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食の矛盾を乗り越えることとは

 えーっと、実は、昨日の朝はですね。
 クンバハカについてじゃなくて、アノ存在の正体的な何かについて触れたエントリを上げようと思って用意してたんですが、
 唐突に開眼(ぇー)しちゃったもんだから、今日に回そうということで……


 と、思ってたんですが、
 今日もまた別の書きたい事が出てきたのでそっちをアップします(ぇぇー

 正体的な何かについては、またまた明日に回しちゃいますすんまそん( ̄д ̄;)
 特にコトノハさんが楽しみにしてるのかも?w
 つーかしれっとその予想惜しいっ(何



 では、本題。
 うみさんのブログのこのエントリで、特に心に触れる部分があったんですが、
 コメント欄で返すにはちと長文になりそうだったので、こっちで書くことにしたんですよ。


 それは、さむらいさん、そして、けいさんのコメント。


>ですがすぐに「いや…まてよ」…屠殺よりも苦しんで死んだのかも知れないけれど、鶏肉と何処が違うのか?
>そう思うと、いつも普通に肉を調理して…例えば軟骨や筋を処理する時には「感謝」が無いわけです、確実に食材や料理を粗末に扱ってはいなかったつもりなのに、何か違うなと
>「食」に対して感謝していたつもりでしたが、何だかもっと“根本”で違っていたのかも知れない


>いつも思うのが、植物も生きているから殺生になるのかな?と言う所です。
>それを言い出すと人間は生きて行けなくなりますが、
>人によっては顔があるものを食べるのが殺生だという人もいますし、



 続き
 
 

 まず屠殺についてなんですが、
 是非オススメしたい書籍があるんです。

 それは「日本一心を揺るがす新聞の社説

 この本の序文の後、本編の一発目にて紹介されている、屠殺場で働くある男性のお話です。
 上のamazonのリンク先でも、そのお話が途中まで紹介されてるので、それだけでも是非読んでみてください。

 たわしがあれこれ語るより、それを通じて正直な何かを感じてもらった方が、多分速くて、(各自自身にとって)正確です。


 で、たわし毎朝ほぼ欠かさず味噌汁を煮立てるんですが、
 この時、「私自身が味噌汁を作っている」とは全く思わないし、思えないんです。

 味噌汁を調味できているのは、ダシの昆布やにぼしが、大根やわかめや豆腐やらが皆身を献じてくれて、またそれらは天があり地が育み恵んでくれたものでもあって、またそれらを獲ったり運んだりした人々がいて、またガスコンロやガスや鍋や箸や味噌や麹や茶碗や水や、また調理のためにこの体を立たせて頂いている床や空気や重力や、そして調理のために動いてくれているこの四肢肉体や、


 ええ。
 以前このブログで触れたことがありますが、
 たわしは、「心や体が自分自身」だとは思っていません。
 (いわゆる「調子の悪い」ときはそれを見失ってしまうこともありますが、原則として、です)

「自分でやっている」「自分の力でやっている」のではなく、
「完全一切、自分以外の何ものかの力で、やっていただいてもらえている」という認識です。
 この心と体も、「自分の心と体」であって「自分ではない」、つまり「自分以外の何ものか」であるって理解なんです。


 パン焼きもそうです。
 便宜上「パン作り」とか「パンを焼く」と書いたりはしますが。
 小麦小麦粉水イースト塩砂糖卵バターオーブン調理器具キッチンシンク水道冷蔵庫捏ねる両手踏ん張る足腰めぐる血流えとせとらえとせとら。
 必要なものが欠けたら、ままなりません。

 家庭菜園なんかも一緒です。
「野菜を育てる」ことは、ましてや「野菜を作る」ことなど、到底できません。
 できるのはせいぜい、「野菜に育ってもらう」ことだけです。


 料理も食事も、食材や食材となってくれたいのちだけでなく、
 全てが、全部が揃っていなければ、成り立ちません。
 「自分の力」では、味噌汁一杯たりとて、満足に完成しませんし、ありつけません。


 屠殺は、その不可欠であり、一片でもある要素なんです。

 もちろん、無ければ無いに越したことはありませんし、
 将来的には、せめて必要最小限にまで無くなっていくべきでしょう。そうあれと切に願うのが正直な想いです。

 ですが同時に、厳密な部分で、それは他の不可欠や一片と、本質的な差はありません。


 仏教の究極的な教えの内では、肉親への情も執著として脱ぎ捨てていきます。
 なぜなら、「肉親は百段上に置くほど大事な存在だ」となると、
 「肉親以外は、百段下にある大事ではない存在」になるんです。
 本当は肉親も肉親以外も同じ人間で、ゆえに等しく大事に扱うのが幸福な有様であるだろうに。
 つまり一般的に美徳美談と思われ語られることが、実はそうとは限らないのだという、いわば観念の超越。
 それと同じことです。


 だから、屠殺だろうと何だろうと、対象の経緯がいかなるものだろうと、
 全部感謝するか、全部一体だと腹の底で知るか、
 さしあたり大雑把にたわしが提示できる道は、その二つしか有りません。

 最終的にはどちらも(ていうかこの後の話も全部)、自我から離れる道に繋がるんですが、そこは後でまたちらっと触れます。



 で、植物はどうなの?ということについては、
 直後にうみさんもレスされてる内容と同じなんですが、
 「動物だろうと植物だろうと、本質的に全く違い(差)はない」です。
 一面的な言い方ではありますが、敢えて断言すれば、「喰らう以上、植物だろうと殺生」です。

