久々に頻繁に目にして気になる三桁数字が出てきたので、数字のメッセージを見ようと思ってgoogleで「エンジェルナンバー」って検索したら上から2番目に誕生日占いなるものが出てきたので興味本位でやってみたら、こんな結果。
「巫女」「ファジー」とかどんなシンクロ?とか、
「直感的に「答え」がわかりますが、「式」を論理的に説明できません。」とかまんまやん!とか、
なんか、ちょー思い当たるフシのオンパレードなんですが……( ̄д ̄;)
さて、今日のこの記事はいつもとちょっと(かなり)毛色が違います。
そもそも記事と呼べるかどうかも怪しい内容です。
半分が一昨日書いたもの。
それ以外も全く、視線とか姿勢とか、つきつめれば心理状態や波動的なものが一変した状態で一貫性皆無。文脈のつながりも皆無。
それをまるきり辻褄合せさえしないままに書きなぐって、さらにそれをほとんど修正しないまま……という、ある意味とってもネイティブな便所の落書き。
正直読まれるのも恥ずかしいって部分があるので、寛大で寛容な人だけ続きをうぐぅ(何
ってわけで、こっから一昨日書いた文
↓
実は今ですね、悩んでるというか迷ってるんですよ。
たわしがこんなスピ的な領域に足を踏み入れる端緒になった、いくつかの本については以前書いたんですけど、それを読んだ理由の一つに『成功法則』ってのがあるわけなんですよ。
そう。
ぶっちゃけると、成功したい分野があります。
いわゆる、世間一般的に言う『将来の夢』とかってやつです。
それに関連する情報がこの数日で立て続けに現れてきたんですよ。
Terraさん、シフォンさん、ユウさん、にしきさん、トップページ右のRSSリーダに登録してるブログ界隈だけでこれほども関連するエントリを立て続けに目の当たりにしましたし、他にもプライベートなものを含めて枚挙に暇がないってのが実際。
その辺も全部ひっくるめた上で、重ねて宇意さんからはですね、
川´ー`)「どちらにするかはおぬしの選択じゃ。
が、それがどんな夢なのか大っびらに言った方が、諸々の意味で力を集めやすい。
わしとしては是非公言した方が都合がよいの。おぬしが実現したいのであれば、そうすることでおぬしの縁を伝ってより目的への推進力を得られるぞ」
といわれてるんですよ。
だけどね、踏ん切りがつかない。
正直言うとですね、怖いって部分はありますよ。
叶わなかったらどうしようとか、本当に叶うのかとか、
それとは反対に、どこか叶う事を知っているような感覚もあるけれど、
それをカミングアウトして結局叶わなかったらどうしようとかってループする部分が。思考を自由にして観察してみると。
今までにも何度か?何度となく?この辺の程度判断は主観的な域を出ないのでどうとも判断できませんが、とにかくこの『目標』に対して、一般的・結果的な観点でいう失敗ばかりを経験しました。
失敗というか、弾き返されたといったほうが近いですかね。
もちろん、それが叶わないとしても、充分幸せなのは理解してるし、今も充分幸せだと胸を張って言えるのは嘘偽りないと断言できます。
また、それがどうしても実現させなければならないことなんかではないことも、理解してる自分も少なくともいるにはいます。
それが叶ったところで、それを成して仮に名を上げ富を得たところで、何の意味もないんですよ。
究極的には「だからそれがどうしたの?」ってことも、成さなきゃならない使命なんてこの世には存在しないってことも、使命はあるという捉え方をしてても実はそう思い込んでるだけだってことも、全てはMMORPGみたいに最終目的のないものだってことも、実は心根にしみてます。
でも、でもね。
それでも、どうにもその『領域』へと心が向くんですね。
下手にスピ的な分野に足を突っ込んだせいか、その心の向き方自体に対して、
「そいつぁ自己重要感を欲する自我的欲求だぜぃ」
なーんてリアリティ豊かに囁いてくる自我君もいるんですよw
