まず私信。
ドライブするのは構わないけれど、
いいのかいほいほいついてきちまっておれはのんけでもかまわずくっちま以下略(ぇー
いやーすんません、うたいしことの更新空いちゃって。
仕事の都合と、ちょいと食に関するセルフ人体実験の度が過ぎて体調崩してましたww(ぇぇー
その間ちょこちょこと変化とかあったんですがそれはまたぼちぼちとしまして。
そんな隙(隙じゃねェよ)に、ユウさんが新ブログ立ち上げたそうで。
いやあ、読ませて頂きましたが、やっぱり清々しいと感じます。
前にもどこかで書いた気はするんですが、
これほどの内容をチャネリングで得てきたというのは、
本当に素晴らしい感受力の持ち主だなぁとつくづく感服します。
そういえば、というわけじゃないんですけど。
もう長いことブログには登場してない、これ→ 川´ー`)について。
※今回いつもより特にかなり長い&くどい&意味不明&支離滅裂臭が激しいので、それでも一向に構わんっつー物好きな方だけ続きをどうぞ。
うわぁ、あんたも好きねぇ(茶(ぇー
……失礼しました。m(_ _)m
てなわけで、話のとっかかりは川´ー`)について。
登場してないのも当然の事で、以前伝えられた、
『いずれこのチャネリングなどと呼ばれる能力を失っていく』
『川´ー`)そのものになっていく』
という内容が指し示していた意味合いの通りに、もう随分前からなっています。
今なおその流れでズンドコ進み続けていってます。
かといって、全く疎通してないわけでもないんですよ。
ふと意識を向けて問いかければ可能ではあるんですが、
主に伝わるのは、まったく他者向けとは言えない、自己の内面的なものばかりでして。
誤解を恐れずに言えば、「今後たわしの進むべき道」とでもいうものに関するものなんです。
とはいえそれも、川´ー`)というパーソナリティー的な何かとの会話・対話というニュアンス色でなく、
自と他、内と外の境界のない、より渾然一体としたものです。
で。
そうして得られる結論は、いつだって一つしかないわけで。
だからネタにしづらいんですよw
でも、それでいいと初めから思っています。
そもそもメンターとかチャネラーとかって呼ばれるものになりたいわけでもないですし。
なので当然、現状のこれは何ら特別なものでも神秘的なものでもありません。
(いや以前のももちろんそうなんですが、まあそれは置いといて)
スピに興味があろうとなかろうと、自覚があろうとなかろうと、
誰でも既にそのものとして行使し続けている、
というより、行使していない時などありえない、いわば普遍の現象です。
人間として生存しているなら誰しも、自覚の有無にかかわらず、
その間例外なく心臓は鼓動を繰り返しているのと同じことで。
正直に白状するとですね。
たわしはもう既に、言葉という二元性の上にしか成り立たないツールの限界ゆえに、
言葉によって意識的に、直接『それ』を表わそうとする試みをほぼ放棄してます。
だらだらと惰性めいて駄弁っちゃうことはあるでしょうけど。このエントリみたいに(ぇー
ていうか、その辺は他の優れた方々にお任せw
喩えると、
正●角形の「●(数)」を増やせば増やすほど、図形は円に近づいていきますが、
真円とは無限角形のことですから、どこまで●を増やしても、真円にはなりえません。
真円を『それ』、●を言葉に置き換えても同じこと、という具合で。
デジタルサンプリングはオリジナルに限りなく近づけることはできても、
完全なオリジナルにはなりえない、って喩えもできますかね。
ただその代わり、というわけではありませんが、言葉でそれを表わすのではなく、
(ここでは)言葉を用いた活動そのものによって、自らがそれで在ることを体現する方向性を選んでいます。
むしろ、元々からそうしたかった(のを自覚した)、という方が正確かも。
だから、物好きにも小説を公開したりしてるんですよ。
デジタルでのサンプリングレートを上げていくのでなく。
初めから完全なアナログとしてある、といいますか。
地デジには逆行しますが(ぇー
ゆえに、「言葉で直接それを表わそうとする」方法論より、
「スピ的な業界の枠の中で」「スピ的な真理を求めたがる人々」には、
とっても察しにくい&受け入れられにくいはずです。
だって、それは一見すると、今まで目に見えている現実の世界と何ら変わりのない、
きらびやかでも神秘的でも奇跡的でもなんでもない、ある意味泥臭く古臭いあり方ですから。
ほら、とっくに世間は地デジだし(もういいから
でも、たわしは以前から時々、しかし一貫して言ってることですが。
世に霊的なものなどないし、霊的なものしかないんですよ。