 聞いたところによると、原始仏教・上座部仏教・小乗仏教とも呼ばれるテーラワーダ仏教では、
 僧の方々は自ら料理はしないんだそうです。

 一般的な感覚では極論に聞こえるかもしれませんが、
 味噌汁に入れるじゃがいもの皮を剥くときも、やっぱり、「いのちを傷つけている」ことに変わりはないんです。

 突き詰めていこうとすると、エゴの分離が自分の内にある間は、それこそ感謝なしにはやってられないくらいに、厳然たる事実としてあるんです。
(いや実際、食材と無心一体になるか、感謝するかしてないと、たわし逆に料理なんてできません。(ぇー
 ……ってのはすこし大げさかもしれませんが(ぇぇー
 ちなみに、『料理してて楽しい』ってのもある種無心一体の境地です。だってソースエネルギーの本質は楽しい感覚となって現れるでしょ? 近頃じゃ、食材などに感謝しつつ料理してると楽しい気分がめりめり湧いてきますw)


 とはいえ、ですよ。
 それでも原則、生命体は食べなきゃ個体を維持できない。

 そして、食べるとはいわずもがな、他の生命個体の維持を断絶させることでもあるわけで。


 矛盾なんです。

 この世は、矛盾のオンパレードなんです。

 むしろ、矛盾しかこの世にはないんです。


 さむらいさんが、
「何だかもっと根本で違っていたのかもしれない」
 と表現したのは、多分まさにこの、矛盾そのものに対する不明瞭感なのだと思います。
 この点、やはりうみさんが更に鋭くずばりと指摘していますね。同感です。

 それを感じ取ってしまうのは決して異常でもありませんが、しかし同時に、エゴの決め付ける罪悪がそこに存在するわけでもありません。
 かといって、そんな矛盾に対し目を閉じ続けた結果、真実に対して盲目になってしまった、つまり「無明」「愚痴」の状態に嵌ってしまった人々がどれだけ世間に溢れているかは、分かる人には痛いほど分かると思います。


 ならば、心を修めた哲人は何と結論するか。

 その矛盾を自身であぶり出し、自覚して、承知して引き受けて飲み込んで乗り越えた上で、
 選んで食べうるなら植物、となるんです。


 なぜなら。
 ある意味で、植物とは唯一の「そもそも食べられるために存在している生命体」だからです。


 だって、どんな動物も、植物が食べられてくれることなしには生きていけませんから。
 草食動物はもちろん、肉食動物も草食動物を捕食する以上、草食動物の餌である植物がいなければ生きていけません。
 雑食の帝王たる人間など、いわずもがなです。

 だから、同じ食べるなら、動物よりも植物の方が、(本来的には)より食べるに適する、ということです。


 これですね、ある歴史上の人物が同じことを言ったそうなんですよ。

 それは、剣・禅・書の達人であり、幕末の三舟と呼ばれた山岡鉄舟。

 ある時鉄舟が、門人門弟たちにすき焼きを振舞ったときのこと。
 同じ鍋を囲みながら、鉄舟は肉を一切食べず、野菜ばかりを食べていました。

 それを見て怪訝に思った弟子の一人が、
「先生、どうして肉だけを避けるのですか?
 先生は禅を通じて常日頃、動物も植物も同じものだと仰ってますが、
 それならば、食すならどちらを食べても殺生、同じことなのでは?」
 
 それに対して鉄舟は。
「その通りだ。しかし我々は食さねば動けぬ。ゆえに、私は野菜のみを食しているのだ」と。


 要は、融通自在なんですね。
 矛盾は矛盾として受け容れつつ、その中で「自分にとって(ここ重要)」何が最善かをしっかり見極め、それを貫いている。


 ある修験者はこんな事を語ったそうです。
「全て精神の乱れは飲食を元として起る。飲食を慎めば、仏道を修めるは容易い」

 おそらく鉄舟は、剣禅一如を通じて、そのことを明確に理解体得実践していたのだと思われます。



 無論、肉を絶対に食べるな、ってことじゃないですよ。

 さっき挙げたテーラワーダ仏教でも、肉食そのものを禁ずる戒律は無いそうです(一部の動物の肉についてはあるそうですが)。
 調理は行わず、信者から捧げられた余り物の食物で生かしていただくのだから、
「自ら貪りに赴くのではなく、ただ頂いて食させていただく以上、えり好みするなどもってのほか」とでも言いましょうか。
 その時において肉も野菜もどちらも選択できる自由があり、片方だけで充分な活力を得られるなら野菜を選ぶけれど、
 その時に得られる必要な食物が肉のみであれば、ありがたくその肉を頂く、ってことですね。

 さっきの山岡鉄舟風に言えば、
「どちらを食べても良い。だからこそ、食べるなら野菜なのだ」って感じかも。



 結局のところ、先も書いたことに繋がります。

 感謝か、無我か。

 仏教的な表現をすれば、
 感謝は、どちらかと言えば在家信者向け、要は様々なしがらみや観念を抱えた世俗の生活の中で、実践してゆく道。
 無我は、対して出家者向けの、世俗のしがらみを切り捨てた上で、観念を脱ぎ捨てていく事を選んだ人向けの、ストレートに真理を追究し、真理に溶け込んでゆこうとする道。

 どちらが優れているとか、そういうことではないですよ?
 ただ、在り様、立脚点が違うだけで、突き詰めた先に辿り着くものは、同じです。


 結局ですね。
 矛盾ってのは、自我の中にしかないんですよ。
「自我がそれを矛盾だと判断する」から、「それ」が「矛盾になる」=「矛盾という概念に定義される」だけであって。

 だから、感謝の道も結局は、無我の道に繋がっていくんです。
 無我の道ってのは、始めに書いた、自我から離れる道ってことです。
(自我を消す道、じゃないですよ。ヒトとしての形骸を保つ以上、それは事実上不可能です。ただ離れるのみ)

