全ては皆のおかげさま。
全て、完全に自分以外、他の皆の力を頂いて、
『生存』――つまり、生かして頂いて、存在せしめてもらえている。
それを、忘れてた。
それが、先日の最も大きな原因です。
こんな大切で、根本的な原則を、なんで忘れてたんだろ。
やることがあって、その手段として思考のスロットルを開放し続けていたせいか、
自分の力で生きているのだという観念が知らぬ間にまぎれこんで、増殖していたみたい。
だからって、どうして忘れてしまうような状況を引き寄せたんだろ。
川´ー`)「思い出すためじゃよ」
いや、それは以前から何度も聞いたよ。
思い出すために忘れる、って。
でも、これはかつてあれだけ強い自覚と認識があったことなのに、
なんで思い出し直すような状況を作らなきゃいけないのさ。
川´ー`)「ならば質問じゃ。この世の絶対的な法則とは何じゃ」
この世の法則?
引き寄せの法則?
川´ー`)「それもあるが、そちらではない。漢字四文字じゃ」
因果応報?
川´ー`)「それは引き寄せと変わるまい」
じゃあ……諸行無常の方か。
川´ー`)「そうじゃ。
刃物は次第に切れ味が鈍る。
使っておれば勿論、使わずともサビなどによっての。
宝玉には埃や汚れが付着し積もり始める。
触らずとも当然、触れれば手垢にまみれる。
それと同様に、いかに悟りきった者とて、この法則は絶対に作用する。
物に限らぬ万物が「変化しつづける」という波動そのものにある以上、
積み重ねによって、明鏡さながらの精神にも曇りを生じることはある。
忘却とは、砥石であり、磨布じゃ。
刃物の切れ味は研ぐことで蘇り、玉は磨くことで輝きを取り戻す。
悟った者であっても、悩めば悩み、苦しめば苦しみ、見失えば見失い、迷えば迷う。
それをおぬしが他の者にも示すのは、決して無駄なことではない。そうじゃろう?」
ぬー、ってちょっとまって。それじゃたわしが悟ってるみたいな言い方じゃないさ。
川´ー`)「悟っておるではないか」
うわ断言された!
川´ー`)「まあ、悟りという概念があるとして、何をもって悟りとするかという基準によって判別は異なってくるのも事実じゃがな。
それを踏まえた上で、いわゆる『目覚め』だの『預流果』だの『アセンション』だのと仰々しく呼ばれておるものを当てはめれば、おぬしはとっくにその段階を経ておる」
自覚が全然無いとは言わないけどさ……なんつーか、ここでそう断言するのもおこがましいって観念が無いわけでもないからモニョモニョ。
川´ー`)「『成功の実現』を開け」
なにいきなり……わかったよ開きますよ。はい。
川´ー`)「そのページになんと書かれておる」
えと、『悟れば一瞬にして喜びきたり。迷いは永劫に不幸きたる』……うん、その通りだね。で?
川´ー`)「その通り、と身をもって理解しているということは、すなわち悟っている=悟りの状態を経験したことがある、という証左じゃろ?」
うぐぅ。
川´ー`)「無論、悟りとは無条件に継続した状態ではなく、その刹那刹那、常に問われ続けるものじゃ。
もっとも、『誰もが元来、悟りそのものである』という意味では無条件でしかありえぬがの。
何より、おぬしだけが特別ではない。
おぬしだけでなく、このブログに足跡を残してくれた者達の大半も、ちゃんと悟っておる」
いやごめん、最後の部分をそこまで断言できるような心眼はぶっちゃけないんだけど……。
川´ー`)「当然じゃ。あくまで内面のこと。誰も彼も外面から容易に判別がつけられるならば、この世に政争も戦争も犯罪もなかろうの」
ごもっともで……。
川´ー`)「今大事なのは他者のことではない。おぬし自身のことじゃ。
十牛図に当てはめるとの、おぬしは既に一周して、今二周目三周目に入っておる」
ってあれ二周目以降あんの!?
1から10までつなげたらループするのは知ってたけど。
川´ー`)「あるぞ。グラディウスのようにの」
それって難易度上がるってことかいw
川´ー`)「難易度というのも語弊があるがの。
螺旋階段を真上から見た図を想像するとええ。同じところをぐるぐる回るが、同じ高さにはおらん。
易い難いというよりも、次元、少し解りやすく例えれば単に領域が異なるだけじゃ。
2つの点を比べたとき、同じx-y座標であっても、z軸が異なればそれは別レイヤーじゃ」
伝わりきれない感じがするなぁ……どう考えても三次元を超越した概念なのに、文章にすると三次元以下にしかならないから。
川´ー`)「よいではないか。
とにかく強いて当てはめれば、今のおぬしは二周目の3か4くらいかの」
うわ、それめっちゃ迷ってる……。
川´ー`)「かつてとは違うが、しかしかつて通った道じゃ。
同時に、8も9も10も1度おぬしは通過した、ということでもある。
思い出せるじゃろう?
