これは、いわば何の変哲もない物語。
血沸き肉踊るような大冒険などない。
縦横無尽に繰り広がる大騒動もない。
難解不可解迷宮入りな大事件もない。
ひどく胸を締め付ける大恋愛もない。
驚天動地の大どんでん返しすらない。
ただ普通よりちょっとひたむきに日々を過ごすだけの面々が、
それでも得難き大切なものを、少しずつ手に入れてゆく……、
そんな、物語。
■プロローグ ―― 魔法少女に出会った日
逆上がりが、できなかった。
いや、運動神経はむしろ、学年でも飛びぬけて優れていた。
遊びでも体育でも、どんな競技だってエース級に活躍できる、切り込み隊長的存在。
そんな、小学三年生だった。
ただ二年の時、体育で自信満々に挑戦した鉄棒で、失敗。
それからというもの苦手意識が先に立ってしまい、逆上がりだけはどうにもコツが掴めないままでいた。
ある日、クラスメイト達の間で、逆上がりができるできないの話題になった。
自他共に認める運動少年だった彼は、つい『俺はできる』と見栄を張ってしまった。
次第に少年の想定外に話題は膨らみ、ついには実際に皆でやってみよう、できる人はできない人に教えようという運びになった。
困ったのは少年。
しかし今更退く訳にもいかず、結局皆の前で逆上がりができない事実を露呈してしまった。
当然できると思われていた、そして自らもできると豪語した少年の真実に、必然的にクラスメイトは白い目を向けた。
そしてくだらない見栄を張った後悔と共に、幼い彼のプライドは大いに傷付いた。
とはいえ、少年は負けん気も人一倍強かった。
一念発起。放課後になると遊ぶのもそっちのけで自宅近くの公園に入り浸り、特訓を開始した。
マメができ、手の皮がむけてもとにかく体当たり、日が暮れるまで練習し続けた。
そんな日がしばらく続いたが、逆上がりは一向に成功する気配を見せなかった。
始めは鼻息荒く挑んでいた少年の心も、次第に萎れはじめた。
他に誰もいない公園。たった一人で挑み続ける自分が馬鹿らしく思えてきた。
鉄棒を握る手も、地面を蹴る足も、心を反映して少しずつ無意識に力を失ってゆく。
自慢だったはずの運動能力にも自信が持てなくなり、今にも諦め、折れかけながら、
(あと一回だけ、やってみてできなかったら……もうやめよう)
心の中でそう決めて、鉄棒を強く握り直し、息を吸い、意を決して。
思い切り地面を蹴って、脚を振り上げた。
視界が縦に回り、空を見て……振り子のように前に戻った。
靴底が地面を打ち、鉄棒からぶら下がる格好で、少年はしばらく呆然としていた。
こうなるのは解っていた。やっぱり自分はダメなんだ。
自己卑下と挫折を噛み締め、鉄棒から手を離そうとした、
――その時だった。
「おい、君」
毅然とした声と共に、彼女が現われたのは。
小学校高学年くらいだろうか。やや年上な感じの少女は、いつの間にか少年のすぐ傍に立っていた。
そよ風に、喪服らしき漆黒のワンピースの裾とセミロングの艶めく髪が揺れていた。
歳に不釣合いな程、涼やかで繊麗な少女だった。
夕焼けの逆光の中、切れ長だが大きく爛々とした瞳が、ぶら下ったまま屈む少年を鋭く捉えていた。
胸元には、五百円玉ほどのコインにも似た、美しい白金色のブローチ。
その輝きが、彼女の神秘的な佇まいにアクセントを加えていた。
唐突なまでに現れた、凛然たる姿。
少年は先程までの絶望感も忘れ、しばらく思考を失っていたが、
「君はやり方を間違っている。その方法では何度やっても逆上がりはできんぞ」
再度浴びせられた少女の言葉に、ハッと我に返った。
「君、懸垂はできるか?」
少女が間髪入れず尋ねた。
相手が年上なせいだろうか。少女の口調はともすれば高慢で高圧的だったが、有無を言わせぬ雰囲気を感じた少年は素直に頷き、その場で一回懸垂をして見せた。
「ん、おお、すごいじゃないか。さすが男の子だ」
年上女子の思わぬ賛辞に、面映くなった。
少女は満足げに一つ頷くと、どこか力強さの滲む微笑で少年を見つめ、言葉を続けた。
