昨日はかねてからの予定通り献血にいってきたんですわ。
ここ最近成分ばっかりだったから、久々の400ml全血で。
ちなみに成分献血は実施後1~2週間で次回の献血が可能になるんだけど、
400ml全血献血の場合、次は8~12週間空けないといけない。そういう赤十字の規定。
もーちょっとこの間隔短くなりませんかね~、事前血液検査の平均赤血球量から可否判断してもらうとかできないですかね~、なんてぶっちゃけ思うんですがまあそれはさておき。
実は本来なら、昨日(25日)はお仕事が休みで、今日(26日)は出勤のシフト。
400ml採血翌日の労働にちょっとだけ懸念があったんですが、
そんな折に一昨日(24日)、
「25日出勤予定だった人が体調不良で出られなくなったから、25日は前半だけ出てくんない? 代りに26日は休みにするから」
と、会社から連絡。
どういう引き寄せか、渡りに船とはこのことで。
いやぁ、これは川´ー`)にも助けられてるなぁと思いつつ、予定されてた仕事を予定より大幅に早く片付けて職場から程近くの献血ルームへ。
ほぼ毎回ですね、献血でもらった粗品はその足で職場に行って同僚にあげちゃうんです。
今回もそれで手ぶらになって、給料日ってこともあったんでちょいと外食めぐりに。
普段たわし、外食はあんまりしないんですよ。
しても喫茶店とかの軽いメニュー。
だから毎日家で玄米と味噌汁か、一汁一菜or二菜(+漬物)が主なんです。
玄米おいしいよ玄米。味わい深い上によく噛んで食べる癖も身につくしね! つーか噛まないと消化不良起こすよw
んで、ただ献血の後だけは粗品手放しちゃうこともあるから、血の気の補充と自分へのご褒美的に外食することにしてて。
今回選んだのはB級グルメめぐりw
醤油ラーメン大盛りに始まり、一度やってみたかったパン屋ハシゴでオススメパン食べ比べ、ドーナツにマフィンにとろーり濃厚プリン、地元で有名な老舗肉まん屋の豚まんえとせとらえとせとら
……いや、この時点で既に自分のどこかで警報鳴ってたんですよ。もうやめとけって。
腹八分目を遵守してる普段の自分の行動からはありえないよって。
でも同時に何かに背中押されてて。
職場から家まで歩くと1時間くらいの帰路(※普段は公共交通機関利用)を、ぐるぐる遠回りしつつ2時間以上かけて歩きながら食べたりもして。
血抜いた後だけど体調はいいし、運動も兼ねてるからいんじゃね?くらいのノリで。
そんなこんなで帰ってから、満腹もうイラネーってのにも関わらず、どういうわけかふらふらと熱燗とうどんに手を出した、
そこでダウン〓■●_(ぇー
……いやもうね、食べすぎで苦しかったのって何年ぶりだろ。
とんと忘れてた感覚にうんうん唸っていると、ふと声が。
川´ー`)「どうじゃ、これでもう大食することもないじゃろう?」
いや、うん、もうこりごりです。
でもこんな教え方せんでもええやん……w
川´ー`)「バカをもうせ。それなりに食を節し続けてきたおぬしじゃからこそ、大食の愚かしさをこうして深く実体験で学べたのではないか。しかもたった一度でこの効果じゃ。自業自得ゆえに本格的な肥満や胃腸の病を抱える者は、毎日あのような食生活を続けているようなものじゃぞ」
あぁ、まあ、そりゃ病気にもなりますわな……( ̄д ̄;)
川´ー`)「大食は怒りでもあるのじゃ。おぬしのモットーに『威張らない・怒鳴らない・怒らない』があるの」
うん。小林正観さんの『いどお』だもん。覚えやすいし。
川´ー`)「おぬしの場合、確かに外的には無瞋恚を随分と達しておる。が、内的にはまだ決定的に拭いきれぬ部分が残っておった。無貪欲もしかりじゃ。これはそれらをこそぎ落とすための外科手術のようなものと考えておればよい。自らが抱える怒りや貪欲を知らずして、それを手放すことができる者は滅多におらん」
じゃあ、その点で本来の意図に沿って、今のたわしは結構改善された、と?
川´ー`)「どんな完璧な手術を施しても、予後に患者自身が摂生せねば元の木阿弥じゃ。自惚れるでない」
へーい……。
と、そんなやりとりがあって明けた今朝、
ユウさんのブログ経由でTerraさんのこちらの記事を知って、あらびっくり。
食の五箇条、なんというシンクロ。
タイムリーすぎます。
しかも、シンクロがあるのはその部分だけじゃなく……と、それについてはぼちぼち述べます。
ユウさんの神道系なアノ話も、実はこっちにもリンクしてるものがあるんですが、まあそれは一旦置いといて。
食は人倫の大本です。
皆様ご自愛のほど。
さて。では前置きはこのくらいにして(長すぎ)今日の本題。
今回からいよいよ、以前ちらっと触れた、二度目のパラダイムシフトについて思い返してみようかと。
……ああ、いよいよここに触れることになっちゃったよ( ̄д ̄;)モウモドレナイヨ
ってのが正直な感想。
だけどここ最近の巡回ブログ界隈のシンクロを見るに、どうにも書かざるをえないようで。
タダの自己顕示欲じゃないの?って怖さもあるにはあるんですが……、
そこんとこどうなん?って訊ねても、
川´ー`)「流れに乗るか乗らぬか、それはおぬしの選択じゃ(ニヤリ)」
って返ってくるもんだから( ̄∀ ̄;)
だからうさんくさい話になるよー?