言葉じゃこの表現が限界ですけれども。
別な言い方をすれば、大事なのは、
「今、ここで、己であること」
「今、ここで、やる事をやること」
それだけなんですよ。
そしてそれは、己というものは初めから何処にもないし、
己しか存在していない、という智慧の上にだって成り立つものです。
敢えてさらに付け加えれば、「今、全て、そうである」だけです。例外なく。
○○の境地(例えばワンネスとか悟りとか空とか)でなければ、隔絶されている、なんてことでもありません。
たとえば「エゴや分離観念をぶっ壊したぞ」なんて息巻いても、
そのぶっ壊したものさえ実はそもそも存在しないんだから、
ぶっ壊したと認識してる時点で、また新たな分離の始まり、以下無限ループです。
坐禅和讃の「闇路に闇路を踏みそえていつか生死を離るべき」みたいな。
あるいは「お前は一体誰と戦ってるんだ」みたいな。
ついでに、ぶっ壊した爽快感のせいで、何やら悟った的な感じの錯誤にも陥りがちですし。
だから、そもそもハナからそのループを超えるだけ、
というか、実は最初からループすらないのを見破るだけのことなんですが、
そこにこぞって、きらびやかだの泥臭いだのといったラベルを持ち込んでも、
一体何の違いがあるのか、実はたわしには(語弊はあるけれど)正直よくわかりません。
だって、上でややこしく挙げ連ねた大事なこと全部、単に、
「今にくつろぐこと」
に集約されちゃうんですから。
うん、最初からそう書けばよかったね。(ぇー
で。
最初に「進むべき道」って言葉を使いましたけれど。
この「べき」論っては、スピ的教義をかじった方には拒絶反応の出やすい言葉ですね。
「べき」事など本質的に無いし、「道」なども無いし、「今ここ」以外にはないのだから、と。
それはその通りです。
が、拒絶するのは、字面(二元性)のみに囚われた姿勢に基づいた誤解です。
そもそも、「「べき」があってはならない」というのも「べき」論です。
その矛盾に困惑することこそが、字面に囚われている証左です。
ここでの「べき」は、その人にとって、そう行動することが自然な状態である、ということです。
そしてそれは、時として闘争や競争である場合も実は皆無ではないんですが、
ただしかし、不遜や傲慢や怠惰や怠慢などとは決して相容れません。
実際、ワンネスにあるだの自我を手放しているだのと言葉では言っておきながら、
怠惰と怠慢のまま、いま自分がやるべき事を全然やっていない人も、中には居ます。
ま、誰しもそう完璧とはいきませんから、程度問題なんですけどね。
目に余る場合もある、というくらいのニュアンスで。
本当にワンネスで悟りで無我な人なら、
いま自分がやるべき事なんてきっちり手をつけているはずなんですよね。
それを自ら一切何の物理的行為をしなくても、自分以外の外部から勝手に状況が訪れてくれる、と勘違いしているわけです。
そして、ここで使った「べき」という言葉の意味を解せず、アレルギー的脊髄反射で拒否反応を示したりして。
いや、勝手に状況が訪れてくれてもいいんですよ。そゆこともありますし。
でも、そんな「奇跡的」「神秘的」なものにばかり価値の重きを置いちゃう。
そうなると、その無我やらワンネスとか、
場合によっては各種の霊的能力やら超常体験とかやらが、仮にホンモノであったとしても、
それらは、ただの快楽物質(麻薬)化、形骸化します。
禅風に戒めれば「禅定に留まるな」ってところでしょかね。
ああ、またややこしく書いちゃった(ぇー
で。
初めのほうで触れました。
「得られる結論は、一つしかない」と。
それはとどのつまり
「今、ここで、行動する」
それだけの事です。
「想いの力」と「行動の力」を別々に行使せず、
同時に、束ね、「今」という力として行使するんです。
言い換えれば、「今以外には行動できない」とハラくくるだけです。
怠慢などに明け暮れる人は、この二つの力を別々に行使します。
それは失敗という糧にすらなり得ません。それ以前の無力であり、妄想であり、傍迷惑です。
精神的な学びを通じ、自分が居ない、存在しないことを識ったのならば、
行動を起こす「自分」もいない事にも気付きます。
つまり、
「自分」と呼ばれるものが起こす適切な行動もまた、宇宙の現象でしかないのだから、
自分が存在しないことを知ることで、初めて自分は今何でもできるというパラドクス的自覚が芽生えるんです。
すると、一見どんなに過酷であろうとも、
それが適切な、あるいは開拓的な行動なら、
恐れず迷わず飛び込める土台ができます。
逆に、そうした行動を怠惰や怠慢で先延ばしばかりするのは、