 矛盾を飲み込むというのは、その一環なわけです。
 本来矛盾などなく、同時に矛盾は矛盾として、
 矛盾に見えるそれを、矛盾とも解釈できるそのままの形として、あるがままに見るというか。


 それが腑に落ちたとき、
 食べるとはどういうことか、食べることへの感謝とはどういうことか、
 ひいては、生かしていただいているとはどういうことか、
 「自分なりの」正解が、自分なりに明確に出来上がったことが「感じられる」と思います。
 それは多分、言葉には中々し辛いものだと思います。たわしもそうですし。

 だから、ひとまずは、
「自らが接する食に関連した『全て』の事象に、感謝の思いをめぐらす」
 ことを徹底してみるのをおすすめします。
 矛盾も罪悪感も、全部全部一旦脇に置いておいて。

 食材やお膳を前に「その身を捧げていただいて、食べさせていただいて、ありがとう」
 咀嚼しながら「血肉になっていただいて、ありがとう」
 「活力になってくれて、ありがとう」
 「人々に喜びをもたらすための力となってくれて、ありがとう」なんてのもありです。

 それらを忘れてひょいぱくごっくん、としてしまっても、
 思い出したなら胃の中にある食物に向って「ありがとうございます」、と。

 消化した後でも、それこそ血肉になってくれてるわけですから、
 自分の肉体全体に向って「ありがとう」。


 それをどうにか続けてみて、習慣になってから、
 ある時ふっと心に降りてきたもの、
 それが、あなたにとっての答えであり、根本であり、始まりになるんじゃないかな、と思います。

 その時がくれば、ああ、これがそうなんだな、って多分わかるでしょうから。
 その時まで、わからないなら「単に今はまだわからないだけなのだ」と受け容れて、相変わらず感謝し続ける、それでいいんですよ。




 うん。
 なんだか書いてる内に、最初書こうと思ってたことより全然DEEPでウサンクサゲな方向に行っちゃったw。
 ま、いっか。タイトルどおりファジーだから(ぇー

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コメント一覧

うみ URL 2011年05月04日(Wed)05時33分 編集・削除

「矛盾」というのは、まさにエゴの視点でのみ存在するものなんですよね。エゴは必死に矛盾を「理屈で辻褄合わせ」をしようとする。で、その矛盾を誤魔化そうと、「植物は命じゃないんだよ」等の屁理屈で自分を納得させてみたりするw

で、前に雲黒斎さんのブログで「自分の願いは自分で叶えることが出来ない」という事が書かれていました。これはせらつかさんのおっしゃる、味噌汁ひとつ調理することも、様々な恩恵で成り立っているという事なんですよね。自分が煮干を「創った」わけではない。

最近、美味い事に気づいたきんぴらごぼうを、よ~く噛んで食べてみたわけです。噛めば噛むほど美味いじゃありませんか!嫌いだった(嫌いな物多すぎw)お赤飯を食べてみました。ホントによく噛むほど、「うぉ、これってこんなに美味かったの?」と。

これは、せらつかさんのコメントで気づかせて頂きました。感謝です!

こういう縁も、さっきの味噌汁の例と同じなんですよね。全てが「縁」で成り立っている。

というワケで、食関係の記事も楽しみにしてますよ(ひつこくプレッシャーw)

keizi 2011年05月04日(Wed)10時13分 編集・削除

おひさです。 ( ´ ▽ ` )ノ
今回の記事、特にぐっと来ました。
なんとな~くボヤ~ッとしか考えていなかったことを、スパッと気持ちよく文章にしてもらった感じです。
ありがとうございました。 (⌒▽⌒)

URL 2011年05月04日(Wed)17時54分 編集・削除

食べる時の感謝はしておりました。
でも作る時は何も考えずに ただ作ってるだけでした。
ほんとに感謝する気持ちは大切やと思いました。

だいぶ前 池波正太郎さんの「剣客商売」をテレビドラマで見ておりましたら 白ねぎのみの味噌汁を食べるシーンがあり 連れ合いが あれが食べたいというので作ってみました。(うすあげはプラスしてもOK)
おねぎってこんなに甘くておいしいのかと 感動しました。

それともう一つにんじんを千切りというか マッチ棒ぐらいの太さというか に切って にんじんのみのかきあげ これもにんじんの甘みがすばらしく おいしいです。

なるべく素材の味をそのままにいただくって いいな~っと想う今日この頃です。

話があらぬ方向に行ってしまいました。すいません。

今日も勉強になりました。ありがとうございました。

sarasa 2011年05月04日(Wed)21時03分 編集・削除

私実は、食肉関係の仕事をしておりまして。
仕事の関係上、興味を持って、屠畜のことを調べたり、某屠畜場に足を運んだこともあります。屠畜後の枝肉がどう処理されるか、どうやって等級が決まるか、商品になるまでの流れもざっくり知っています。

しかしながら
・自分の体は、肉はさほど必要としていない
じゃあ、どうしてその仕事についているのか…

ひとつは扱っているのが、いわゆる高級肉であること。
それから自分は"さほど"食べなくとも、世間には需要があり、なおかつやっぱり美味しいものであること。

「高い」からではなく、質の良さがもたらすものがあるわけです。
そこにはある種のハードル越え(価格、品質)があります。これでなくても肉(たとえば国産牛、豚とか)はあるが、それを選ぶ理由が。

sarasa 2011年05月04日(Wed)21時27分 編集・削除

つづき

自分はさほど食べないんだけども、やっぱり仕事の関係上で興味を
持って調べてみたの屠畜のこと。

「世界屠畜紀行」という、各地の屠畜事情が描かれている本があります。
バリでは動物…牛、豚、鴨、鶏、亀がお寺の周りを行列した後、男性によって屠畜され、その後女性たちの手によって、鶏の丸焼きや豚の頭とかが、花や果物と一緒に飾られる。
沖縄ではお祝いのときにヤギがつぶされ、ヒージャーパーティーが催される。いのちを頂くことと感謝はセットになっている。