あー……言われてみればそうなのかも。
一円相とか、完全に無になって、さらにそれすらも捨て去って……ってそんな記憶が。
ものすっごい駆け足で走り抜けたような印象だけどw
川´ー`)「時間は重要ではない。
気付いたか気付かないか、目覚めたか目覚めないか、それだけじゃ。
そもそも、悟りは人生一度きり、などという幻想はさっさと捨て去るがええ。
釈迦は菩提樹の下で悟った、だから悟りは一回きりだ、などと豪語する者もおろうが、釈迦がそれを聞けば失笑か苦笑かするじゃろうの。
そのような解釈における悟りこそ、人生に何万回、何十万回と訪れる。
手を変え品を変え、ありとあらゆる瞬間に、の。
その割に、それに伴うエクスタシーにも似た強烈な愉悦感が一度ないし多くとも数度しか訪れんのは、
その気付きが初めての経験であるがゆえじゃ」
その手や品に、忘却も含まれる、と。
川´ー`)「その通りじゃ。
しかも既に
『私はいない』こと、
『全ては同じ一つである』こと、
『現実は幻でもある』こと、
『全て苦脳は執着と思い込みからくる』こと、
『思いを持たないことが苦悩を断つ唯一の方法である』こと、
そういった様々な『真実』を知った上での、忘却であり、二周目じゃ。
おぬしという『我』は幻だと承知した上で、改めて自分というものを形作るプロセスを楽しむ……そのプロセスの一部そのものじゃ」
なんか一度完成したプラモをまた全分解して、今度はプロポーションとか改造しながらまた組み直し始めるみたいな感じだなぁw
川´ー`)「じゃがその組み直し作業は、渦中にある内は苦痛と錯覚してしまいがちじゃな」
あーうん、あるある。
川´ー`)「しかし、忘れておっても、根源では常にわかっておるのじゃ。
一度でも一周した以上、忘却の中でも絶対におぬしの根底では息づいておる。
じゃから聞くがよい、この声を」
『今この瞬間を感じられずとも、幸せであっていいんだよ』
えー、あー……この部分を書いた時、デジタル時計が5時38分を指してます。
ゴーさん、いるんじゃない? 今のちょっと宇意さんの波動と違うよ?
?「ええ、いますよ。最初からずっと」
あーやっぱり。
突然だけど皆さんにご紹介。
この人(?)、以前からたわしがゴーさんって名付けて呼んでる、宇意さんとは別の『存在』。
宇意さんとは違って、なんていうか礼儀正しい清純派青年?みたいな感じの波動。
顔文字は……決めた。こんな感じで
( ^-^)「そうか。ようやくお披露目する気になったんだね」
なんとなくだけど、今更出し惜しんでもねぇ……ってか何のひねりもない顔文字だな。
( ^-^)「僕は構わないよ。それよりも、僕のルーツは語らなくていいのかい?」
う……そっちはまだ、ハラくくってません……。
たぶん察しのイイ人なら気づく可能性も充分あると思うし……。
( ^-^)「そうか。まあ、無理にとは言わないし、そこは重要なことじゃないからね。
そんなことよりも、君がなぜ、『在り方に反した』と断じたか、ちゃんと説明できるかい?」
う……改めて向き合えってことっすね。物腰柔らかい割に結構クリティカルなんだよなこのひと……。
えーっと。
端的に言えば、「否定してしまった」ってこと。
否定自体が悪いってわけじゃなく、
『「在り方から導き出されたやり方」としての否定』ではなく、
『在り方を無視した「否定のための否定」』へといつのまにかすりかわっていた、って感じ。
あんまうまく説明できてないな……。
( ^-^)「まあいいよ。構わない。
釈迦は一切否定の言葉を発しなかった。
唯一の例外が死の間際に、介抱しようとする弟子に向って、
『そこをどきなさい。集ってくれている精霊達に私の姿が見えないではないか』と言ったことくらいだ。
そう、否定しない。というか、肯定のみをする。
否定は否定を生み、否定を引き寄せる。
それを承知しつつ、また『引き寄せの法則に基づく平常の引き寄せ』という実践を標榜しておきながら、
否定(というかこの場合は批判や、『災害』へのフォーカスだね)を引き寄せる真似をしてしまった自分への憤り、
またそれに対する自罰。それが直接的な正体だ」
憤り……。
( ^-^)「先日の記事をアップした直後、衝動的に大酒と大食をしてしまったね?