「よし、それができるなら逆上がりも必ずできる。私の言う通りにやってみろ。腕が伸びたり、鉄棒を胸に引きつけると、体を回すのに途方もない力が要る。だからまずは鉄棒を腕で強く腰か下腹にぐっと引きつけろ。そうだ」
まるで見えない何かに操られるかのように、少年は指示のままに体を動かしていた。
諦めは、いつの間にかどこかに消えていた。
「次は足だ。君は単にぐるっと回ろうとして足を前や斜め上に振り上げてばかりだ。それでは振り子のようにまた落ちてしまう」
言われて気付いた。
今までガムシャラに練習してきたが、明確に自分のフォームを意識した事はなかった。
ただ漫然と、水車のように回転すれば良いのだとどこかで思っていた節があった。
「逆さに上がると書いて逆上がりと言うくらいだからな。斜めに振って回るのではない。真上に腰ごと蹴り上がる感覚でやるんだ。腕で鉄棒に腹をひきつけながら、そう! そうだ!」
少女の助言のままに、少年は腕力で棒に体を引き寄せ、同時に無我夢中で脚を真上に伸ばして上げた。
無意識に踏ん張って、そこでやっと逆さまに体を支持している自分に気付いた。
「そのまま足を前に、上半身を後ろに振れ! そうすれば勝手に回る! よし!」
後は簡単だった。
視界が縦に三百六十度流れ、少年の足が地面についた。
「やっ、た……?」
初めて逆上がりができた。しかも少女のアドバイスだけで。
呆然と呟いた少年にとって、それはまるで魔法の呪文のようだった。
「よし、よくできた! よくやったぞ!」
あまりにあっさりと成功したせいで持てずにいた実感が、少女の熱のこもった歓声で、ようやく湧いてきた。
「やった……やった、やったよ! うん、できた!」
「そうだ。元々君には逆上がりをするのに充分な力があった。ただそれをうまく使えていなかっただけだ。君には力がある。自信を持つといい」
「うん! ありがとう!」
少年は思わず、弾けるような満面の笑みで頷き、感謝を告げた。
すると少女は何故かハッとした顔をして、
「う、うむ、良いありがとうをもらった。私も教えた甲斐があったというものだ。こちらこそありがとう」
そう応え、今度はその子供らしからぬ美貌にたおやかな微笑を浮かべた。
「あ。えっと、ところでお姉さん、誰?」
「え……」
ふと浮かんだままに口にした少年の疑問に、少女は鳩が豆鉄砲を食らったような顔をして、僅かに口篭った。
そして、
「……わ、私が誰かなどというのにはさしたる意味はない。そうだな……しいて言うなら、通りすがりの……魔法少女、とでもいったところだ……な」
茶化し気味の誤魔化しを大真面目な表情で言い切ったものだから、少年は勢い納得してしまっていた。
何より彼にしてみれば、確かに少女の言葉は魔法そのものだったから。
ただ、少女の頬が仄かに紅く染まっていたような気がしたのは……逆光のせいだったのかのかもしれない。
「そ、それよりもだ。さあ、その感覚を忘れない内に繰り返し練習するといい。そうすれば必ず君の身につくはずだ」
「うん、ありがとう!」
再び笑って感謝すると、少女はまたえもいわれぬ顔をした。
しかしそんな少女の機微は、もうどうでもよかった。
挑戦を再開した少年には、もう、鉄棒しか見えていなかった。
嬉々としながら時間も忘れて練習に励み、やがて陽が沈んだ。
同じくして、完璧にマスターできたという確信が持てた時、気がつけば少女はいなくなっていた。
名前を聞けなかった事が残念だったが、しかし少年の心はどこまでも晴れ渡っていた。
それが、
諦めなければいつかは目的の場所に辿り着けると知った、
その少年……陣内拓実(じんない・たくみ)にとって生まれて初めての、経験だった。
...To be Continued...
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ponsun URL 2011年11月01日(Tue)08時08分 編集・削除
陣内拓実くんの体験
状景が目に浮かぶようです
天使のような魔法少女
時を超えて、今でもどこかで
活躍しているのでしょうか
ありがとうございます