覚悟できたひとだけ続きクリックどぞ。
……。
コレを見てるって事は覚悟できたのねw
さて、ではもうひとつのパラダイムシフトについて。
前に紹介した第一のパラダイムシフトは、主に「自分のあり方」、その基盤についてのものでした。
例えれば、様々な教えという建材を得て、自分という「家」を建てたとします。
たわしのケースで当てはめれば、大雑把な分け方ではありますが、次のような感じ。
家の土台や基礎に相当したのが、中村天風師の教え。
圧倒的な活力をもって語られる師の教えは、当然土台だけに留まるものではありません。
が、やはり最も大きかったのが「自分とはなにものか」という根源。
この感得なくして、その後の拡がりは絶対にありえませんでした。
柱や梁、骨組みを形成してくれたのが、小林正観氏の教え。
「感謝」を筆頭に、一般的な観念とは異なる「謙虚」&「損得勘定」、
あるいは不平不満・愚痴・悪口・文句・泣き言を言わないという「五戒」。
この五戒を向ける対象は人に限りません。森羅万象の全てですから念のため。
「うわ、雨だ」「嫌だ寒いー」なんてのも天気や気候への愚痴文句悪口です。
これ、気をつけて徹し続けると、物事をあるがままに見るための土台がいつのまにか醸成されるということに実感として思い至ったのはつい最近のこと。
他にも、
「いどお(威張らない・怒鳴らない・怒らない)」
「きくあ(競わない・比べない・争わない)」
「うにの(恨まない・憎まない・呪わない)」etcetc.
今自分自身が自らに対して掲げるポリシーは、その大半が氏の発見した「宇宙法則」から吸収したものといっても過言ではないです。
そして、屋根や外壁にあたる最も外的社会的な面を整えてくれたのが、喜多川泰氏の教え。
とにかく、社会とは何か、社会の一員としての自分とは何か、その中でどうあるべきか。
とてもわかりやすく、かつ心に染み入る形で示してくれたのは、あまりにも新鮮でした。
氏の書籍は基本、ストーリー仕立てなので、ヘタな予備知識を持たずにその感動と共に味わうのがきっとベスト。
だから敢えて詳しく語ることはしませんが、とにかくオススメできます。
もちろん、他にも釘やら金具やら接着剤やら、はたまた電気水道ガスの配線配管、
そしてそれら建築資材を運んでくれたのは、そこに至るまでに出会った全ての方々や物事。
誰一人、何一つ欠けても、それはこの形として存在することはできなかったでしょう。
……と、まあ、そんな感じでトンテンカンとおっ建てた家は、まあ普通に人が住める程度にはなったと一応思います。
自惚れかもしれんですが、とりゃえずそーゆーことにしといてください。
が、ここにはまだ決定的に欠けているものがあるんです。
この家の、住人です。
「いや、住んでるの、あんたじゃないの?」
そうつっこみたい人もいるでしょう。
でも、その「あんた」は「家」なんです。
なのであんた=私は、家ではあっても家の住人ではありません。
では、住人とは誰なのか。
ここでちょっと話を別のところに飛ばします。
きっかけは、正観さんの著作についてネットで検索してた時でした。
ぐぐるさんの検索結果から偶然見つけた、こんなメルマガ。
「精神世界の叡智」
龍氣さんの発行するいわゆる書評系のメルマガですが、バックナンバーを読んでみると結構面白くて、さくっと購読申し込み。
とはいえ、そこから実際に買うに至る本は大して多くもなく、概ねただ漫然と受信するだけの状態で延々月日が流れていったわけですが。
そんなある日届いた同誌で紹介されていた一冊が、
「あの世に聞いた、この世の仕組み」
うわ……と、なんかストレートなのか搦め手なのかよくわからん絶妙に不思議な塩梅のタイトルが、無性に気になりまして。
更に言えばスピ系の書籍は比較的海外の訳書が多い中、どうやら著者は日本人。
その名も「雲黒斎」さん。
……ええ、敢えてルビはふりません。ふりませんとも( ̄ω ̄ )w
ブログの書籍化ってことで、試しにちょこっとググって覗いてみたけど、
「雲さん? 誰やねん?」って、その時はほとんどわけわからなかったんですわ。
だから、本当に記事二つ三つ読んだだけで、その後しばらく忘却モードに。
なのにね、
数日後気付いたらこの本、カートに入れてポチってたのw
いやね、ほんとに今考えると何も考えてなかった(ぇー
そしてね、そんな風に「何も考えてなかった」状態の自分を、
言うなれば操っていたのが、まさに「住人」なわけで。
要は家のリフォームのための業者を住人が手配した、みたいな構図。
で、ブログ「あの世に聞いた、この世の仕組み」のあらましをかいつまんで説明しますと、
「黒斎さん」が精神的病状をきっかけに守護霊の「雲さん」と会話できるようになって、そのコミュニケーション内容を書いてまとめたもの。
