えーっと、実は、昨日の朝はですね。
クンバハカについてじゃなくて、アノ存在の正体的な何かについて触れたエントリを上げようと思って用意してたんですが、
唐突に開眼(ぇー)しちゃったもんだから、今日に回そうということで……
と、思ってたんですが、
今日もまた別の書きたい事が出てきたのでそっちをアップします(ぇぇー
正体的な何かについては、またまた明日に回しちゃいますすんまそん( ̄д ̄;)
特にコトノハさんが楽しみにしてるのかも?w
つーかしれっとその予想惜しいっ(何
では、本題。
うみさんのブログのこのエントリで、特に心に触れる部分があったんですが、
コメント欄で返すにはちと長文になりそうだったので、こっちで書くことにしたんですよ。
それは、さむらいさん、そして、けいさんのコメント。
>ですがすぐに「いや…まてよ」…屠殺よりも苦しんで死んだのかも知れないけれど、鶏肉と何処が違うのか?
>そう思うと、いつも普通に肉を調理して…例えば軟骨や筋を処理する時には「感謝」が無いわけです、確実に食材や料理を粗末に扱ってはいなかったつもりなのに、何か違うなと
>「食」に対して感謝していたつもりでしたが、何だかもっと“根本”で違っていたのかも知れない
>いつも思うのが、植物も生きているから殺生になるのかな?と言う所です。
>それを言い出すと人間は生きて行けなくなりますが、
>人によっては顔があるものを食べるのが殺生だという人もいますし、
まず屠殺についてなんですが、
是非オススメしたい書籍があるんです。
それは「日本一心を揺るがす新聞の社説」
この本の序文の後、本編の一発目にて紹介されている、屠殺場で働くある男性のお話です。
上のamazonのリンク先でも、そのお話が途中まで紹介されてるので、それだけでも是非読んでみてください。
たわしがあれこれ語るより、それを通じて正直な何かを感じてもらった方が、多分速くて、(各自自身にとって)正確です。
で、たわし毎朝ほぼ欠かさず味噌汁を煮立てるんですが、
この時、「私自身が味噌汁を作っている」とは全く思わないし、思えないんです。
味噌汁を調味できているのは、ダシの昆布やにぼしが、大根やわかめや豆腐やらが皆身を献じてくれて、またそれらは天があり地が育み恵んでくれたものでもあって、またそれらを獲ったり運んだりした人々がいて、またガスコンロやガスや鍋や箸や味噌や麹や茶碗や水や、また調理のためにこの体を立たせて頂いている床や空気や重力や、そして調理のために動いてくれているこの四肢肉体や、
ええ。
以前このブログで触れたことがありますが、
たわしは、「心や体が自分自身」だとは思っていません。
(いわゆる「調子の悪い」ときはそれを見失ってしまうこともありますが、原則として、です)
「自分でやっている」「自分の力でやっている」のではなく、
「完全一切、自分以外の何ものかの力で、やっていただいてもらえている」という認識です。
この心と体も、「自分の心と体」であって「自分ではない」、つまり「自分以外の何ものか」であるって理解なんです。
パン焼きもそうです。
便宜上「パン作り」とか「パンを焼く」と書いたりはしますが。
小麦小麦粉水イースト塩砂糖卵バターオーブン調理器具キッチンシンク水道冷蔵庫捏ねる両手踏ん張る足腰めぐる血流えとせとらえとせとら。
必要なものが欠けたら、ままなりません。
家庭菜園なんかも一緒です。
「野菜を育てる」ことは、ましてや「野菜を作る」ことなど、到底できません。
できるのはせいぜい、「野菜に育ってもらう」ことだけです。
料理も食事も、食材や食材となってくれたいのちだけでなく、
全てが、全部が揃っていなければ、成り立ちません。
「自分の力」では、味噌汁一杯たりとて、満足に完成しませんし、ありつけません。
屠殺は、その不可欠であり、一片でもある要素なんです。
もちろん、無ければ無いに越したことはありませんし、
将来的には、せめて必要最小限にまで無くなっていくべきでしょう。そうあれと切に願うのが正直な想いです。
ですが同時に、厳密な部分で、それは他の不可欠や一片と、本質的な差はありません。
仏教の究極的な教えの内では、肉親への情も執著として脱ぎ捨てていきます。
なぜなら、「肉親は百段上に置くほど大事な存在だ」となると、
「肉親以外は、百段下にある大事ではない存在」になるんです。
本当は肉親も肉親以外も同じ人間で、ゆえに等しく大事に扱うのが幸福な有様であるだろうに。
つまり一般的に美徳美談と思われ語られることが、実はそうとは限らないのだという、いわば観念の超越。
それと同じことです。
だから、屠殺だろうと何だろうと、対象の経緯がいかなるものだろうと、
全部感謝するか、全部一体だと腹の底で知るか、
さしあたり大雑把にたわしが提示できる道は、その二つしか有りません。
最終的にはどちらも(ていうかこの後の話も全部)、自我から離れる道に繋がるんですが、そこは後でまたちらっと触れます。
で、植物はどうなの?ということについては、
直後にうみさんもレスされてる内容と同じなんですが、