私たちは…
「もの」のひとつとして、肉を買っているかもしれません。
見えないところで手を下している人がいるからこそ、美味しいお肉が頂けることまで、理解して食している人は少ないかも。

天井からぶら下がる枝肉が、サーベルのように大きいナイフで切り落とされ、肋骨を取り除かれ、部位ごとに切り分けられていく様子を、私は気持ち悪いとは思わなかったです。自分が直接やってないだけ。量の多少に関わらず口にしているのなら、同じこと。いのちをもらう、食べ物を口にするって、そういうことです。

せらつ@中の人 2011年05月05日(Thu)09時00分 編集・削除

>うみさん
 またまたプレッシャー入りましたーっ!(ひつこく同じレスポンス(ぇー

 これですね↓
・「あの世に聞いた、この世の仕組み」2010年12月24日 プレゼント
  blog.goo.ne.jp/namagusabose/e/a5f8df04a832403111215c8606628814

 前々から想いとしては強く抱いていた事を、
 まがりなりにも言葉として昇華できるようになったきっかけの一つは、この記事かもしれません。

 ちなみにシークレットサンタはこれで初めて知ったんですよ。
 あまねく人々に与えうる恵みを与えたい、ってのは、近頃とみに思うようになってきたことです。
 尊敬するわぁw

 食について、とりわけ咀嚼についてのネタはまだ多少ストックがあるですよw
 ぼちぼち上げていきますんでっつーか、噛んで健康が増進すれば一緒に美容にもなるですよエステもサプリも不要でもっともっと美しくなれるですよとプレッシャー返し!(ぇぇぇー



>keiziさん
 keiziさんのブログのエントリとも繋がりますねぇ~
  ameblo.jp/74195378952/entry-10880833916.html
 コップの水を飲む時だって、この水は何千年何万年何百億年以上前からこの地球や宇宙にあって、
 雲や海や川や様々な生命体やらを巡りめぐって、偶然か必然か、今この手元にあるのだわーと。

 ある意味、果てしないゼロサムゲームでもありますよね。
 ありがとうございますです^^



>敦さん
 そう、食べるだけでなく、「手がける」ということにも全般、言えるんですよね。
 実際のところ、調理に際して食材だけでなく、
 食材を守っていたパックトレイや包装ビニール(いわゆるゴミ)にまで、
 とたわし的には感覚を広げることも多いんですが、
 さすがにドン引きする人も多そうなので、まだ記事にする準備もしてませんw

「美味しい」という感動は、探しに行かなくてもゼロ距離に転がってるんですよね。
 ぶっちゃけ、たわしは根本的に「美味しい食べ物・不味い食べ物が存在する」とは考えてないです。
 ただ、「食べ物」とその味があって、それに人が評価を加えているだけですから。
 やはり便宜上、話を通じさせるために「美味しい物」とか敢えて表現したりはしますが。

 ただ同時に。
 「食物」って「人に良い物」って書くんですよ。
 良薬口に苦しなんて言いますけど、
 それは「薬(=非常時にこそ飲む物)」に当てはまるのであって、
 平素摂する「食」、つまり本当に「人に良い物」は、
 ナチュラルに受け容れればナチュラルに美味しいんですね。

 グルメ(エゴ)が過ぎると、逆に味わえない(辿り着けない)境地なのかもしれませんねぇ。

せらつ@中の人 2011年05月05日(Thu)09時02分 編集・削除

>sarasaさん
 おお、非常に興味深いお話をありがとうございます!
 現場で身近に接する人の思索や洞察が入ると、とても参考になりますし、
 そして、とても貴重で素敵な経験をされていると思います。^^

 前に記事に書いたことはありますが、良質の肉は薬だと考えてます。
 常食ではなく、弱った時適切に摂れば強く活力をもたらしてくれる、という。
 それについては、元々農耕民族である日本人だからこその、効能と解釈なのかもしれません。

 恐らくかなりの割合で、疾患は少なからず、心の姿勢の誤りから来るものだと思いますが、
 それでも絶対的に投薬療法を必要とする人も、やはり居るわけで。
 同様に肉が薬となるのであれば、貪りでなく、それを本当に食べるべき人も、間違いなくいるはずです。


 またそうでなくても、生活環境として肉を食うのが当然の帰結である人々もいますよね。
 有名どころで、イヌイットは生肉や発酵肉を食べて連綿と血脈を繋いでいますし。
 ドイツのウインナー文化(食肉の部位ごとに全く別々のウインナーが作られたり)も、作物の収穫が安定しない土壌で、冬を乗り切るために肉を保存する必要性から発達したそうですし。

 それらはみな、あって然るべき需要、とでも言いましょうか。

 結局のところ。
 「貪りなのかどうか」が、一つのボーダーなんですよ。たわしにとって。

 肉でも砂糖でも酒でも、体には不要でも、心にとって『本当に』必要であれば、それは貪りではないですし、
 しかし、この「心に必要」という感覚判断が、ただの中毒性や禁断症状からくる錯誤であれば、貪りです。

 この判断をも司る「心の教育」が、たわし達の世代では(少なくとも公的には)まるで為されてこなかったのが過去の事実であり、
 だからこそ、またそれらに対する揺り戻しの気風が芽吹いてくるのも、自然な流れなのかもしれないですね。


