ちょっと、あっちに直接書くのはやめとけーってお達しが川´ー`)から来たんで、今日二度目ですがこっちに書いちゃう。
ってこっちならいいんかい……( ̄д ̄;)ビクビク
んーとですね、いわゆる精神世界ってカテゴライズされてる業界じゃ、
「あれは闇の罠だ」
「あの人は闇に支配されている」
「それこそ闇の思う壺だ」
って、「闇」って名称で忌み嫌われてる「もの」があるんですが、
「もの」って言っても、そこは精神世界。
形がないから具体的に示せやしません。
ま、そこはどーでもいいことですが。
たわしこれ、「レッテル」にしか見えないんですわ。
理由はどうあれ、「闇」って名付けちゃうことで、そこに固定化された観念を注入してしまう。
そうすることで、本来不可分なものを、あたかも摘出手術できるような状態におけたみたいに錯覚しちゃう。
ぶっちゃけ、
『「光」と「闇」とは別々のもの』
って思ってるわけですよ。多分大半の人が。
今日の阿部敏郎さんのブログ「いまここ」のエントリで、
「ゾルバ・ザ・ブッダ」って言葉を初めて知ったんですわ。
さらっと調べてみた個人的な解釈を簡単に言えば、
・現世的な楽しみに歓喜するのが「ゾルバ」
・現世的観念から解放され、あるがままの平穏に安らぐのが「ブッダ」
・この「ゾルバ」との統合なくして真に「ブッダ」たりえない
って感じかな。
世間的に、ブッダ(悟りの境地に達した人)は、
無欲で質素で清貧で、温和で物静かで性欲もなくて酒も煙草も娯楽も一切手を出さないetc.
~みたいなイメージがあると思うんですが、実際は必ずしもそうではないようで。
いや、確かに精神の修養を進めていく過程で、そういった無欲の状態に近づいていくことはままありますよ。
実際たわしも以前よりそんな類の不要な欲がある程度薄れていってるのを実感してますし。
でも、それは「禁欲」じゃないんです。
酒だろうと娯楽だろと、楽しむときにはがっつり楽しむんです。
ただ、そこに溺れないだけなんです。執着しないだけなんです。
どんなにはっちゃけても、これ以上はさすがに心身に悪いなってところでスパッと切り捨てれるんです。
スポーツマンガなんかで「心はホットに、頭はクールに」って表現ありますよね。状況的ニュアンスとしてはそれに近い感じ。
ある程度目覚めが進むと、何が自分や周囲にとって益で、何が不益か……それは思考を超えた領域から、誤解を恐れずに言えば「損得勘定」に基づいた判断が送られてくるのが掴めるようになるんです。
あとはそれに素直に従うか、我を張って拒むか、という選択だけで。
ま、たわしはそこでまだ我を張ってしまうこともたっくさんありますがっ!(威張るな)
で、「禁欲」ってのは、裏を返せば「欲への執着」が根底にあるんですね。
「欲」を拒み、いわば忌み嫌う、つまり強く意識するからこそ、「禁欲」する。
しかしブッダは、あるがままに「欲」を受け容れた、その結果として、人によっては「無欲」になり、人によっては欲を程よく楽しむようになった。
順序が逆なんですよ。
禁欲にばっかり注目しちゃった人は、ブッダにあこがれるあまり、無意識的な偶像崇拝に陥ってそこを見誤っちゃったみたいな。
だから、そんな人は「無欲」なブッダをブッダと認め、「程よく欲をあらわす」ブッダをブッダとは認めない。
でも、本当はどちらもブッダ。
(実際のところ、お釈迦さんも別に無欲ってわけでもなかったそうで。
参考までに同じく阿部さんのブログのこちらの記事をご参照。)
「闇」ってのもこれと似たような仕組みな気がして。
いろんな人が、「あれは闇だ!」「これも闇だ!」って指差して叫びをあげる。
どうしてそうするかって、大抵は「闇」を拒否するためでしょう。
でも、拒否する心、それ自体が「闇」を呼んで、というか生んでいることに気付いてない、そんな風に思えて。
そもそもレッテルというものも、ある意味偶像的といえなくもないし。
「光」があるから「闇」がある。
「欲」があるから「無欲」がある。
「精神世界」があるから「物質世界」がある。
でも、どちらもヒトが頭の中で決めつけた概念、観念、対極という分離。
ほんとうは、ぜんぶひとつのおなじもの。
言葉にすれば矛盾してしまうんだけど、
そうやって分割した二元的思考であること自体が、「闇の罠」なんじゃないかなぁ、と漠然と感じる今日この頃。