「動物だろうと植物だろうと、本質的に全く違い(差)はない」です。
一面的な言い方ではありますが、敢えて断言すれば、「喰らう以上、植物だろうと殺生」です。
聞いたところによると、原始仏教・上座部仏教・小乗仏教とも呼ばれるテーラワーダ仏教では、
僧の方々は自ら料理はしないんだそうです。
一般的な感覚では極論に聞こえるかもしれませんが、
味噌汁に入れるじゃがいもの皮を剥くときも、やっぱり、「いのちを傷つけている」ことに変わりはないんです。
突き詰めていこうとすると、エゴの分離が自分の内にある間は、それこそ感謝なしにはやってられないくらいに、厳然たる事実としてあるんです。
(いや実際、食材と無心一体になるか、感謝するかしてないと、たわし逆に料理なんてできません。(ぇー
……ってのはすこし大げさかもしれませんが(ぇぇー
ちなみに、『料理してて楽しい』ってのもある種無心一体の境地です。だってソースエネルギーの本質は楽しい感覚となって現れるでしょ? 近頃じゃ、食材などに感謝しつつ料理してると楽しい気分がめりめり湧いてきますw)
とはいえ、ですよ。
それでも原則、生命体は食べなきゃ個体を維持できない。
そして、食べるとはいわずもがな、他の生命個体の維持を断絶させることでもあるわけで。
矛盾なんです。
この世は、矛盾のオンパレードなんです。
むしろ、矛盾しかこの世にはないんです。
さむらいさんが、
「何だかもっと根本で違っていたのかもしれない」
と表現したのは、多分まさにこの、矛盾そのものに対する不明瞭感なのだと思います。
この点、やはりうみさんが更に鋭くずばりと指摘していますね。同感です。
それを感じ取ってしまうのは決して異常でもありませんが、しかし同時に、エゴの決め付ける罪悪がそこに存在するわけでもありません。
かといって、そんな矛盾に対し目を閉じ続けた結果、真実に対して盲目になってしまった、つまり「無明」「愚痴」の状態に嵌ってしまった人々がどれだけ世間に溢れているかは、分かる人には痛いほど分かると思います。
ならば、心を修めた哲人は何と結論するか。
その矛盾を自身であぶり出し、自覚して、承知して引き受けて飲み込んで乗り越えた上で、
選んで食べうるなら植物、となるんです。
なぜなら。
ある意味で、植物とは唯一の「そもそも食べられるために存在している生命体」だからです。
だって、どんな動物も、植物が食べられてくれることなしには生きていけませんから。
草食動物はもちろん、肉食動物も草食動物を捕食する以上、草食動物の餌である植物がいなければ生きていけません。
雑食の帝王たる人間など、いわずもがなです。
だから、同じ食べるなら、動物よりも植物の方が、(本来的には)より食べるに適する、ということです。
これですね、ある歴史上の人物が同じことを言ったそうなんですよ。
それは、剣・禅・書の達人であり、幕末の三舟と呼ばれた山岡鉄舟。
ある時鉄舟が、門人門弟たちにすき焼きを振舞ったときのこと。
同じ鍋を囲みながら、鉄舟は肉を一切食べず、野菜ばかりを食べていました。
それを見て怪訝に思った弟子の一人が、
「先生、どうして肉だけを避けるのですか?
先生は禅を通じて常日頃、動物も植物も同じものだと仰ってますが、
それならば、食すならどちらを食べても殺生、同じことなのでは?」
それに対して鉄舟は。
「その通りだ。しかし我々は食さねば動けぬ。ゆえに、私は野菜のみを食しているのだ」と。
要は、融通自在なんですね。
矛盾は矛盾として受け容れつつ、その中で「自分にとって(ここ重要)」何が最善かをしっかり見極め、それを貫いている。
ある修験者はこんな事を語ったそうです。
「全て精神の乱れは飲食を元として起る。飲食を慎めば、仏道を修めるは容易い」
おそらく鉄舟は、剣禅一如を通じて、そのことを明確に理解体得実践していたのだと思われます。
無論、肉を絶対に食べるな、ってことじゃないですよ。
さっき挙げたテーラワーダ仏教でも、肉食そのものを禁ずる戒律は無いそうです(一部の動物の肉についてはあるそうですが)。
調理は行わず、信者から捧げられた余り物の食物で生かしていただくのだから、
「自ら貪りに赴くのではなく、ただ頂いて食させていただく以上、えり好みするなどもってのほか」とでも言いましょうか。
その時において肉も野菜もどちらも選択できる自由があり、片方だけで充分な活力を得られるなら野菜を選ぶけれど、
その時に得られる必要な食物が肉のみであれば、ありがたくその肉を頂く、ってことですね。
さっきの山岡鉄舟風に言えば、
「どちらを食べても良い。だからこそ、食べるなら野菜なのだ」って感じかも。
結局のところ、先も書いたことに繋がります。
感謝か、無我か。
仏教的な表現をすれば、
感謝は、どちらかと言えば在家信者向け、要は様々なしがらみや観念を抱えた世俗の生活の中で、実践してゆく道。
無我は、対して出家者向けの、世俗のしがらみを切り捨てた上で、観念を脱ぎ捨てていく事を選んだ人向けの、ストレートに真理を追究し、真理に溶け込んでゆこうとする道。
どちらが優れているとか、そういうことではないですよ?