 >見えないところで手を下している人がいるからこそ
 そこもなんですよね。
 近年よく言われる「食育」ってのも、教える側がまずそれらをひっくるめて理解していないことには、
 子供に対するただの強制・嫌悪感の植え付けにしかなりかねないなー、という気はします。

 そうそう、つい最近週刊少年サンデーで、
 「鋼の錬金術師」で知られる荒川弘の新連載「銀の匙」が始まりました。
 農業高校を舞台にした物語ですが、いきなりニワトリを〆るシーンが出てきたりします( ̄∀ ̄ )

 恐らくは荒川氏も、食などもひっくるめた「生命」に関する何らかのメッセージを送りたくて描いているのでしょう。続きが楽しみでっす。

sarasa 2011年05月05日(Thu)14時37分 編集・削除

(えっへー ふたたび

横槍で、

そう、食べ物・食べ方は、他のどんな化粧品、エステ手術えとせとらより効きますですよー‼ ←うみさんへの攻撃・援護射撃?

うみ URL 2011年05月05日(Thu)16時04分 編集・削除

せらつかさんもsarasaさんも私の美への執着を知っているΣ(´∀`;) うはぁ、悪食反省してます。。。

いや、ホントに美味しんですよね。あんなに嫌いだったものが… これ、ホントびっくりでした!

咀嚼ネタのストック、楽しみですよ~!!(強力プレッシャーw)

URL 2011年05月05日(Thu)17時12分 編集・削除

まだ読んでないのですが 先日本屋さんで「いのちの食べ方」森 達也 理論社 を買いました。
目次をみると
1章 もしもお肉がなかったら
2章 お肉はどこからやってくる
3章 僕達の矛盾僕達の未来
本のすべての漢字にルビがふってあるので 小学生でも読めると想います。

sarasaさんがコメントされてたお肉が店頭に並ぶまでのことやら3章では歴史的なこと差別のことから戦争までと話が広がっていく本です。(また興味あれば本屋でみてください)

それにしてもせらつかさんのブログは記事だけではなく
みなさんがされるコメントも凄く勉強になりますね。
いつもありがとうございます。
私もうみさん同様 咀嚼ネタ期待して待ってま~す。

sarasa 2011年05月05日(Thu)19時02分 編集・削除

敦さん

うへぇ、その本、今うちにあります。
しかもお寺の貸し出し書から借りて来たままだったー。
「コラ、カエセψ(`∇´)ψ」ってメッセージと受け取りました…
ゴー様、ごめん。

で、本つながりで
「いのちの食べ方」という映画もあります。
これは外国の、食肉産業のみならず、大規模農業…リンゴが、レタスが、どうやって収穫されているか?牛の種付けはどうやってるのか?とかが、紹介されてます。

ブロイラーは出荷される前に、でっかい掃除機みたいなので吸い取られていくし、レタスを収穫する人間は、トラクターについてる移動シェルターみたいなのの下で、トラクターといっしょに低速で動きながら…かがんだままです!…ひたすら収穫する。

(外国の話とはいえ)これらのものを食べたいか?
食べたいとは思わないけど、現実の一端です。

私は「食べ物=愛情」だという認識で育って来た、育てられてきたので、ついつい摂りすぎる…しかし愛情を補うためには必要だった…という癖があります。でも気づいたから(IPのコントロールですよねー)ダイジョブです。

その点を差し引いても、食べものは非常に大事だと思う。
食べてるものでどんなひとかがわかる(ブリヤ・サヴァランですね)というのも至極当然。作る時の気の持ちようで、味も全然変わる。不思議で奥深い。そしてこの理論というか概念というか、
仕組みというかは、食べもの以外でもすべて同じです。

URL 2011年05月05日(Thu)23時13分 編集・削除

sarasaさん

グッドタイミングでしたね。(笑)
お役に立てて何よりです。

作るときの気持ち ちょっと今までおろそかにしてました。気をつけたいです。
私は明治生まれの祖母に育てられ「お残しはゆるしまへん、ご飯粒残したら目つぶれる」と言われて育ったので出された物は何でも綺麗に食べる=太ってました(笑)

sarasa 2011年05月06日(Fri)02時31分 編集・削除

敦さん

同じく!
「お残しは許しまへんデー」というのが現在息子の小学校ではあるみたいですが(笑)

私もずっと「食べものを残す=悪」の認識で、残せず太ってました。同時に「食べもの=愛情」の認識で、食べものからのみ摂取過多になってました。

作る時の気持ちが作用するらしいぞ? と気付いたのは、

・一度作って美味しかったものを、次に同じレシピと材料で作ったのに、味がゼンゼン違ってた

経験をしたからです。トマト煮だったかな。
何が違う?と、うんうん考えて、違いは気持ちしかなくて「えー、まさかー」「信じがたいけど、でもそうなのか?」と思ったのがきっかけです。


あとお肉のはなし(つづき)。
黒毛の高級和牛を切る人は職人さんです。
とある方の商品(切り方・並べ方)が、いつもあまりに美しいので、「どうしたらこうなるんですか?」と聞いたら「…きもち」と返ってきて。うわやっぱり!と思ったこともー。

「おいしくなーれ☆」はマホウではなくて、実効力のあるものです!



