終わりはしない。始まってなどいないのだから。
始まりはしない。終わったものなどないのだから。
あまねく時間とは、永久であると人は言う。
時間というものが存在するならば、
それはいつか存在の始まったものであるがゆえに、いつか必ず終わる。
しかし、永久に終わらぬものに、そもそも始まりはない。
時間が永久なのは、それはそもそも、始まってなどいないがため。
ゆえに、時間という実在は、存在しない。
時間とはただの概念であり、
無常に基づく万物の変化量を測る為の、ただの物差しであり、
社会運営において人々が足並みを揃えやすいよう、
円滑に営めるように編み出した決め事、無形の道具にすぎない。
ゆえに、元来時間は人に対する従であり、
また相対性理論も示すように、時間の流れは一定のものではない。
つまり、時間とは絶対的存在ではない。
あくまで無常という根源を表層的に把握するための、
無限に続く相対という幻でしかない。
ならば、その無限の幻たる時間すら内包して存在し続ける、
「Now Here」とは一体、何だろうか。
それは、始まりと終わりの二元性を超えた存在。
有限と無限の対極性すらも意に介さない、存在。
そも、存在という概念自体のない、
それでも存在としか一語では表せない存在がただ、無にして在るだけ。
「Now Here」は存在する。ゆえに、存在しない。
「Now Here」は存在しない。ゆえに、存在する。
どこにもなくて、どこにでもあるのだから。
どこにでもあって、どこにもないのだから。
Nowhere is "Now Here".
"Now Here" is Nowhere.
どちらの表現でもいい。
どちらも正しく、どちらも正しくないのだから。