某所で「悟り」についての話題があって、ふと思ったこと。
本当は、この世に悟った人なんていません。
だって、悟るってのはある真実に気付くってこと。
いわば、どんなに否定しようとしても否定のしようもなく、ある意味力ずくとさえ言えるくらい圧倒的に、だけど素直に納得させられてしまう現象。
その真実に気付いてしまうと、あらゆる存在・非存在の一切合財が、例外なく全て同一で単一で唯一のものだって理解してしまうから。
そうすると、悟った人は、その自分以外の存在・非存在は全て自分だって見抜いてしまう。
すると、「自他」でいうところの「他」が消滅しちゃう。
「彼我」の「彼」でもいい。とにかく消えちゃう。
でも、それだけじゃない。
「他」が消えちゃうと、「自」も存在できなくなっちゃう。
なぜって、よく考えてみてほしい。
「自」も「他」も、互いの関係性なくして、互いに存在できない概念でしょ。
「右」という指向なくして、「左」は存在できない。
「硬」という評価なくして、「軟」は存在できない。
「悪」という観念なくして、「善」は存在できない。
片方がなくなれば、もう片方は比較対照を失って、ただ「それ」としか認識できないでしょ。
水密隔壁で左右に区切った水槽に水を満たせば、右の水と左の水で別れているように見えるけど、その隔壁を取り除いて境界がなくなった途端、右の水と左の水を区別できなくなっちゃうでしょ。それと同じ。
だから、悟った人は、悟った時点で、悟った人の自己、悟った「私」が消えちゃうんです。
よって、この世に悟った人なんていないんです。
ただ、「悟りの状態」があるだけなんです。それが本質です。
……。
でも、やっぱり、悟ってる人はいますw
矛盾してる? でも正しいの。
言葉なんて、一度に一方向からしか物事を表現できないとても不便なツールなんだから。
ついでに言えば、「正しい」も「しか」も「不便」も、「悟ってる人」の眼からみればただの虚構や虚飾でもあるわけで。
だけどこれもほんとは正しくなくて、「虚構」や「虚飾」というのも余計なわけで。
だけど「正しくない」や「余計」も以下無限ループ。
これが、言葉というものの限界。
大抵の人は、言葉で表現できないもの、理屈で成立できないもの、それらを拒絶し、否定する。
だけど、本当の「それ」、
その全ては、理屈を超えた、ものの見方の先にある。
固定観念を脱して、ついでに言葉という枠組みの形骸も脱して、自由自在に観れば観られるよ。
元々、最初は誰もが「それ」を観てたんだから。
ただそれだけのお話。