唐突ですが。
たわしがこのブログの更新再開に踏み切ったのが去年末。
それまで実質2年近い空白があったわけですが、
ご覧の通り、その空白前後の内容は、大違いです。
空白前は、愚痴や文句や否定や裁きやストレスや固定観念、
そして五感以内のものばかりに基づいた表現が多数。
いわば、表面的・外的・物質的。
空白後は、それらから多少なりとも解放されてます。
ご存知の通り、五感以外のものにも興味を向けています。
いわば、深層的・内的・精神的。
これだけ異なる内容に変貌するにあたって、
再開ではなく、全く新しく別のブログを立てるという選択肢もありました。
でも、そうしませんでした。
この「変化」と「差異」を、明らかな形で残しておくのもまた一興かもねー、って。
動機としてはそんな軽いものだったかもしれませんが。
今になって、その奥深くに在った「意図」を、言葉に変換してみたくなりました。
あくまで現状のたわしの観点から、と前置きした上で、
結論から言います。
スピリチュアリティとマテリアリティ。
霊性と物性。
この二つ、全く同じものなんですよ。
別たれた別々のものではないんです。
スピリチュアルがスピリチュアルとして一つのジャンルになっているのは、
あくまで、
『「物性」へと意識の多くが過剰に傾いてしまっているがゆえに、ジャンルとして成立している』
だけなんです。
これがもし、社会全体がスピリチュアリティ偏重だったとしたら、スピリチュアルというジャンルはおそらく存在しません。
その代わり、「マテリアル(物質)」という明快な一ジャンルが確立されているでしょう。
わかりやすい喩えを使えば、コインの表と裏。
どっちが裏でどっちが表でもない。でも片方を表と決め付ければ、もう片方は裏になってしまう。
そして、どちらか片面こそがコインの真の本質だ、と。
それが当たり前の常識なのだ、と、皆が思い込んでしまえば、
残され忘れ去られかけたもう片方には、その反動からか、これまた余分な「定義」が用いられてしまいます。
本当は同じものであるがゆえにそのバランスを取ろうとして、しかし勢いあまって複雑化、迷走、下手するとエスカレートしてしまう。
あたかも、振られた振り子が、往復を経ずにして中央でピタリと静止することはないのと同様に。
「とある魔術の禁書目録」では、科学と魔術という二つの世界に軋轢が存在します。
それぞれに属する人々は、属するそのカテゴリこそが絶対で正しいと偏り信じるがゆえに、事件や戦争を引き起こしたりもします。
まあそこが面白いところでもあるんですが。
けど「科学」と「魔術」ってのも、突き詰めてみればその境目なんて曖昧この上ないんです。
たとえば携帯電話なんて、十六世紀の人々の目には魔術としか映らないとしても何の不思議もないデバイスでしょ。
鉄の塊が馬より圧倒的に速く長く走るなんて、どんなオカルトかと思っても不自然じゃないでしょ。
……って、ちと話が逸れたね。
要するに、この表と裏は、
そのまま、「空白」の前と後にも当てはまります。
どっちも、同じものなんです。
きっと、というか間違いなく。
その事を表現するために、『新規』でなく『再開』を選んだ。
各々の記事ではなく、「このブログ全体という一つの形」としてそれを表現するために。
どうやら意図せずして、それを意図されていたようです。
ご存知の通り、
現状、ブログランキングの類には参加してません。
何らかの状況の変化がない限り、今後も参加することはないでしょう。
川´ー`)からは「おぬしの好きなようにせえ」と、
つまりどっちでもいいと言われてます。なので、参加しない方を選んでます。
それはなぜかって。
一番の理由は、
しっくりくるカテゴリがないからです。
「ライフスタイル」「料理」「総合」「ノンジャンル」「ゲーム」「スピリチュアル」etc
当てはまりそうなカテゴリは数あれど、そのいずれにも当てはめることに心が当てはまらない。
だって、タイトルどおりファジーだもん。
よくこんなナイスフィットなブログタイトル命名したもんだなー、って今更ながら昔の自分を褒めてやりたいのは置いといて。