>せらつかさん

私的コメントで場をお借りしております~。
「銀の匙」気になります。

良い経験をしていると言って下さって、ありがとう。
せらつかさんの仰る通り「矛盾してるけど、それでOK」だと思います。肉食もありで、食べないのもありで、体が欲しなくても心で食べるのもありあり。

せらつ@中の人 2011年05月06日(Fri)03時50分 編集・削除

 うみさん美容推進委員会発足と聞いてやってきました(ぇー

 ちなみにたわしが咀嚼の真髄(っつーほど大げさじゃないけど)を感じたのは、
 玄米のおかげですねー。
 玄米食べよう、って事自体、ある時突然、川´ー`)から振られたことなんですけどねw

 ほんと、今思い返しても、「自意識で思い立った」って感覚じゃなかったですもん。


>敦さん

 もしも食肉がなかったら、って題目で、ふと連想したのが、
 地球上から現状より飢餓が減ってるかもしれない、って事でした。
 (なかったら、ではなく、余剰生産されなければ、ですけど)

 それは何故かってのは、いずれさらっと触れるつもりでする。


>sarasaさん

 「食べ物=愛情」という固定観念、その解釈で腑に落ちたですよまさにその通りだ!
 ありがとうございます~。

 まず大事なのは、食べ物を残さず食べることなんかじゃなくて、
 そもそも「残さざるを得ないような量の食べ物を用意しない(買わない・作らない)」ってことなんですよねー。

 ……あ、ストックしてるエントリのネタ使っちゃった(ぇぇー

 職人さん、すげぇ。奥深ぇ。
 どんな髭剃りにも哲学がある、はサマセットモームの言葉だったかな?


 てゆか、勝手にコメント欄が賑わうのは、
 たわし的にはうれしいのでどんどんやってってくだしいw
 ありがとございますだー( ̄∀ ̄ )

sarasa 2011年05月06日(Fri)04時15分 編集・削除

おはよんございます。(何時起き仲間?

今日はお休みなんで(世間様と逆を張っておりますー)、発言全開モードらしいです。

「食べものを残すんじゃない!(怒)」理論は、
明治のおばあちゃん・大正のおじいちゃん、昭和の前半世代には重要なことだった。状況が変わった今は、その理論が通用しないということで/派生して「かつて教わったことが、今も通用する」訳ではないということでー。

もう誰かのせい、人任せにして、「ナンデ○△□うぎゃー!(怒)」とかいうのは通用しないんだなーと冷静に思いますです。そういうことしてると淘汰されちゃう、もしくは搾取・吸収されちゃうです。何に?うーん、なんか黒いものに。
ネバーエンディングストーリーで言うところの虚無かなー。「吸い込まれちゃえばもう苦しみはないぜ(その代わり一切合切の感覚もなくなるぜ、とまでは言わない)」

コメント欄、使わせていただきますねー。ニホー。
あ、委員長(うみさん)、
美容促進委員会に入ってもいいですかー?

うみ URL 2011年05月06日(Fri)07時41分 編集・削除

うわぁっ!美容推進委員会が出来てる
しかも委員長になってるΣ(´∀`;)

>「残さざるを得ないような量の食べ物を用意しない(買わない・作らない)」

心底同意です。これって全国のお母さん含む大人が子どもに対しての「食」への姿勢を考えて欲しいと私は思います。

私、小学校低学年の頃、むちゃくちゃ給食食べるのが遅くて(昼休み終わっても食べれない)。転校したばっかりで、ハッキリ言ってトラウマになってました。

また人参が大嫌いなのに、母親に無理やり食べさせられて、戻してしまった事とか。また好きなモノを最後まで取っておくという食べ方も母親から教わりました。

で、ここで「良く噛まない、嫌いなモノも無理やり食べる」という悪癖と繋がっていきました。この悪癖は全ての物事の対応の仕方と繋がっていました^^;

本来、味わって食べることがどんなに楽しいことを理解して貰うのが、大人から理解して子どもに伝えていくことって、スゴイ大切ですよね!

URL 2011年05月06日(Fri)16時28分 編集・削除

うみさん 私もその美容何チャラ委員会に入部しようかな~よろしいでしょうか?

食べ方ですが、うちの家族はみんな食べるの早いです。
まあ親である私達が早いので いくらよく噛んで食べなさいといっても説得力がなかった。(笑)
でも大人になって他所の人と食事するときは ペースを合わせるようにしてるみたいです。

さむらい 2011年05月06日(Fri)21時27分 編集・削除

はじめまして…コメント読んでいただき、ありがとうございます

昨晩、携帯からコメント入力が出来なかったと思いましたが調整して頂いたのであれば、ありがとうございます!自分のうっかりなら、ごめんなさい(けっこう八兵衛です)


もうバレていると思いますが、自分は屠殺の是非については書いていません

干からびて死んでいる雀と食材にされた鶏肉の差は何か(又は、あるのか)という事なんです

そして“加工された食肉”と“それから切除された部位”の「どちらが感謝出来るか」と思いがちなのではないかと?
そうなんですよ、そうすると「感謝しなくても良い部位」が出来てしまうんですよね


いきなり来て長文というのも、どうかと思いますのでこれ位にします
こんなコメントで、せらつかさんやうみさん…皆さんに嫌われないかが心配ですorz

えーーっと…「師匠とドモン」が居られるなら自分は「アルゴ」が良いな(笑)等と思いつつ、お呼びいただきありがとうございましたっ!

