですから。
「気にする」「嘆く」ということ自体も、元を辿ればダイヤモンドの砂粒には変わりないんです。
それに、「在る」ということは「定形」ではありません。
この世の根本原則の一つは「諸行無常」
全てのものは常に一切静止することなく変化し移り変わり続ける、ということ。
、だからその「嘆き気にする状況」がこの先続くかどうか、それ自体、とても怪しいものなんですから。
ま、こんな拙い言葉を読んで感得に達するような奇特な人がいるかどうかのほうがよっぽど怪しいですがw
そんなわけでどんなわけだ。
吐き出すもん吐き出してスッキリしちゃったんで、この先はまたマッタリグダグダのんびりとした更新モードに戻ります。
とはいえ気まぐれで何やらかすか知れない部分もありますが、それはそれで生温かい目で放置プレイしていただければ。(´д`*)アァン
川´ー`)「変態じゃの」
自称変態術師ナメンナー! ヾ(#`д´)ノ(ぇー
ぽぽ 2011年01月27日(Thu)15時41分 編集・削除
初めまして。
こんなにも意を決して書かれていたとは。読みやすい文章なので昨日の4部作もすらすら読めました。
たくさんあるブログの中でも自分が読みやすい文章に出会えるってあまり無いので、毎回楽しませてもらってます。
以前書かれていたインナーチャイルドのところで何かを感じたので、私もやってみましたらすごーーく自分が怒ってるのがわかりました。きっかけをありがとうございます。