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うたいしこと。(10) :第2章-3

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 続き
 


■第2章:新入部員初任務 ――第3話





 部長の深い瞳の色に吸い込まれたかのように、拓実とゆいも居住まいを正す。

「今の重病患者の続きだが、時として誰かをどうしても頼れない場合もある。それでも彼を助けたいのならば、できない事をできるようにするしかない」

 あずさはチョークを置くと、片手の指示棒の先をもう片方の手に乗せ、これまでよりも口調にやや力を込めた。

「つまり、挑戦だ! 勉強、努力、特訓、様々な言い方があるがそれらは全て挑戦であり、それは決して否定するべきものではない。挑戦するなという事ではない、というのはこれだ。むしろ人間である以上、挑戦し続けた方がより意図的な成長へと繋がるのは事実だ。ただこの病気の例の場合は、実現までの時間と彼の残りの命とを天秤にかけねばならないがな」

 この楚々とした麗人が静かに込めた迫力に、昨日と同様、拓実は息を呑んだ。
 それはゆいも同様らしい。刹那だけ訪れた静寂。
 しかし、それをあずさは容赦なく断ち切って、

「さて、ここから本題とは外れるが、しかし極めて重要な教訓がある。まず想像してほしい」

 再び神妙に、二人の顔を見渡した。まるで催眠術のように、拓実達は意識を引き込まれる。

「君達は彼を助けたい。だが誰にも助けを求められない、あるいは助けられない。自分で医学を学び、彼の命を救うしかない。そこで勉強し、その甲斐あって君達は彼の病気を治せる医師になれたものの、治療は間に合わず彼は亡くなってしまった。さて、君達はどう思う?」

「あ……う、ゆいは……」

「きっと、くやしいです。何のために勉強してきたのかって」

 素直に状況の重さを想像したのだろう。
 絶句したゆいに代わって、拓実が正直に答えた。

「はい、ゆいも……です」

「だろうな。私もそう思うだろう。だが、同時にこうも考えられないか。彼は自分の命を懸ける事で、君達を医者に、つまりこれから大勢の命を救うことのできる存在にしてくれたのだと」

「それは、確かに……でも俺――」

「そこで『でも』などと言うものではない。陣内、君はそこで結果に執着し全てを諦め、これまで血を吐くような思いで身につけた医術を捨てると言うのか? それこそ彼は無駄死にだ」

 あずさの正論に、拓実は反駁できなかった。
 いや、あずさに言われるまでもなく、してはならないのだと……自分の心の奥底で、そう引き止める何かがあると、心のどこかで感じ、納得していた。

「観念的な話になるがな。それは見方を変えれば、彼の人命はただ失われたのではなく、多くの人の命を救い、拡がってゆくということだ。その時君達という医者は、彼が命と引き換えに与えてくれた経験と技術という恵みを、世の人々に還元しているにすぎないのだとな」

 そしてあずさは穏やかに、軽く握った拳を自分の胸に添えた。

「そこにあるのは、結果に執着しない純粋な目的意識だ。その時君達は彼や、その他多くの人達によって生かされて、人の役に立つ人間にさせてもらえたことを知るだろう。少々形は変わっても、医者を目指した志、つまり人の命を救える人になるという目的は君達の胸に強く刻まれる事になる……私が言っている意味、解るか?」

「あ、えっと、よく……わかりません」

「あの……ゆいも……です」

「まあ……そうだろうな。ふむ、私も熱くなって少し話を複雑にしすぎた。だが、すぐには解らなくていいから、これだけは聞いてほしい」

 戸惑いを隠し切れない二人の返事に、軽く息を吐いたあずさは自笑じみた苦笑を浮かべた。
 だがそれも一瞬。すぐに泰然とした佇まいを取り戻すと、瞳に確固たる信念を込めたような色を乗せ、語り始めた。

「世の中にはな、たとえば収入がいいからという理由だけで医者を目指し、安定しているからという理由だけで公務員になろうとする人がいる。もちろんそれが悪い訳ではない。収入とは生活を支える大切な要素だからな。だがそれだけではまだ重要なものが欠けている。それが無ければ、たとえどれだけの金や物を手に入れようが、人生は無味乾燥だ。幸せに満ちた人生とは到底感じられない。それが何かわかるか」

 きょとんとした面持ちの二人を見やって、あずさはしばし口をつぐんだ。
 だが、拓実達はこれといった考えが浮かばず、無言。
 タイムオーバーとばかりにあずさは優しい微笑を浮かべて、口を開いた。

「それはな。どんな医者に、どんな公務員になりたいのか……つまりどんな人間になって、そして何を成したいのかという、目的だ」

「目的、ですか……?」

 思いもよらなかった答えに、拓実はあずさの瞳を見つめ、ぽつりと呟いた。

「ああ。無味乾燥な人生とは、言い換えればそこを履き違えている人生だということだ」

 その拓実の眼を見つめ返し、あずさは少しだけ哀しそうな色を浮かべて、緩やかに説いた。

「人は誰もが幸せを求める……私もそうだ。だが医者や公務員になる事、それ自体が目的となり、それにさえなれれば、その職業に就いてさえいれば幸せになれると、目的と手段を取り違えている人間は、実際この世には溢れている。かつて幸せを求め、しかしいつの間にかただ目の前の仕事に追われ、金や物、あるいは時間などに身も心も支配され、生気の無い目をした大人達がな」

 大きくも切れ長な彼女の双眸は、拓実を見つめていながらも、どこか別の場所を見ているかのようで、拓実は不思議な違和感にとらわれた。

「そうした人々はある日ふと気付くのだ。自分は何のために生きてきたのか。かけがえない命などと言うが、本当に自分という存在に意味は、価値はあるのか。こんな事を思い患う自分のどこが幸せなのか。幸せを目指していたはずなのに、こんなはずじゃなかったのに……とな」

 その口調も、まるで実感してきたかのような、実に切々としたものだった。
 込められた重みに、拓実とゆいは口を挟めず、ただ静かに聴き入るだけ。

 と、しかし不意に、あずさの言葉の色が変わった。

「これがさっきの医者の例ならば、その目的は明快だ。誰かの命を救う人になりたいから、結果として医者になった。それだけにすぎない。そしてその目的が心に生きている限り、医者として目指すべき道も明快だ。だから常に自分自身に価値を見出せ、人生そのものに意欲も湧く」

 今度はストレートな、芯の通った、いかにも彼女らしい口調へと。
 その躍動感すら覚える語り口は、たとえるならオーケストラの指揮者のようだった。

「そして、ここは特に気をつけてほしい……人の命を救いたいから医者になった。人々に安寧な暮らしをもたらしたいから公務員になった。この『から』はイコールじゃない。とにかく人の命を救いたいなら例えば消防士になっても疫学者になってもいい。人々に安寧をもたらしたいなら農家でも大工でも可能だ」

 その言葉に、拓実の中で何かが動いた。
 一瞬、無意識に……心が、瞳が、ほんの微かではあったが、揺さぶられたように感じられた。
 まるでその変化を察知し、手応えを確信したかのように、あずさは結論をぶつける。

「つまるところ、職業とは手段でしかないのだ。この職業に就いたから幸せになれる、という職業は、この世に存在しない」


 ...To be Continued...

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コメント一覧

ponsun URL 2011年11月13日(Sun)05時18分 編集・削除

オーケストラの指揮者のようなあずささん

メッセージに惹き込まれてしまいます


職業とは手段でしかないのだ。この職業に就いたから
幸せになれる、という職業は、この世に存在しない

素直に、共感してしまいます


ありがとうございます