たわしがいつも愛読してるメールマガジンのひとつに、
ちとえ藤堂塾さんの「仕事の課外授業」というのがあります。
このバックナンバーで、ネタ的に面白い問題がありましたので、
せっかくだからここでも紹介してみます。
つーわけで、推理してみてくださいな。
でわ問題。
『チケット売り場でのことです。
料金は、一般席が1200円、指定席が1700円です。
男の人が、2000円を窓口に出すと、
「一般席にしますか、指定席にしますか?」と聞かれ、
「指定席をお願いします」と言うと、
指定席のチケット1枚とおつり300円をくれました。
続いて、女の人が、2000円を窓口に出すと、
今度は何も言わずに、
指定席のチケット1枚とおつり300円をくれました。
なぜ、女の人が「指定席」だとわかったのでしょうか?』
ま、せっかくだから答えは、
当該メルマガのバックナンバーにしっかり書かれてるのでそっちを読んでいただくとします。(ぇー
→こちら。
さて。
上のリンクを読み通していただければお分かりと思いますけど、
「推理」と「想像」は、全く別のものです。
ですが。
日常でもよく自他の言動を注意深く観察してみると、
この推理と想像を混同して、というか想像を推理だと完全に勘違いしている場合が、
びっくりするくらい多いのに気づくと思います。
全く同様に、事実と意見とを混同している場合も非常に多々あります。
勝手な想像や偏見に基づいた「意見」を、
客観的でありのままの「事実」だと勘違いしているとしか言えない言葉を発してたり。
「あの人がウェイターさんに怒鳴っている」は事実。
「ウエイターさんに怒鳴っているあの人は、なんて短気な人なんだ」は想像です。
「自分は英語が苦手だ」というのも事実であるかのように言う人が居ますが、
それも実はただの意見・想像でしかないんです。
この表現だと、過去現在未来全てにわたって、「自分」は英語が苦手なままです。
誰がそんなこと断言できますか。
だからそれも、
「自分はちゃんと英語を学んでこなかった」というのが事実で、
「自分はちゃんと英語を学んでこなかったから、今現在英語を使いこなせていない」というのが推理となります。
これらのパターンは他にも、
「自分は機械オンチだ」
「自分は体が悪い」
など、数え上げればキリがないくらい当てはまります。
「いや、それは言葉のアヤだよ」
という向きもあるかもしれません。
それならどうして、アヤではなく、
推理は推理、想像は想像、事実は事実、意見は意見とした、
本来的な区別に基づいた表現が使われてこなかったんでしょうか。
その根っこにある答えは明白で。
やっぱり、想像を推理として、意見を事実として、
取り違いをした上で物事を判断することが正しいのだと、
社会的にも文化的にも習慣的にも染み付いてしまってるからなんですね。
アヤという言葉で正当化してごまかしてるだけで。
ありのままの情報、つまり事実。
この事実に基づいた推理と、
事実の外を勝手に推測した想像。
その違いは、慣れればすぐに見分けがつくようになります。
ちょっと通りがかった飲食店の席なんかで、こんな発言が聞こえることもあるでしょう。
Aさん「Bさんっていつもああでこうで……きっとあんな時やこんな時もあんな風だったりこんな風だったりするんだわ。Bさんって本当にろくでもない人よね」
以下書くこともある意味想像でしかない、ってのはあらかじめ断っておきますが。
Aさんが見たBさんは、確かに毎回「ああで、こうで」という言動をしているのかもしれません。
でも、「いつも」ではないはずですね。
24時間四六時中Aさんの気に入らない行動を取るほど、Bさんは暇じゃないでしょう。
それに、Aさんの見ていないところでは、全くそんな言動はしていないかもしれない。
少なくとも、それを白黒つけきれるだけの情報を、一体誰が持ち合わせているんでしょう。
それ以降は、もう完全に勝手な想像&意見です。
そして、実際にそんな言葉を発しているその瞬間、その当人の心境ってのは、
「推理しているつもりで、完全に想像と取り違えている」んですね。
別の言い方をすれば、事実と意見を混同しています。
後からそれを指摘して、「いやそんなことないわ!」と否定しても、
先に口にしていた瞬間どうだったか、なので、否定に説得力はありません。
こんな風に、
「推理と想像」、あるいは「事実と意見」を取り違えるというのは、
えてして、自他への愚痴文句悪口泣き言不平不満に用いられます。
つまり、
「推理と想像」、あるいは「事実と意見」を取り違えるというのは、
人が自分で自分の心を汚し苦しめる場合の黄金パターンなんです。
逆に言えば、
この取り違えを見破ることで、自分の心を苦しめる罠を回避できることになります。
というわけで。
日頃自分が語る言葉の数々。
それらが果たして、
「推理」なのか「想像」なのか。
「事実」なのか「意見」なのか。
しっかりと見極める目を養うこともまた、
苦のない、幸せ満ち溢れる人生へのチケットかもしれません。
河内国之言珠媛こと敦 URL 2011年11月19日(Sat)22時57分 編集・削除
友達同士と判ったなんてことを推理したと想っておりましたら、これは想像やったという結果でございました。
確かに見極める目を養わないといけませんね。
思う壺のひかかりようでございました。(笑)
いつも面白い情報と記事ありがとうございます