超個人的新着RSSリーダー

  • JavaScriptをONにすると、RSSリーダーが表示されます。


     

記事一覧

死因

 てなわけで。
 公私共にちと用事が詰まって中々更新できなかったものの、
 おかげさまでどうにか南北くんも終わりまして、
 まあ一段落とばかり優雅にブランデーを傾けとります(朝っぱらからかよ!?(嘘です。

 ところで、ですよ。
 この更新あいてた間、一日のアクセス数がそれまでよりも数倍になってたんですね。
 昨日今日でようやく落ち着いてきましたが。


 その理由ってのが、これ。


ファイル 536-1.jpeg

 ここしばらくのアクセスログ、リンク元URLリストです。

 他にも検索キーワードとしてログに残ってたのをさらっと拾い上げてみると。

 「小林正観 訃報 死因」
 「小林正観 死因」
 「小林正観 死亡原因」
 「小林正観 死亡 原因」
 「小林正観の死亡原因」
 「小林正観 死因 記事」
 「小林正観 逝去 理由」
 「小林正観 はなぜ死んだか」
 「小林正観 なぜ死んだ?」
 「小林正観はなぜ死んだのか」
 「なんで小林正観は亡くなったの」

 とまあ。
 この正観さんの死因への関心の高さよ。


 どんだけ気にしてる人多いのさwといいますか、 
 そんなの知ってどうすんのさ? ってのが、たわしの偽らざる感想ですわ。

 まあ、中にはミステリアスなイメージを持って「○○の真相に迫る!」ってな三面芸能的な感じの人もいるんでしょうけれど、
 そういったのを除けばほとんどは、

 「自分にも起こりえるその死因を気にしなければ、不安でしょうがない」

 という感じが根っ子にあるんじゃないかな、と個人的に感じてたりします。


 今日はそこにたわしなりのあまのじゃっかーを突っ込んでみたいと思ふですよ。


 続きを読む

  • この記事のURL
  • コメント(7)

  •  
                       

コメント一覧

sarasa 2011年10月30日(Sun)14時51分 編集・削除

祖父はまさに「もちし」をしましたがー
…体が衰えつつある中、惚けたばあちゃんに出されたもちで天界に行けたのだとしたら、幸いだったかもしらん、と孫の私は思ったり。

死について話すのはむつかしーんですが、
死をおちゃらけたように扱っている訳ではなく、(外からは不謹慎なように例え見えても)、あるべきタイミングだったと、肉親として納得できるというか。ひょっとしたら生きている間の交流に悔いがないから、そう思えるのもあるかもしれません。

死因は選べんですが、死は必ずやってきますねー。

河内国之言珠媛こと敦 URL 2011年10月30日(Sun)17時21分 編集・削除

私こんなこと言っていいかどうかと言いつつ そこいらで言うとりますが、死ぬの怖くないのです。
どんな死に方するのか判りませんが・・・(笑)
恐らく死ぬの怖い人は死を迎えるまでのプロセスが怖いんだろうと想います。
だって死を迎えたら本人さんはもう何にも判りません。
なぜ死が怖くないかと言うと、死んだら確認したいことがいっぱいありまして~
まず俯瞰して自分の死体を見るとよく言いますが、ほんまかどうか?
それから自分の今までの人生を走馬灯のように見せてくれるとよく言いますが もしこれが本当だとしたら、確認したい事項があって、死を迎えたら私は上記のこともあるので凄く忙しいのです。(笑)
勿論死を迎えるまではしっかり生きるつもりです。

ponsun URL 2011年10月31日(Mon)07時55分 編集・削除

それはびっくりです!
死因にそれほど興味があるとは?

そんなこと、どうでもいいじゃん
(東京弁ですみません…嬉笑)
って、言いたくなります


生ずれば、滅する。
これは自然の摂理。

そこには、どうやって滅するか、
つまり死因や死に方なんて
実はまったく関係なくて、
訪れる死そのものは、みんな等しい。


『死は人生の終末ではない。生涯の完成である。
 ゆえに死を恐れることほど愚かなことはない。
 かくも醜い一生の本跡をたずさえて、神の御前
に立つことこそ、恐ろしい』
  ――マルティン・ルター


すなおに共鳴いたします

そして、またどこかで生を受け、
循環を繰り返してゆく


ありがとうございます

せらつ@中の人 2011年10月31日(Mon)10時31分 編集・削除

 実はですね、このエントリの原型を書いたのは今年の1月でして。
 まぁなんだかんだでデリケートな話題でもあるし、無理に高説ぶってもなんだかなってのもあってずっとお蔵入りしてたんですよ。
 話題が餅なのはその名残。

 でもまあ正観さんの件もあって、読み返してみて、
 半年以上たっても全く今の自分とこの点でスタンスが変わってないことに気付いて、
 ああ、回りを気にして自分の意見を封じ込めててもしゃーないし、
 おまけにタイミングもタイミングだし、いっちょあまのじゃっかー!

