他所では言葉の限界ってものを時々俎上にのせるたわしですが、
しかしそんな言葉、というか言語や文字にも、もぬすんごく深い智慧が含まれてることも多いわけで。
たとえば、坐禅の「坐」は土の上に人が二人。
土というゆるぎない大地の上で、二人の存在が向かい合ってるわけです。
この二人は何かっていうと、
「本来は幻であるはずの主観によって作られ、それが本物だと信じてしまっている(この世的な)自分」
と
「内にある真なる(あの世的な)自分」
つまり、坐禅ってのは内なる自分と対面し真摯に向き合う禅ってことになるわけですよ。
他にも、たとえば「神経」。
「経」ってのは「経路」って意味合いがあります。
つまり「神経」=「神の通り道」。
なんで神が通るのかっていうと、
仮に「世界を創造しているのが神」と定義しましょう。
するとですよ、仏教で言う「五蘊皆空」を逆手に取れば、
「その人が五感を通して認識している『世界』は、
五感によってもたらされた感覚情報によって創造されている」
といえるわけで。
映画「MATRIX」では、
『現実とは何だ? 明確な区別など出来ない。
五感で知覚できるものが現実というなら、それは脳による電気信号の解釈に過ぎない』
というモーフィアスの台詞がありますね。
つまり。
「世界を創造しているのが五感からの感覚情報」であれば、
その「感覚情報=神」であり、
神経とは「感覚情報という神が通る道」、となるわけです。
あーら、なんて神がかり的な命名センス。
こんなふうに、表意文字を持つ日本語には、何かとすぴりちゅあーる方面に意味深い語がたくさんありそうな。
なんとなく、表音文字しかない言語よりもずっと濃くて美味しい神秘的なエキスが凝縮されているような気がしなくもなくなってきます。
……が、それはとっても早とちり。
その証拠に、表音文字しかない英語にも実はそんな智慧がたっぷりあるようで。
たとえば、「idea」(アイデア)。
「考え」「思いつき」といった意味合いの英語ですが、
語源は古代ギリシャ語(だっけか?)の「イデア」。
イデアとは、プラトンが「物事の本質」という意味合いで定義提唱したそうなんですが、
ざっくり表現すれば、それは東洋的に言うところの「気」、つまり目に見えないエネルギーのことを指します。
ちょっと精神世界をかじった人なら、
突如降って湧いた様々なインスピレーションというものは、実は天使だとか守護霊さんだとかいった「見えない力」の働きである、
というような示唆は知っていると思います。
そもそも生化学的に見ても、思考だって脳内の電「気」信号の働きによるものだし。
ideaという英単語を策定した人は、そんな「気」の働きによってアイデアが生じる事を知ってたんじゃないんですかね。
他にも有名どころだと、
「nowhere(どこにもない)」
は
「now here(いまここ)」
なんてのもありますね。
過去や未来は存在していると思ってた。
だけど、そんなものはどこにもなくて、
実は、今ここ、今この瞬間しか存在していなかった。
まさしく神が仕組んだとしか思えないトリックワードです。
こんな風に、表意文字と比べて文字に含まれる情報のエッセンス量は差があるはずなのに、表音文字の短い単語にも深い深い智慧が含まれてたりします。
むしろ日本語より英語の方が智慧のエキスが濃い場合だってもちろんあるわけで。
そんな中で個人的に一押しなのが、
「personality(人格・個性)」
ラテン語で仮面を意味する「persona(ペルソナ)」が語源だそうで。
要は、本当の自分が、個性や人格という仮面をかぶっている。
それは裏を返せば、個性も人格も、偽りのまやかしってことです。
同時に、それは仮面である以上、脱ぐことも付け替えることも不可能ではない……
そう考えると、実は自分にはとんでもない自由が密かに隠されているって思いません?
ちなみに「個性」の「個」という字も、
「人」を「固めてしまう(=不自由にしてしまう)」
という構造が見て取れるので、決して智慧の味がしないわけではないですが、
私的にはその意味深さは、ことこの例においては英語の方が上なんじゃないかなーって感じがします。
さて、これを読んでいるあなたは今、どんな仮面をかぶって、どんな形に自分を固めているのやら。
ponsun URL 2011年01月24日(Mon)05時01分 編集・削除
内にある真なる(あの世的な)自分
ここに出逢う旅、ですね