せらつ@中の人 2011年05月07日(Sat)11時23分 編集・削除

>sarasaさん
>何時起き仲間?
 早くて2時半遅くて5時w

 過去の世代には重要なことだった、ってのはその通りでしょうね。
 それに関連して一つ思い出したことがあったんですが、
 せっかくなので後日それをネタにエントリ書こうかな、と。
 インスピありがとうございますです^^


>うみさん
>大人から理解して子供に伝えていく
 いつぞや雲さんも言ってましたね。
「教育とはプレゼントだ。与える側がまずそれを持っていなくてはいけない」って。

 いわゆるファミリーカルマ(家族世代間における観念の継承)ってのは、
 好ましくない方向に影響するものを指すと思うんですけど、
 でもそのある種力学的な継承ロジックってやつは、いくらでも善用できるんですよね。

 親はなくとも子は育つ。
 けれど親の背を見て子は育つ。

 結局、誰しも自分を磨くことしかできないし、それが最高のお勤めであり、貢献なんですねw


>敦さん
 まあそんなわけ↑ですので(ぇー
 お孫さんのお手本としても、ゆっくり噛んで美容して輝きましょうw


 文字数制限なので分割~

せらつ@中の人 2011年05月07日(Sat)11時26分 編集・削除

>さむらいさん
 てなわけでいらっしゃいませー久々のオチャドゾー(* ̄∇ ̄)_且~~

>設定
 あ、変えたかも、変えてないかも(どっちだ
 あれ?携帯からできなかったっけどうだっけ、設定確認しなきゃー、と考えつつ、確認したかどうかを覚えてない……(ぇぇぇ

 そーいやたわしずっとアドエス愛用してるから、携帯ブラウザでこのブログのレイアウト見たことないんですよ。
 確認用に、なんか良さげな携帯ブラウザエミュレータでも探すか……。


>もうバレていると思いますが、自分は屠殺の是非については書いていません
>干からびて死んでいる雀と食材にされた鶏肉の差は何か(又は、あるのか)という事なんです
 あーいえいえー、言ってしまえば単にたわしが「特に心に感じた」部分を抜き出して、たわしのいいようにネタにさせていただいたようなものなので( ̄∇ ̄;)
 観もフタもない言い方すれば、たわしが勝手に「屠殺」ってワードに過剰反応しただけですから(ぇぇー

 で、他の皆さんも多分理解が及んでる部分だと思いますけど、
 「雀の遺骸」と「じゃがいもの皮むき」も、やっぱり究極的には同じなんですね。

 それはつまるところ、さむらいさんご自身が書かれた

>「感謝しなくても良い部位」が出来てしまうんですよね

 この↑言葉と、たわしの書いたこの一文↓

>なぜなら、「肉親は百段上に置くほど大事な存在だ」となると、
>「肉親以外は、百段下にある大事ではない存在」になるんです。

 これらみたいに、アプローチは違っても、結局全く同じ所へと繋がっくてるんですね。

 言葉のつながりは、想いの繋がりでもあるです。
 
 だから、ですよ、
 
>こんなコメントで、せらつかさんやうみさん…皆さんに嫌われないかが心配ですorz
 それこそ東方不敗なら、「この馬鹿弟子がぁーっ!」とか「だからお前はアホなのだぁーっ!」とか言いかねませんぜw
 って暴言失礼しましたm(_ _)m
 まあともかく、それで誰かを嫌うような人は、たわし自身も含めてここには来ていないと、確信を持っておるですハイ( ̄∇ ̄)
 むしろ、「ん? なぜにそこで嫌われないか心配するんやろ(=・ω・)?」ってくらいの勢いで(ぇー
 だからご安心めされいw

 てなわけで、本当にありがとうございますです^^

 っつーかアルゴとはまた微妙に渋い(ぇぇぇー

けい 2011年05月07日(Sat)21時57分 編集・削除

せらつかさん

どうも、はじめましてけいと申します。
うみさんのブログのコメント欄から飛んで来ました。
私の疑問に対して興味深い記事をありがとうございます!
とても勉強になります!


せらつかさんの味噌汁のお話で、

>「自分の力」では、味噌汁一杯たりとて、満足に完成しませんし、ありつけません。

そうか、本来の自己の視点から見るとそうなるんだ!
と大変納得いたしました。
分かりやすく説明していただいてありがとうございます!


>矛盾ってのは、自我の中にしかないんですよ。

今まで「一本筋が通った考えは正しい」という観念に縛られていたようです。
これはともすれば矛盾を許さないことに繋がり、
また矛盾を許していない自分がいることにも気付きました。
矛盾という概念そのものがエゴのものさしだったことに気付いていませんでした。
矛盾という言葉をよく使う割りに注目すらしていませんでした^^;
気付かせていただいて感謝しています。

また、少し前の私は「生かされている」ということがどういう意味なのか分からずにいました。
最近になっていかに自分が人に助けられているかを知ることができたり、
たくさん愛を与えていただいていたんだと気付くことが出来るようになりました。
すると以前に比べて感謝の心がほんの少しずつですが深まってきたような気がするのです。
昔に比べて食事の時の「いただきます」に感謝の心を込めている自分に気付いたのがきっかけです。
また、今年に入ってから家での食事がなんとなく菜食寄りになって来ました。
飲食店に勤めているので職業柄、家以外ではお肉をいただく機会が多いのですが、
こうして心の中の探求を進めはじめたことによって
体も自然とバランスを取ろうとしているんでしょうか。
しかし、ハラペコだとついつい食べすぎてしまいますが^^;

またこちらにもちょくちょく寄せてもらいます。
今後とも宜しくお願いいたします!

さむらい 2011年05月08日(Sun)01時25分 編集・削除

せらつかさん
そう仰って頂けると助かります
ありがとうございます

今回このタイミングで事が起こり、やり取りさせて頂いた訳ですが
「今一度、食について何をか(!)感じろ」という事なのかも知れませんね

自分は、うみさんの「食のエネルギー」について納得すると共に、とても気になるんです

ですから、改めましてうみさんと、話を発展して頂いたせらつかさん、けいさんにも
ありがとうございます

そういえば以前、黒斎さんの所に「食べる物は感情移入の差で気が咎める」という様なコメントを入れた事があります
…卵は躊躇無く割れるけれど、鶏をしめるのは抵抗があるという例えもしましたが、話の前後が無いと何だか全く解りませんね(笑)

うみ URL 2011年05月08日(Sun)08時13分 編集・削除

おおっ、けいさんもさむらいさんもこちらに!