……いや、「守護霊」とかそんな類の霊的存在については、正観さんとかもある程度話題にはしてるんですわ。
だけど「守護霊」的な存在と「会話」する、という概念自体、それまで自分にはなかったもので。
しかも、なんか言ってることめっちゃ正しいっぽい……。
そう思うのも、今まで学んできた部分に対してリンクしたり拡張したり、また噛みあっていなかったパズルのピースがかちかちと有機的に、次々と補完されていく感触を覚えたからに他ならなくて。
まあ、黒斎さんが精神的な病気からきっかけを得たって部分も個人的に共感というか、通じるものを感じたってのも確かにあるんだけれど。
とにかくそこからですわ。黒斎さんのブログに一から目を通し始めたのは。
そうして得たものは非常に大きく、そして多かったのですが、敢えてひとつ挙げるとすれば、
これまた正観さんと共通する、「釈迦」という人物、その教えについての明快な解説と示唆。
八正道、苦集滅道、諸行無常、諸法無我、色即是空、えとせとら。
有り体に言えば、「仏教」あるいは「仏縁」ってやつです。
まあ家には仏壇があったりもするけど自分自身は別に仏教徒なつもりはないですし、
まして特定の宗教組織に入信しているわけでもそのつもりもないんですが、
でも、「宗教組織」や「崇拝対象」としての「仏教」ではなく、
文字通り「釈迦(仏陀)が残した教え」という意味での「仏教」にぐいぐいと引き込まれていったのは事実です。
なんせ、2500年の昔に人間の苦楽や存在の本質が既に示されてたんですよ?
それが社会様式も全く違う今の世にあっても、そのまんま通用するというのはあまりに驚異的で。
ていうか、それまで知ってた、
「仏壇や仏像になんかよくわからんけどとにかくありがたがって手を合わせたり、葬式で坊さんがお経をあげてポクポクチーン」
ってなイメージとは大違いです。
むしろそんなイメージ(というかほとんど一般的な実態ですよね)を全く否定しているといっても過言ではないくらい、
お釈迦さんが伝えているのは、
「どのように在り、いかに生きるか」ということ。
死者のためのものではなく、生者のためのものなんです。
(更に突き詰めれば死者も生者も、生も死もないということに行き着くんですがそれはここではさておき)
で、書籍でもブログでも冒頭近くで語られているのが、
守護霊さんとコミュニケーションをとる方法。
黒斎さんを知った時期から少し遅れて、万年素人さんやユウさんといったチャネラー系のブログを知ったこともあってですね、せっかくだから自分もちょっくら試してみようかな、と。
正直ね、ほとんど興味本位で。
キーとなるのは、その意識の在り様。
具体的には、
「守護霊さんとコミュニケーションがとりたい」
ではなく
「守護霊さんとコミュニケーションがとれている」
という状態に意識を根本からシフトすること。
「とりたい」というのはつまり「とれていない」状況なわけです。
だから、「とりたい」と意図しているうちは「とれていない」状態に意識が向いているから、いつまでも「とりたい」状態が続く。
よって、実際の状況に関わらず「とれている」と意識を先に成就した状況へ先行させることによって、「とれている」状態へと向けて実際の状況も引き寄せられてくる、という理屈。
「状況が引き寄せられる? 意味分からんわ」
って人もいるでしょうが、まあいわゆる「引き寄せの法則」ってやつです。
たわしは既にその時引き寄せの法則関連本も目を通したことがあったので、ああ、そういうことか、と納得。
とりあえずアファメーションから始めてみることに。
余計なことは考えないように心を鎮めながら、寝起きに、寝る前に、気がついた時に……と、マントラのように唱え続けてました。
そうしてしばらくたったある日。
……ん?
何か、得体の知れない思念の塊のようなものが頭に流れ込んできている。
その事実を感じ取れていることにふと気付く。
得体が知れないといっても、不気味なわけではなく、
むしろ温かく、懐かしく、包み込むようでありながら、内から湧き出してくるような……。
同時に、思い出したんです。
この感触は、ずっと昔、要は子供時代に何度も感じてきたのと同じものだったと。
その「流れ込んでくる」つまり「向こうからやってくる」感覚は、
取りも直さず、向こうからの働きかけということになります。
その「働きかけ」をしてくる「存在」に、おっかなびっくり応答してみた。
すると、また思念という形で反応が返ってきた。
それを認識してしまえば、あとは脳内ライブラリが翻訳するだけ。
思ってた以上にナチュラルでシームレスな、しかし確実な変化がそこにはありました。
これが端緒。
言うなれば、プログラミングにおける"Hello world"でした。
ちょー長くなったんで次回に続きまス。