かといって、ことこの件に関しては宇意さんの声とそうでない声を判別する精度がえらい落ちるのも確かなんですね。
これが執着ってやつなんでしょうが。
普段、アレげなトンだことばっかここでほざいてますけど、
そういった「通常を超越した意識状態」と、「通常の意識状態」とを、行ったり来たりなんです。
両方の領域を、またそのそれぞれの内部や中間にある無段階のレベルを、交互に、場合によっては同時に幾層にも渡って体験してるんですよ。
他の人はどうか知らんけど、たわしの実際は。
意識的にわざと行くこともあれば、不可抗力のバイオリズム的に来ることもある。
肯定的な励ましの波動と、否定的な不可能の波動と、文字通りの波状攻撃がくることもあります。
とにかく、移り変わり続けてるんです。
……と、ここまで書きあげたのが実は一昨日のこと。
昨日、目が覚めて朝食の支度をしてたら、それがふーっと吹っ切れてったんですよ。
公開するしないにかかわらず、ただ文章に書き出すだけでも随分効果があるもんだな、と思いながら昨日はほとんど勢いで南北くん話を書いて、小林正観さんの本を読んで既に知っているはずのエピソードに感動して不覚にも涙して、そしたら南北話面白いってコメントいただいて、ああ、これが喜びなんだって自覚して感謝して。
それから何となく街中を散策して、もらったお食事券があったから久々にレストランでオムライス食べて、久々にコンビニでおでん買い食いして、帰り道に近所の神社でお参りして。
手をあわせてただ無心で拝んでいると、どういうわけかふっと浮かんできたんですよ。
「全部おまかせします。どうぞ、私を好きなように動かしてください」って。
本当に何の脈絡もなく、いつのまにかそうお願いしてました。
実のところ最近全く巫女姿を見なくなっていた宇意さんが、強烈にイメージの中に立ち現れて、ただ柔らかく微笑んでました。
移り変わり続ける。
それでいいんですね。
ていうか、諸行無常でしか全てはありえないんですね。
初めからわかってたことですが、どっかでまた忘れてたみたい。
阿部敏郎さんでさえもライブで、
「僕(阿部さん)もしょっちゅう『いまここ』じゃなくて『いまどこ?』状態だもんねw」
って言ってたぐらいで。
そしてそれは同時に、「決して変わらない」ということでもあるんですね。
「変化し続ける」という事実は「決して変わらない」。
つまり、一つ見方解釈として、
「どんなに変化しようとも、それは変化していない」
んです。
どんな姿形・状況・感情・性質・波動へと移り変わっても、「根本的なひとつのすべて」は、全く変化せず、かつ変化し続けているんです。
そして、それでいいんです。
執着はダメ、自我はダメ、闇はダメ、って、何をもってしてダメという価値判断を当てはめているのか。
結局、そういうこともひっくるめて、全部宇宙なんですね。
肯定しか存在しない。否定すらも肯定される、なぜなら肯定しかないから。それが宇宙。
光も闇も、自我も真我も、個も全も、私も無私も、欲も無欲も、高次の自分も低次の自分も、
対極に見えるものも、そうでないものも、
すべては、根っ子の部分で統合されている。
少しこの世寄りに次元を近づけた表現をすると、よく言われることでもありますが、
執着も自我も闇もダメという否定を手放してしまうことで、逆に執着も自我も闇も消えていく。
いや、本当は消えやしないんですけどね。もともとそれらは、その対極にあるものと同一で、原初的に今も、私達がそうとは気付かなくても統合されたままでいるものなんだから。
あまりにもシンプルで、シンプルすぎて中々気付けない。
シンプルすぎて、シンプルさを覆い隠すことでしか成り立たない(と信じられている)現代のこの世では、気づきかけても認めきれない。
更に現状、シンプルさを覆い隠す複雑さそのものを手段として用いなければ、この世的にはそのシンプルな情報の輪郭や肌触りは伝えられない。