これだけ、皆さん関心があるということは、一番重要なテーマなんですよね。それはやはり生存に直結するからだと思います。

で、さむらいさん、嫌われたとか気にしないでくださいね(;・∀・) いやいや、私もそういう風に気にする人だったんですが、これ「他人は自分」で他人の目で自分を見てみると意外と気にしてない事が分かりますw

で、人間関係も生存に直結するわけですよ。

根底にあるのが「死の恐怖」です。せらつかさんの記事の「今日は死ぬのにもってこいの日」はまさにそれを考えさせてくれます。タイトルみて「ギョッ」としましたもん^^; 

つくづくエゴ=死の恐怖だと思いますw

さむらい 2011年05月08日(Sun)12時13分 編集・削除

たはは…うみさん、ありがとうございます(笑)

あと、こちらの皆様…keiziさん敦さんsarasaさんのコメントも読ませて貰いました

そうですよね「食」は、誰しも避けられない事なんですよね

…という訳で、お昼です(笑)←話がズレてます
皆様、気付きをありがとうございます

sarasa 2011年05月09日(Mon)07時59分 編集・削除

(えいやー! 今日明日連休!GWの仕事終わったやっほう!

>さむらいさん

はじめましてー
で、いきなりなのですけれど、コメントでご自分の意見を言ったからといって、嫌ったりしないですよ?
さむらいさんには、重要な心配ポイントなのだろうなと思って(妖怪アンテナ発動~)、私もコメントしてみました。

「嫌われるのヤダ」「どう思われてるか心配」
私もずーっとずーっとありました。
不安をついてくる要素(=自分にとってひっかかる要素)には、何かヒントが隠されていますー。探ってみるのも良いかもしれません^^

そして、GWがんばったご褒美は、上から落っこちてきた(商品にはできない、上級肉の端っこ)松ヒレ~。うまし!

けい 2011年05月09日(Mon)15時26分 編集・削除

うみさん さむらいさん

さむらいさん
こちらこそありがとうございます!

うみさんのブログを拝見しはじめて、
いろんな方の意見を伺うことができて勉強になってます。
こうしてみなさんに助けられて生きていることを感じてます(^O^)

さむらい 2011年05月09日(Mon)21時26分 編集・削除

sarasaさん、けいさん
こちらこそ

自分は…いきなり来て、あのコメントはどうかと思いまして(笑)

また来させて貰いますね
ありがとうございます

せらつ@中の人 2011年05月10日(Tue)07時41分 編集・削除

 わっは、ちょっと見れなかった間に賑わってたーw

>けいさん
 ようこそいらっしゃいましたーオチャドゾー(  ̄∇ ̄)_且~~
 なんだか色々と気づきのきっかけになれたようで、幸いでっす

 感謝と菜食寄りって、ほんと、たわしも同じなんですよ去年一昨年あたりからずいずいと変化してw
 まあそれでもまだ、時には感謝の心が湧かなかったり、つい食べ過ぎてしまったりってのはありますね。
 以前はそれを心で自罰したりもしてたんですが、最近はそれもかなり少なくなりました。
 ただ観察するだけ、っていう感じかな。それが望まない観念なら、ああ、望まない、って認めて手放すよう心がける程度で。
 なんだか、いろいろと「仏の掌の上の孫悟空」みたいな状態です。みんなそうなんでしょうけどねw

>さむらいさん
 そうかもしれませんねぇ。食についていろいろ感じて思索すると、さらにまた領域へと感覚が広がっていくようです……というかたわしの場合そんなケースみたいで(ぇー
 食がエネルギーなら、食以外もエネルギーなんですね。
 食という生命体にとっての根本エネルギーを見つめると、その更に根本を成すエネルギーに意識の及ぶ土台ができてくるみたいです。
 それが何なのか、今こっそりとたわしの中で「あちらさん」から特訓しかけられてるのが

 「呼吸」

 です。
 まあ、こっちはまだまだ形に出来るほど整ってはいないのですが、いずれその分野にも本格的に筆が及ぶ……かもしれないかもしれない?(ぇー

 そうそう。
>「食べる物は感情移入の差で気が咎める」
 ありますねぇ、ある意味心が物質(肉体)の反応に影響をもたらす一番端的な例^^;
 上の呼吸についても、例えばたわしが中学とかの頃、グラウンドをランニングするのは平気なのに、車道沿いを走るとすぐオェェェって吐き気がきてたんですね。
 要は、車の排気ガスを間近で吸ってる「感じがする(=思い込んでる)」せいで。
 今はそんなことないんですけどね……何というか「空間への印象は空気への印象」なのかもしれません。


 ともあれ、さむらいさんもけいさんも、今後ともよろしくお願いしますです~


>うみさん
>エゴ=死の恐怖
 あー、なるほど。
 しかも肉体的な死だけじゃなく、「エゴそのものの消滅」もエゴは恐れてますね。
 てゆか、肉体的な死も含めて、エゴ自身が消滅してしまう事態(いわゆる悟りとか)を、エゴは何としても避けたがりますね。
 うん、繋がる繋がるw ありがとうございます~


>sarasaさん
『苦しみは、あなたの中の医者が、あなたのなかの病んだ自分を治すために出す苦い薬』
 カリール・ジブランってひとの言葉だそうな。
 まさしく、答えという治癒に至るためのヒントという薬ですねぇ。

 で、上から降ってくるから下降り肉っていうんですねっ!(字が違う