まさに「エゴ」とやらを超越することに執着してしまった人が大嫌いな、「エゴまみれの証明」なんです。
「え? 怠惰や怠慢であっても『無行為』というのも宇宙の現象じゃないの?」
なんて開き直る人は、無為と無行為を混同しています。
無為は「今に抵抗せず、今にくつろいでいる」のであって、無行為とは違います。
ま、えらそうな事を言っても、
たわしだってつい先伸ばしたり二の足を踏んだりすることはまだまだたっぷりとありますけれど(ぇー
で、実はここからが(個人的に)一番大事なことなんですが。
こういうゴタクをつらつら書き連ねていると、びしばし伝わってくるんです。
「今やるべきことはそんなことじゃないだろう。道や在り方に照らせば明白だろう」と。
うん、わかってるんですよ。
でもね、一応説明(になってるかどうかはともかく)だけはしとかないと周囲にアレだなぁ……ってつい思っちゃって。
ただ、これだけは。
どこかで誰かが言っていたことの受け売りですが、
「スピリチュアルとは松葉杖のようなもの」だと、たわしも思います。
一度は心打ちひしがれた人が、また自らの心の足で立って歩き出せるようになるまでの、補助具に過ぎないと。
趣味的、あるいは清涼剤的に嗜む程度ならともかく、
あるいはその道のプロというわけでもない限り、
いつまでもだらだらと依存し続けていいようなものじゃないと、たわしはまた最近特に実感しています。
もちろん、松葉杖を提供する役目の人も尊いです。必要です。
でも、杖を提供しているつもりが、実は自身がいつまでも松葉杖に依存してしまっているだけだった、というのでは、本末転倒です。
本来なら既に自分で歩けるようになっているにもかかわらず、です。
特に何が、というわけではありませんが、
ネットなどの公開上でしか見えない・受け得ない姿と、
実際にオフライン・オフレコで受け取る人格とを比較して、
そのあまりの矛盾さ加減に、これはとてつもなく杖に依存しちゃってるなぁ、と強く感じられる人がいます。
判別法は簡単です。
言ってることはスピ業界的にもっともだけど、杖(要はスピ的概念)を外した話ができないか、
あるいは杖を外した話をするのに、ヒステリーや悲観や蔑視や自身の優越性などを用いてしか臨めない。
中には、その両方をばっちり兼ね備えちゃってる場合もあります。
そういうのを見るにつけ、ある一面では哀れにもなってきますが、
それはその人の問題だからたわしゃ知らん。(ぇー
まあ、そういうわけで。(何
今後もまあだらだらと、勝手気まま思いつくまま曖昧に更新していきますんでどうぞよろしゅう。
そもそもこのブログだって、いわゆるスピ系のブログじゃないしね!w(ぇー
さーて久々(?)に全編意味不明な「たわし語」長々振り回しちゃったんで、つぎはもっとまともで短くシンプルなモン書くよう善処しむます(´・ω・`)(ぇー
うん、しかしまあ、わかってないのに知ったかする愚かな人は、だらだら言葉ばっか重ね連ねるってホントだね。
だってほら、たわしってばなーんにもわかってませんからっw
てなわけでどんなわけだ。
ここまで読んで頂いた画面の前の物好きさんs、本当にありがとうございまっする!
「わしらのほとんどは自分自身を閉じこめる監獄を作るのです。一定の期間、そのなかに住んでいると、その監獄の壁に慣れてしまい、人生とはこんなものだという偽りの前提を受け入れるようになるのです。そういう信念にとらわれるやいなや、人生をなんとかしようとか、夢を実現しようという希望を捨ててしまいます。あやつり人形になり、生きながらの死に苦しめられるようになるのです。ある社会運動やビジネス、他人の幸福のために自分の人生を犠牲にするのは感心すべき尊いことかもしれません。でも、自分がみじめで、満たされていなければ、そして満たされていないことを知っていたとすれば、そうした生活をつづけるのは偽善であり、嘘なのです。そんな生活は、創造者があなたのなかに植えつけた信仰に対する反逆です」
『この世で一番の奇跡』(オグ・マンディーノ)より。
――自由と平安と幸せを求めて探究に分け入った筈の、心と精神と魂の世界が、
いつのまにか、あなたを閉じ込める監獄と化してしまってはいませんか?
sarasa 2011年12月09日(Fri)04時40分 編集・削除
うん、自由って、なんでもありなのに、
実際なんでもありだと、ひるむというか、自分で脳内ブレーキを勝手にかけちゃうというか(゜゜)
…お客の文句を言ってる時点で、人のこと、えらそうなことは言えないやー。まっ、日々精進。
今はもう回復されたのかな。
心身共にご自愛下さいませ^^