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なんか登場した

 わーい久々にコメント入ったーw
 みったまん&コトノハさんありがとございまする&今年もよろしゅうおねがいしますーm(_ _)m


 コメント欄で返信しようかと思ったけど、せっかくなんでこっちで書こうかな。


>すげー高い本買ってみようかしら。

 ビビっときたらその直感は信じていいんだっ!w

 まー、信じる信じないは横においといて。
 一万円する本だって、ジャンボ宝くじ30枚買うのとそれほど金額変わんないわけで。
 本に限らず、そういった「自己投資」で「自分自身が宝くじになる」方が、
 自分もお金もより喜ぶお金の使い方なんじゃないかなーって常々思っとります。


 
>いまだに苦しい気持ちで過ごすことも多いので、

 やー、だいじょぶです。
 たわしも苦しいと評価できる心の状態に襲われることはちょくちょくありますw
 ぶっちゃけ、目が覚めるのを経験したらそれで一切の苦悩がなくなる、ってわけでもないです。
 ただ、その苦悩が幻であることは知っているので、自分から望まない限りはどんなに苦しくても一線を越えることはない、って感じです。

 だから、目覚めを知って後、より多くの瞬間を目覚めた状態でいるように自分を調節していく、そこに邁進する。
 たわしは今まさにその途上ってところかなと。
 だって目覚めた状態の方が気持ちいいのは確かなんだから。ある意味快楽主義者ですw

 禅ではこれを「悟後の修行」って言うそうですね。
 なんでも、「悟ってからが本当の修行であり、修行とは本来悟った後にしかありえない」だとか。


 そうですねぇ、参考になるかどうかわからんですが自分のケーススタディ的な何かでもつづりましょうか……。

 続き


 いわゆる「いまここ」とか「空(くう)」とか「目覚め」とか呼ばれる感覚ってのは、
 うさんくさい言い方に聞こえるかもしれませんが、「大いなる存在」との繋がりを実感している状態の時に訪れるものです。

「大いなる存在」って表現がいやなら、「宇宙」って言い換えてもいいかと。
 結局呼び名が違うだけで本質は同じなんで。

 そこへは、「今、この瞬間」に意識を集中することでしか到達できません。

 そして、「今、この瞬間」に意識を集中するためには(現段階の自分が知る限り)思考の活動を沈静化させる必要があります。

 細かい仕組みは省きますが、思考が活発になりすぎると、ほぼ例外なく「過去」や「未来」に意識が飛んでしまうため、「今、この瞬間」に集中することなんて土台無理なわけです。

 更に言えば、不安や恐怖などのあらゆるマイナス感情は、この「過去」や「未来」への思考と意識の飛躍が原因なわけですが、それはさておき。



 ちょっと前になるんですが。
 実を言うと大晦日までの数日間、その感覚になかなか戻れずにいたんですね。

 禅でいう、「有漏地(うろじ)」の状態。
 言い換えれば「思考の荒波」だらけ、めくるめく有漏地フィーバー。

 ちなみに有漏地の対義語は「無漏地(むろじ)」。
 何が漏れるのかって? 思考の暴走によって根源的な生命エネルギーがだだ漏れ同然に浪費されるのさね。


 てなわけで、それをどうにかしようとああでもないこうでもないと知識を総動員して、でもやっぱりうまくいかなくて。
 次第に「あーもう、あの素晴らしい愛をもう一度!(違)」と、もどかしさに過去の清々しい感覚が恋しくなってくる始末。

 それがね、元日に目が覚めて朝一でトイレに行った途端、

川´ー`)「それは精神の物質主義じゃよ」

 と“あちらさん”からガツンと言われまして。Σ( ̄Д ̄ )ハッ!