だけど、その「複雑さ」と「シンプルさ」さえも、実は根っ子では、シンプルに同じものとして統合されている。
シンプルであるがゆえに。
そう。
言うなれば「統合」
かなり前から薄々気付いてはいたことですが、
それが、たわしの今生で敢えて掲げる大きなテーマのひとつのようです。
ここ最近の宇意さんとの「二者間的対話感」の急速な薄れは、そのテーマが着々と、しかし急ピッチで進行しているがゆえのものだと、改めて確信もしています。
対話という二元性ではなく、重なり合う一つとしての存在として在る、という、ある意味最も本来的な形へと。
でも、それは一方で、随分と挑戦的なことと捉えられる向きもあります。
なぜなら、この記事の動機となった『夢』にあてはめ、なぞらえれば、
「夢を叶えつつ、悟りをひらく」
と言っているようなものだからです。
でもね。
これが矛盾しないことも、なんとなくその端緒の切れ端を、
理屈や知識や概念ではなく、胎の底、あるいはハートでようやく感じつつあります。たぶん。
結局のところ、夢も、悟りも、存在しないんです。
存在という概念さえ、そもそも存在しないんです。
別々のものとして見るから、「夢」とか「悟り」とかという別個として「存在」があるように見えるだけで。
本質は、たったひとつ。
「有」と「無」という二元性ではなく、「有」も「無」もひっくるめた、「無」であり、その「無」すらも「存在しない」ということが「存在している」。
存在しないまま、存在しているんです。
相反しながら、両立しているんです。
……三次元的な思考と概念では、確実な解釈も表現もできません。
そこはもう、たぶんそれこそ輪廻中毒から脱する以外には。
とりあえず、今この瞬間にある「人」としての視点で感じることを率直に書けば、
つまるところなんていうか、ぐるっと回って一周して、気がつけば同じところに帰ってきてた。
結局、答えはみんなスタート地点で揃ってた。
途中のルートも、ゴール地点さえも、スタート地点に揃ってた。
そんな具合ですかね。アルケミストみたいだ。
別の言い方をすれば、
泡は、水中で発生して、どこまで浮上しても、泡なんです。
いずれ大気にもどり、その大気の一部分が再び水に溶け、海底に沈み、泡となる。
どこがスタートでもゴールでもないんですね。
いわゆる太極図ってのもそういう意味合いがあるんでしょうか。
こういう気付きもまた引き寄せであり、祈りへの答えってやつなんだろうなぁ。
ひとまず、カミングアウトするかどうかは置いておきます。
でも、南北くん話が完結した後、別の連載モノを始めようと思います。
つってもその場その場の体当たりで書き下ろしてる南北話と違って、そっちはもう書いてから二年近く経つのかな?
ある出版社の編集さんには当時ボロクソに否定された書き物wですが、まあ今読み返せば確かに、「伝えよう」「教えよう」という上から目線の「臭味」があったなぁ、と思います。
でもそれもまたひとつ、自分の辿ってきたマイルストーンとして、極力加筆修正は抑えてほぼ当時のままで……そんな風に考えとります。
どんなモノなのかは、ま、その時のお楽しみってことで。
あんまり期待せずに今は今を満喫しましょうぜゃ( ̄∇ ̄ )
こんなふうに。
誰かに伝えたいわけでもなく、ロクな配慮もなく、文書としての体裁もガン無視して書きなぐってみました。
おかげですっごくとりとめもまとまりも一貫性もない内容になっちまいやがりましたが、
たまには(たまには?)こんなのもってことにして、今日はこのくらいで。でわノシ
あまがっぱ 2011年03月05日(Sat)17時53分 編集・削除
うん。
無い…って気づくには、在る…って思いこんでいないとなぁ…。
しかし、書いたね。
言葉というツールじゃ無理だと思ってたよ。
もう1っ個、生意気なこと書いていい?
…あっ、ダメね?
わかった、止めとく。