 ってノリで公開した次第でござます(ぇー



 文字数制限でレスは次~

せらつ@中の人 2011年10月31日(Mon)10時32分 編集・削除

>sarasaさん
 ふむぅ、そうだったんですか。<もちし
 幸いなのか何なのか、たわしの周囲では今のところいないです。
 ちなみにたわし自身は中学生くらいの頃、餅ではなく巻き寿司の海苔が喉につまった(というか気管に貼りついた)ことはありましたがw
 その時は指突っ込んで喉元からかろうじて顔を出してた海苔の端っこをつまんで、ずるっと引っ張り出して事なきを得ましたがw

 生きている間の交流、まさにそのとおりだなぁと思いました。
 人生の後悔は、ほとんどが「やったこと」「選択したこと」よりも「やらなかったこと」「選択しなかったこと」によって起きますから。
 その点、生だの死だの何だのという境界は、やっぱりないんでしょうね。
 ありがとうございます。


>河内国之言珠媛こと敦さん
 死自体は怖くないっての、なぜかたわしも同じなんですよ。
 あんまり痛すぎるのはできればご遠慮願いたいけどww
 なので、死が怖いのは死までのプロセスが怖いのと勘違いしてる場合が多い、ってのも同じく前々から思ってたことです。
(もっとも、どうしても遣り残したくないことがあるから死が怖い、という人もいるでしょうけれど)

 ちなみに、ちょっとグロめですが中世ヨーロッパでの逸話にこんなのがあります。
 ある学者が、まあいわゆる暴君の圧政下の理不尽な罪で逮捕されて、ギロチンにかけられることになった際、助手にこう頼んだそうです。
「私の首が落ちたら、私が何回瞬きし続けられているかを数えて欲しい」
 で、実際に助手が落ちた首の傍で数えたところ、20回くらいだったとか。

 本当かどうかはまず確かめる機会もないですし、まあいわゆる霊的な話題からはズレてるんですが、
 唯物的にはこんな見方もできますよーという一材料くらいにとっていただければw


>ponsunさん
 死因への興味、というかひいては病気や事件事故への興味が無尽蔵ですよ~
 ってなくらいに次から次に話題にする人、本当に多いですよねw
 むしろそれしか話題にしない人もいるくらい……。

 個人的には同じく、どーでもいいじゃん、なんですねw
 適当に受け答えしつつ、静かにその場から遠ざかるようにしています^^;

 循環で思い出しましたが、
 死ぬという意味の言葉のひとつに円寂ってありますよね。
 循環を表わす円という字が使われていることに、智慧を感じずにはいられませんですはい。
 ありがとうございますです^^

くーこ 2011年10月31日(Mon)18時14分 編集・削除

おおお。横レス失礼します。

>中世ヨーロッパでの逸話

まぁ、なんて心意気!!
チャネの仕組みに挑むどころの話じゃないですねー。
自分の死ぬ瞬間にどこまでが生でどこからが死か?
その疑問に挑む!!
みたいな学者精神!!すごすぎますねー。
私も見習いたいですねー。
最後の瞬間までデータを残し続けたいその精神にあやかりたす!
ジェットコースターの頂上で手を上げてる場合じゃないですよねー。

死ぬ瞬間に(それもギロチン・・・)
「見てて、見ててね。数えててね。いくよー?イイ?それっ」
パチパチパチパチパチパチ・・・
って瞬きしまくるんですよね~。うーむ。
リアルにすごい・・・
(パチパチパチパチ・・・あ、拍手ではないです)

せらつ@中の人 2011年11月01日(Tue)17時43分 編集・削除

>くーこさん

 いやー、たわしも実はかなりのうろ覚えで書いちゃった話なんですが(ぇ
 あらためてぐぐってみると、結構逸話としては残ってるみたいですね。
 WikipediaとかX51.ORGとかにも載ってました。20回じゃなくて20秒間だったですがw

 とりゃえずネタ的にはグロくて嫌な人もいるでしょうからURLは載せませんが、
 興味があればGoogleとかで「ギロチン 瞬き」って検索してみてくださいませせせ


 どうでもいいけど
 「ちぱちぱちぱちぱちぱち」って擬音見ると安西信行さんのマンガを思い出す……(何

 ありがとうございますんす^^