ただ、在り様、立脚点が違うだけで、突き詰めた先に辿り着くものは、同じです。
結局ですね。
矛盾ってのは、自我の中にしかないんですよ。
「自我がそれを矛盾だと判断する」から、「それ」が「矛盾になる」=「矛盾という概念に定義される」だけであって。
だから、感謝の道も結局は、無我の道に繋がっていくんです。
無我の道ってのは、始めに書いた、自我から離れる道ってことです。
(自我を消す道、じゃないですよ。ヒトとしての形骸を保つ以上、それは事実上不可能です。ただ離れるのみ)
矛盾を飲み込むというのは、その一環なわけです。
本来矛盾などなく、同時に矛盾は矛盾として、
矛盾に見えるそれを、矛盾とも解釈できるそのままの形として、あるがままに見るというか。
それが腑に落ちたとき、
食べるとはどういうことか、食べることへの感謝とはどういうことか、
ひいては、生かしていただいているとはどういうことか、
「自分なりの」正解が、自分なりに明確に出来上がったことが「感じられる」と思います。
それは多分、言葉には中々し辛いものだと思います。たわしもそうですし。
だから、ひとまずは、
「自らが接する食に関連した『全て』の事象に、感謝の思いをめぐらす」
ことを徹底してみるのをおすすめします。
矛盾も罪悪感も、全部全部一旦脇に置いておいて。
食材やお膳を前に「その身を捧げていただいて、食べさせていただいて、ありがとう」
咀嚼しながら「血肉になっていただいて、ありがとう」
「活力になってくれて、ありがとう」
「人々に喜びをもたらすための力となってくれて、ありがとう」なんてのもありです。
それらを忘れてひょいぱくごっくん、としてしまっても、
思い出したなら胃の中にある食物に向って「ありがとうございます」、と。
消化した後でも、それこそ血肉になってくれてるわけですから、
自分の肉体全体に向って「ありがとう」。
それをどうにか続けてみて、習慣になってから、
ある時ふっと心に降りてきたもの、
それが、あなたにとっての答えであり、根本であり、始まりになるんじゃないかな、と思います。
その時がくれば、ああ、これがそうなんだな、って多分わかるでしょうから。
その時まで、わからないなら「単に今はまだわからないだけなのだ」と受け容れて、相変わらず感謝し続ける、それでいいんですよ。
うん。
なんだか書いてる内に、最初書こうと思ってたことより全然DEEPでウサンクサゲな方向に行っちゃったw。
ま、いっか。タイトルどおりファジーだから(ぇー
うみ URL 2011年05月04日(Wed)05時33分 編集・削除
「矛盾」というのは、まさにエゴの視点でのみ存在するものなんですよね。エゴは必死に矛盾を「理屈で辻褄合わせ」をしようとする。で、その矛盾を誤魔化そうと、「植物は命じゃないんだよ」等の屁理屈で自分を納得させてみたりするw
で、前に雲黒斎さんのブログで「自分の願いは自分で叶えることが出来ない」という事が書かれていました。これはせらつかさんのおっしゃる、味噌汁ひとつ調理することも、様々な恩恵で成り立っているという事なんですよね。自分が煮干を「創った」わけではない。
最近、美味い事に気づいたきんぴらごぼうを、よ~く噛んで食べてみたわけです。噛めば噛むほど美味いじゃありませんか!嫌いだった(嫌いな物多すぎw)お赤飯を食べてみました。ホントによく噛むほど、「うぉ、これってこんなに美味かったの?」と。
これは、せらつかさんのコメントで気づかせて頂きました。感謝です!
こういう縁も、さっきの味噌汁の例と同じなんですよね。全てが「縁」で成り立っている。
というワケで、食関係の記事も楽しみにしてますよ(ひつこくプレッシャーw)