 要は、「経験を記憶に固めて持ち歩いてた」んですね。
 「経験」と「記憶」、言い換えれば「過去」であり、「非実在の幻」です。「今、この瞬間」なんかじゃありゃしません。

 しかも、それと同時に気付いたのが、よくよく思い返せばそのメッセージ以前に何度か、別の形で示唆があったという事実。

 でも、気付けてなかったんですねこのニブチンは。
 あーまたやっちまってたなぁ、と思いつつ、だけどその「気付き」はやっぱり「学び」なわけで。

 繰り返す学びによって成長、というか本来の形へと戻っていく、全てがそのプロセス、例えるなら「教材」。

 幸いにして、自分はそれをこれまで“あちらさん”に何度も叩き込まれてきて、その事をそれなりに察せられるようになりました。


 とはいえ、その渦中にいる時は、なかなかそれが「教材」だと気付けないことも未だによくあります。

 だけど、それでも大丈夫なんです。

 教材だと気付けたなら気付けたなりに、気付けないなら気付けないなりに、学びになるようになっているから。

 だから、蛇足かもしれないけど、自分が闇にいると思っても、それは闇でいいんです。
 むしろ、闇の中だからこそ星の光が見えるわけで。


 まあ何にせよ、どんな変化も結局は大丈夫だとわかっているからこそ訪れ来た恩恵、と感謝して身をゆだねるのがベストかと。
 どこへ着くかは風次第。
 戻るところは皆一緒。


 どうでもいいけど、あれはほんとにここしばらくでは一番徹底的なスパルタだったかも。
 そーいや知る人ぞ知るエンジェルナンバーで言えば、3と5の組み合わせにばっか出くわしてたなぁ……。



 ちなみにこの無漏地フィーバーは、
「“今ここにないもの”ではなく“今ここにあるもの”を改めて一つ一つ確認しなおす」ことで終息しました。
 なんだかんだでやっぱりこっちが落ち着くわぁ……It's MyHome(* ̄∇ ̄)旦~~

 ……なーんて余裕ぶっこいてると、

川´ー`)「まだ補習が必要そうじゃの」

 って具合に現在マジ補習中w
 「思考の荒波DAY」が、ここまで第二次第三次と文字通り波状攻撃でやってきております(o_ _)o


 でも、心配しないでください。

 てか、たわし自身が心配していないんだから。

 や、表層的にはエネルギー吸われて結構シビアっすよ? だけど一番根っこの部分は何ともないんです。

 というのも、どんな荒波にのまれそうになっても、
「『今、この瞬間』に意識の碇をおろすことで必ずやり過ごすことができる」
 ということを知ってるから。

 小林正観さん流に言えば、「念を入れて生きる」(ほら、今の心と書いて『念』でそ)。

 これはそれを更に徹底的に身につけるための荒波、すなわち「有漏地という集中特訓カリキュラム」。

 つまり、今は渦中にいながら「贈り物」だって理解してるんです。
 心配していないってのは、そういうことでもあるわけです。


 んとね……ついでにいえば、さっきのエンジェルナンバー、
 333と555もここんところ頻繁に見るもんでねぇ。
 今この部分書いてるときにも、ふと電波時計見たら午後3時33分だしw

 それを〝あちらさん”に聞いてみたら、

川´ー`)「突貫工事中じゃ」

 って返答……あたしゃ欠陥住宅か(違


 ああ、あといきなり登場の“あちらさん”については気が向いたときにでも。
 気が向かないかもしれないけど(ぇー

 なお、ジジイ言葉ですがビジュアル的には黒髪ロングで巫女装束なちょっときつめの美人さんでよろしk(ぇー



<今では享楽者とか快楽主義者という誤解された意味でのみ使われている“エピキュリアン”という言葉だが、その語源となった古代ギリシアの哲学者エピキュロスは、生きていくうえでの快楽を追及した。
 そしてたどりついた頂点が、満足という名の贅沢だった。その贅沢に必要なものは、しかし多くはなかった。すなわち、小さな庭、そこに植わっている数本のイチジクの木。少しばかりのチーズ、三人か四人の友達。
 これだけで、彼は十分に贅沢に暮らすことが出来た。>
   「超訳 ニーチェの言葉」より

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コメント一覧

みったまん 2011年01月09日(Sun)15時53分 編集・削除

にーちぇの本、まさしく帰省時の暇つぶしにかったよ!!
今年もよろしくですよ

せらつ・かー@中の人 2011年01月10日(Mon)20時28分 編集・削除

かのフィリーエドリヒヴィルヘルムニーチェはチェーンソーを用いてラスボスをバラバラにした際、この言葉を残したという。
「かみはしんだ」


ディスカヴァー21の本は粒ぞろいで困るw

前に紹介した喜多川さんの本もだし。

みったま 2011年01月11日(Tue)00時00分 編集・削除

やっぱり
ちぇーんそーなんだね。

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