その時はですね、サイクリングしてたんですよ。
冬の間エアロバイクばっかりで全然遠乗りしてなかったんで、久々に。
出かける前にですね、妙に「覚悟」感があったんですよ。
日々「今日は死ぬのにもってこいの日」だと思えるようにすることを課題にしてるんですが、
そのノリとはまた違う、なんか胸が締め付けられるような感触を抱えたまま出発したのが午前中。
実はその前の3~4日間ほど、更新どころかほとんどweb巡回もできてなくて。
自分の「他罰性攻撃的思念」とでもいうべきデカイ波と向き合わされてて、その余波でちょっと体調崩してまして。
まあ学びってやつだったんですが、それをどうにか乗り越えて得るもの得させていただいて、
気分も晴れてきたしせっかくだから出かけてみようか~ってのが、サイクリングの動機。
あ。あと新訳禁書目録買いにいくのも。<むしろそっちがメイン(ぇー
だけどね、久々に風を感じてるってのに、なんか集中できないの。あんまり爽快な気分にならない。
以前は乗るたびに、風の感触がいまここに導いてくれてたのが、今回に限って妙に気がそぞろ。
まだ前日の精神的荒れ模様が鎮まりきってなかったのかな?
……って思ってたら、地震だったんですねぇ。
なんだか、自覚してる以上にそういうのを感じるセンサーってのが備わってるみたいね……。
そーいや中学時代にうちの祖母が亡くなったときも、
何の連絡も受けてないのに、下校途中になんとなく直感したっけ。
うみさんの推察の通りこっちは九州北部なので直接の影響は皆無です。
敦さんも併せて、わざわざお気遣いいただいて本当にありがとうございます。m(_ _)m
ともかく、この場を借りて。
犠牲者の方々への冥福、そして被災者の皆様の一刻も早い再興をお祈りしています。
てなわけで、安全地帯にいます。
布団があって屋根があって明かりがあって水と食料があって以下略。
ありがたさを改めて感じています。
そんな安全地帯から、できることは大まかに三つ。
直接の労力を提供すること。
1も2もなく駆けつけて、過酷な最中にある人々を微力でも直に支えること。
間接でも金品物資を提供すること。
人々を直接助けてくれる人々が存分に助けられるよう、僅かでも持てる物を手放すこと。
祈ること。
力も物も与えられなくても、人々が少しでも早く立ち直るよう、彼らの望む姿を意図すること。
実のところたわし、普段から全くといっていいほどマスコミ関係に目を通さないんですが、
にもかかわらず、妙にこう、不安や心配に荒れた波動があちこちに漂ってるのを受信しまくってるみたいです。
瞑想やらを通してアレ方面な感度が中途半端に上がっちゃってるのか。
報道からの情報を大して仕入れていないにも関わらず、鎮めた心の鏡が度々、どこからともなく、個人的な理由もなく伝わってくる重い細波を感知しているのがわかります。
だけど、いや、だからこそ、かな。
不安に基づくものではなく、被災された方々が少しでも早く癒えるよう、復興されるよう、
ただ「大丈夫だ」といういまここの感覚に腰をすえて、重い波動を現在進行形で中和している最中……これって祈りですね。
さしあたり、足を運ぶ時間と手段が確保できない以上、
三つの方法のうち、微力な中でも可能なのは2番目と3番目だけです。たわしの現状としては。
でもですね、そんな中でふと浮かんだんです。
現地にいるがゆえにこそ考え感じられるものがあるのと同様に、
安全地帯にいるがゆえにこそ考え感じられるものがあるとも、思うんです。
それは、
方法はこの三つだけではなかった、ってこと。
はっきりしたことがあります。
それは、自分のやりたいこと。
正確には、やりたいことと融和し、その背骨になりうる動機。
いかなる状況になろうとも、人々が勇気と感動と愛とを自らの心に呼び覚まし、
そして「気付く」、そのための種をまきたい。
つまり四つ目の方法。
決意すること。
どんな形であれ、人々が自らの心に、より早く、より確かに、強さを湧き立たせられる、
ほんの僅かでも、そのためのきっかけや支えとなる、種。
そして、そのための種を、できる限り具現化していきたい。
具現化できる環境・状態へと、徐々にでも自分を変化させていく。
それは、水田で一粒の米を収穫することかもしれない。
それは、神々しく昇る朝日を捉えた一枚の写真を撮ることかもしれない。
それは、寒い夜もしのげる服や毛布へと変わる一枚の布を織ることかもしれない。
それは、何気ない日常を切り取った心温まる一ページのエッセイを書くことかもしれない。
それは、新たな家が建つために欠かせない釘の一本を箱に梱包することかもしれない。
それは、他の必要な誰かに巡るようにと、一滴の水でも一秒分の電気でも節約することかもしれない。
事足りるわけがないという人もいるでしょう。
自己満足の偽善だという人もいるでしょう。
でもそもそも、そんな評価なんて全く関係はないんです。
何を言おうが、言われようが、「今」できることをやる。
もちろん、「今」できることは限られている。
だけど、もしいずれ同じような「今」がやってきた場合に、
その「できること」の「限度」を少しでも広げてゆく。
広げる方向に変化のベクトルを調整してゆく。
それが唯一、「今」できることである場合もあるんじゃないかな。
そして何より、平穏無事で済ませていただけた者の責務として、
この与えられた日々、自分のお役目・役割を、地に足つけて着実にこなしてゆくこと。
何も特別じゃない、でもそれも確かに、安全地帯からでもできる支援じゃないかな、って。
昔はこんな風に思えなかったなぁ。全ては一つだってわかったからこそ、そう思える。
で、そんな支援を最大限活かすにはやはり、今この瞬間に在ることは前提条件みたいです。
ともかくも、今回のことは大きなメンゲン反応であるように思えて仕方ありません。
歪み淀んでいた重いエネルギーが解放され、全体的に癒しの方向へと向っていく、そんな声が聞こえています。
同時に、気を悪くする方もいるかもしれませんが、この国は「随分と見えない力に守護されている」ことも。
あくまで現状の断片的な聞きかじりとはいえ、マグニチュードや被害範囲の割には、全体的な被害規模としては何となく抑えられていると感じません? 過去や他国の大地震と比べて。
それは技術や体制の進歩ばかりでなく、人々の無意識の底にある「大和」と「感謝」の心が、起きるべくして起きたこの現象の結果を最小限のものに食い止めたような、そんな気がしています。
妄言なら妄言でかまいませんが、まあ、話半分で感じ取ってもらえれば幸い。
あーそだ。
必要なものがあったら遠慮なく連絡くれい。できる範囲で援助するぜい。<ここ見てる知人連中
うみ URL 2011年03月12日(Sat)22時50分 編集・削除
今日の記事、なんか上手く言えないけど、すごくすごく共感しました。私は最近、気づいた。今に在る、今を楽しむ、という事をずっ~と忘れてた。
でも、いつも「今に在る」ことが当たり前で、「今に在れば」幸せでいられる。
でもせらつかさんも無事でよかったヽ(*´∀`)ノ
やっぱり九州の方ですかあ~。家の親戚は熊本と福岡にいます。従兄弟のみっちゃんが福岡で居酒屋やってますw
場所忘れたけど、よろしくですw