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■第3章:ちょっとだけファンタジー ―― 第14話
拓実の意識が、時間を遡行する。
かつての自分が、目の前にありありと蘇っていた。
「ある日な、この鉄棒で男の子が逆上がりの練習をしていた。何度も挑戦するが一向に上手くいく気配がない。それはそうだ、フォームから完全に間違っていたのだからな」
拓実は、無言であずさを見つめ、その言葉に耳を傾け続けた。
まるで、ナレーションを聞いているかのような感触で。
そして、いつかの自分の前に現われた人影が、今また、鮮明に。
「私は遠くからしばらくそれを観察して、どうしようかと悩んだ。何もせず立ち去るべきか、それともアドバイスをするべきか。悩みに悩んで、勇気を出して、アドバイスする事にした。そして私にはそうする事ができた。なにせ逆上がりについてとことん研究してきたからな」
欠片の違和感もなく、重なる。
漆黒に染まるワンピースの少女と、対照的な淡いワンピースに身を包んだ乙女が。
「その時の私はえらく緊張してな。今思えばとても生意気な事を口走ってしまったような気がするが……それでもその子は、素直に私の言葉に耳を傾けてくれた」
あずさの横顔は優しく、愛しげで。
この不可思議極まりない感覚を、とても心地の良い……いつまでも浸っていたくなるものへと、彩色してくれる。
「そうしてその男の子は、助言だけですぐに逆上がりを成功させてくれた。そして気付いたんだ。もし私が逆上がりを苦もなくこなせる人間だったら、こうしてその男の子の役に立つことができただろうか、と」
拓実の目の前の自分が、笑った。
少女の見守る中で、回った。
「私が無駄な努力だったと思っていたものは、実は大いに有益なことだった。学ぶという事に、本当に無駄なものなんてないのだと、その時私は知ったのだ」
そして黒の少女は、去っていった。
一陣の風のように、どこへともなく。
「恥ずかしながらな、その子に笑顔でありがとうと言われたのが胸にしみてな、涙が堪えられなくて私はこっそりその場から逃げ出してしまった。……それが産まれてはじめてだったんだよ。誰かに心からの笑顔で、ありがとう、と言われたのはな」
砂が風にさらわれるように、拓実のその感覚は薄れていく。
気がつけばあずさが、どこまでも透き通る……澄み切った瞳で、拓実を見つめていた。
「……私はな、陣内。たくさんのありがとうを集める事と、たくさんの人が幸せを感じる事は、ほぼ同義だと考えている」
夕暮れの朱を孕みはじめた陽光が、やんわりとあずさの瑞々しい頬を照らす。
「そして、私自身に、いや誰にだってそのための力は備わっていると信じている」
そっと己の胸に手を当て、彼女は他ならぬ自分にそう言い聞かせるように。
「それらを体現し、証明するために作り上げた場所なんだよ、うたいしえあ部は。もちろん、それだけが目的ではないが……まあ、そっちは君達にはどうでもいいことだな」
忘れてくれ、と苦笑交じりに呟き、あずさは空を見上げた。
朱と灰色のグラデーションに彩られた細長い雲が、ゆっくりとたなびいていた。
...To be Continued...
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ponsun URL 2011年12月19日(Mon)08時44分 編集・削除
たくさんのありがとうを集める事と、たくさんの人が
幸せを感じる事は、ほぼ同義だと考えている
同感してしまいます
ありがとうと幸せ
切っても切れない関係、ですね
ありがとうございます