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フォースはなんでも知っている

 Nobody knows.

 訳すと「誰も知らない」って意味の英語。

 だけど、「誰も知らない」よりも「Nobody knows」の方が好き。



「誰も知らない」は「知っている人がいない」

 知ることができる「人」という存在しか、認識の中にない。



「Nobody knows」は、意訳だと確かに「誰も知らない」だけど、

 直訳すると「無人は知っている」。

 人こそそこにはいないけれど、無人という存在を観ている。



 それは森羅万象かもしれないし、神や仏なんて呼べるかもしれない。

 あとエーテルとかエネルギーとか気とか素粒子とか、

 空とか海とか宇宙とか、

 ワンコとかニャンコとかアロエリーナとか、

 呼び名も相手も何でもいいから、とにかく「それ」は知っているよ。



 あなたの苦しみを、あなたの孤独を、あなたの痛みを、

 あなたの生き様を、「誰も知らない」かもしれないけれど、

 「Nobody」――「誰でもない存在」は知っているよ、と。



 誰も知らない、知ってくれない、と嘆く前に。

 「誰でもない」は知っている――と教えてくれている言葉。

 それが、「Nobody knows」だと、たわしは思います まる





 nobodyknowsといえばたわし的にはこの曲

 ↓のEDテーマだったからやっぱり入ってたー

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他山の石

憎むな 恨むな 腹立てるな 自分自身がおもうままにならぬのに 他人がおもうままにならぬ



 他人のこととやかく言う前に、自分を改める。





 他人のこととやかく言う他人に対して、



 他人のこととやかく言う前に、自分をなんとかしろ、



 ……なんて、



 他人のこととやかく言いたがる自分を、改める。






 他人のこととやかく言いたがる自分を、そっと手放す。






 


 

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自全

 「自分」って、

 自らを分かつって書く。

 全体から分かたれて在るように囲った、自。



 だから、本来的な意味での自分って、

 むしろ「自全」って呼ぶといいのかも。



 わーい造語できた(ぇー

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KIAI

「気合」ってのはどうやら、

 表層的・顕在的な自分(自我)と、

 潜在的・深層的な自己(真我・源)の、

 すなわち、普段は乖離してしまっている、

 それら二つの「気(エネルギー)」が「合致」することでもあるらしい。



 すると、

「気合が入る」ってのは、

「気が合致した状態」、要は「気合の状態に入る」

 とでも言い換えられるらしい。



 だから、

 気合が入り、気合が充実している時は、

 心身健やかで、勢いがあるのは、そりゃ当然のこと。

 源(ソース)とばっちり繋がってるんだから。




 気合くらい、誰だって入ったことあるよね。

 難しく考えなくていいんだよ。

 精神世界だスピリチュアルだと仰々しく看板構えて、

、あれこれ言葉をこねくりまわして複雑に考えてみたところで、

 ホントのとこは、そんなシンプルなこと。





 そうそう、昨日入籍しました。(しれっと

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謙虚って何だろ?

 よく、謙虚にしなさい、謙虚にするといいよ、
 って言われますよね。

 その「謙虚」って、一体何なんでしょうね。



 謙虚の「謙」の字には、へりくだる、控えめにし他に譲るという意味があるわけですよ。

 けどそれは、「いえいえ私なんてつまらない存在でとてもとても……」なんてニュアンスと思われがち。

 それってまかり間違えば、単なる卑下ですよね。


 そして、「謙」だけでは「謙虚」にはならないわけで。
 「虚」も揃って、はじめて「謙虚」です。


 じゃあ、「虚」とはなにか。


 空っぽであることです。


 この場合、「自分」が空っぽであることです。


「自分」とは「器」です。
 通常この器は、「我」と呼ばれる粘っこい液体でたっぷたぷに満たされています。

 満たされているから、もうそれ以上何も入りません。
 宇宙の恵みという、流れ来る、さらさら澄み切った別の液体が注ぎ込まれる余裕なんて、1デシリットルもありゃしません。

 そんな、器に満たされたものを一度、大なり小なりざばっと捨てちまうことで、流れが注ぎ込まれる余裕ができるわけです。

 器が空っぽであることで、あるいは空っぽに近づくことで、流れ来るものを受け入れることができるわけです。



 じゃあ改めて、謙虚とは何か、となると。


 つまりは、

「宇宙に我をゆずり、自らは虚であること」

 です。

 
 宇宙に我をゆずり、自らは虚であることとは何か。


 今、目の前に訪れ、そして訪れ続けているあらゆる現象は、
 宇宙が起こした、宇宙からの贈り物(Present=今)です。

 その中には、頼まれごと、あるいはやる羽目になったこと、といった類のものもあるでしょう。
 宇宙から与えられ、自らの元に送られてきた、それらのあらゆる機会に対して、
 不平や愚痴や文句を返さず、あるいは悲観や不安に惑い翻弄されず、
 要はプレゼントを受取拒否せずに、
 ただ淡々と、あるいは喜んで、着手しこなしていくこと。


 だから、

「いえいえ、(つまらない存在である)私には到底力不足(と自己評価しているの)ですから、とてもそんなことはできません」

 というのは、宇宙に我を譲るでも、自らを虚とするでもなく、
 むしろ全くの正反対で、我を張っているだけの傲慢なんです。

 そう、「卑屈=傲慢」なんです。


 こう書くと、

「要は頼み事には何でも応じろってことだよね。
 じゃあ金を貸してくれとか、
 素手で100トンの荷物を運んでくれとか頼まれても、
 それに応えろってことかい?」

 なんて疑問が出るかもしれません。


 お金をせがまれるのは、その人ではなくお金に用があるので、別に無理して応えなくていいんです。
 もちろん、お金に余裕があって、また貸すよりも貸さずにいる方が自分が嫌な気持ちになるのがわかりきっているなら、貸すといいでしょう。

 100トンの荷物なんて、素手じゃ持てません。
 明らかに物理的に無理な頼みごとは、そもそも宇宙の自然な摂理に反してますから、頼みごととして成立しません。


 ただ、たとえば、
「あの築山の土を全部、スコップ1本でここに移動させてくれ」
 って具合のことなら、敢えて淡々と挑戦してみてもいいかもしれません。
 期限も切られてないし、淡々黙々と土を掘っては運び続けていれば、物理的には絶対不可能ってわけじゃないですから。


 そして、そういった一見すると無理難題な頼まれ事を「馬鹿になって」やり続けていると、
 初めは馬鹿馬鹿しいと思って見ていた周りの人も、いつしか手伝ってくれるようになるかもしれません。
 手伝ってくれなくても、あの人はすごい人だ、ああいう人は支えてあげなきゃ、と大勢味方に回ってくれるかもしれません。
 それは、とてつもないリターンでしょうね。


 だって、それって無敵になれるってことですよ?

 みんな味方になる。
 敵がいなくなる。
 だから無敵。


 あら。
 謙虚な生き方ってのはつまり、無敵な生き方だったわけね。




 ↓参考までに。
 いまここ「カラッポの船」 




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