それらいずれのカテゴリに登録したところで、すぐまた全然関係ない話題に路線変更する選択肢は常に持っています。
その時に、いちいちカテゴリ登録変更するのなんて、基本ものぐさスライムなたわしは実に勘弁。
そもそも、たとえば「総合」「ノンジャンル」にカテゴライズしたとしても、
それによって「総合」「ノンジャンル」以外のカテゴリとは別たれ、本来シームレスなものにシームが芽生えかねないんですよね。
総合・ノンジャンルというほど手広くもないし、
かといって特定の専門ジャンルに集中することをアイデンティティとして求めてもいない。
曖昧で、節操なし。
強いていえば、それがたわしとこのブログの在り方です。
別のちょっとカッコいい言葉で、融通無碍。
だから、極端な言い方をすれば、
あくまで自分の自分による自分のための、自分だけに通じる在り方に照らして言えば、
『「スピリチュアル」ってカテゴリに嵌っている時点で、それは「スピリチュアル」ではない』
とさえ言えるんです。
あ、いやもちろんランキングそのものや、そのカテゴリ内で活動してらっしゃる方々を批判するような意図は一切ないです。
ランキングというツールの効能として、様々な人の目に触れられる=誰かにとって必要な情報を届けやすくする、ってのは尊いですし、それに参加するという行動も素晴らしいと判断します。
そんな皆さんの在り方は言うまでもなくOKだし、YESだし、グーテンモルゲンにバームクーヘンなんです(最後のは何だ
ただ単に、それとたわしの在り方とは異なるだけなんです。
あるジャンルにあてはめてしまうことで、それ以外のジャンルとは別たれた、別々のものに断裂してしまう。
それは、たわしとこのブログの今の在り方には、そぐわないんです。
「統合」には。
しかし一方。
そうでなくてもまたYES。
仮に、明日たわしがランキングに参加しても、それもまたYES。しなくてもYES。
それに対して誰かが節操なしって言ってきても、褒め言葉と評してYES。
そもそもほら、読み返してみてくださいな。
あの日の記事では食養生が大事よー玄米いいよーって言っときながら、
違う日の記事では菓子パンやらクッキーやらルンルンでクッキンしてる。
これもね、どちらも同じことなんです。
それが、今現段階のたわしには理解できます。
頭ではなく、腹で、ハートで。腑に落ちる。
受け容れている。
つまり、YES。
これが、例のひとつに挙げれば「禅」の生き方にも通じるものだったんだって気付いたのは、
玄侑宗久さんの「三昧力」(ざんまいりき)を今年の年始一発目に読んだからなんだけど、
今日いきなりこんなことを書いたきっかけは、
『融通無碍』
なぜかこの言葉が朝から頭に浮かんで離れなかったところに、ありがとう仙人さんのこのエントリがアップされたから。
『「絶対的な法則などない」ということが唯一の絶対的法則である』
『言葉はすべて二元的だ。反対の言葉がなければ、言葉を持つことは出来ない』
『理解の人というのは、自分自身について何の公式も持っていない』
『本当は、内側も外側もないのです』
『自由に法則を乗り換えられる人を「融通無碍」というのです』
以前から、恐らく子供時代から明確に感じていつつ、しかし一時は完全に見失って患って、そして再び思い出して癒やされて、
それでいて、ついぞ言葉にする機会のなかったものを、
今日になっていきなりズドンと、ありがとう仙人さんが「降ろして」くれました。
なんつーシンクロだよ、と。
強い縁(えにし)を感じます。
ありがとうございます。
【たとえ悲しみに打ちひしがれても、苦しみに押しつぶされても、
愛と、勇気と、喜びと、目覚めと、
どんな状況であろうと既に完璧に満ち満ちている幸せと満足に、
より多くの人々が気付けますように、
どうぞそのために、宇宙よ、私をご自由にお使いください。】
うずら 2011年03月17日(Thu)08時19分 編集・削除
ありがとう仙人さんの記事おもしろかったね~
自由でええ(゚▽^d)