う……そうなんです。
あの直後、どうにもこうにも中略で、ブラックニッカ(ウイスキー)をストレートでボトル半分空けた上に、長らく食べていなかった乾燥パスタをがっつりゆでてがっつりイート。あまりに珍しい満腹状態。
次の日は半日プチ断食して帳尻合わせしたほどで。
( ^-^)「大食は怒りだね?」
はひ。さやうでございまふ。
( ^-^)「自分を責めることの悪影響は、本来君もよく理解している。
だからこそ、それ以前までは自覚して思考と感覚を調整し、自責自罰を回避してきた。
でも、それゆえにかえって、回避することが当たり前になりすぎていたんだ。
いつの間にか、『理解に基づいて回避する』のではなく、
『理由はさておき、ただ習性として回避する』だけになっていたんだ」
反応のオートメーション化……。
臨機応変、柔軟性が失われる、と。
( ^-^)「そうだね。その通り。
度が過ぎると、いざ『その感覚』を見失ったときに、怒りや思考に対処しきれなくなる。
今がまさにその状態だろう?
思考の活性化は、そんな自覚をより明確にあぶりだすための燃料にすぎない。
これはね、君の好きなミリタリー風に例えるなら、いわば実弾演習なんだよ。その絶好の機会なんだ」
存分に弾を撃たなきゃ、銃の調子も性能も完全には把握できないってか。
( ^-^)「そう、
君の望む在り方も、『望まない在り方を自覚しなければ、より鮮明にすることはできない』んだ。
そのためには、一旦『望む在り方』から離れるのが効果的だよね」
だから、忘却という手段……。
( ^-^)「うん。君が長らく望む在り方だけに焦点をあわせ続けてきたからこそ、お節介を挟ませてもらったんだ。
忘却以外の方法ももちろんあるのだけど、今回は件の地震がもたらした波動もあるおかげで誘導は容易だったし、『一周』した君なら乗り越えられると判断したから、ね」
……いつもいつも、スパルタなこって。
川´ー`)「かの孔子とて言うておるじゃろう。
『三十にて立ち、四十にて迷わず、五十にて天命を知る』との」
なに宇意さんいきなり。
川´ー`)「よいではないか。
三十歳の孔子とて学びぬいて辿り着いた境地もあったじゃろう。それでもまだ、迷うておった。
そして、迷いの内にある自身を知っておった。
裏を返せば、自身は迷い続けるものでもあるということを悟ったのじゃ。
それを知ったのが四十、それを完全に受け入れたのが不惑じゃ。
『私は何も知らない事を知っている』『汝を知れ』にも通じる境地じゃの」
( ^-^)「とにかく、まずは自分が輝く――
他者を否定するのでもなく、また他者を助けようとするのでもなく、まず自らが光を放つ。
プチ天照、プチテラスである。それが何よりも最初だ。それには状況や環境は妨げにならない。
それが君の信念の一つだ。
そこに徹しきれていない自分を、君は、というより正確には活性化した君の思考が罰していたんだ。
思考、自我が自身のアイデンティティを保つために、ただの『ガイドライン』に過ぎない『信念』を、あたかも絶対的なルールであるかのように誇大化してね」
やっぱり、そこに行き着くわけね……。
自罰とはすなわち、全体から別たれた自己が存在するという誤解からしか生まれない。
その誤解は、皆のおかげさまであることを忘れ、自分の力で生きているという傲慢から生まれる、と。
( ^-^)「それと、もうひとつ重要なことを言っておくよ。
これも本来の君が理解していて、やはり同様に今は忘れてしまっている点。
『望む在り方からさえも自由に解放されてあること』――それが、本当に君が望む在り方だ。
怒りのもう一つの大きな理由は、『望む在り方』という枠に拘束されている自分への否定と、迷いだ。
『成事は説かず、遂事は諌(いさ)めず、既往は咎(とが)めず』
もう一度孔子の言葉を借りれば、君の求める在り方は、そこだ。
しかし、そこに囚われすぎることで、説き・諌め・咎めてしまった後で、それ自体を説き・諌め・咎めてしまう。引きずってしまう。
囚われないことで、初めて貫き通せるというパラドクスは、まさにそういうことなんだ。
つまり、否定することさえも肯定する、というやつだね。
既に理解したはずのことだから、少なくとも納得はできると思う。
『悟れば一瞬にして喜びきたり。迷いは永劫に不幸きたる』
迷い、深刻ぶることが解決策だと勘違いするのは自我と思考の性質だから仕方がない。
だから、人は喜びと悟りの境地に至るとき、自我を手放す。
だけど、人間として在る以上、自我を手放すことは出来ても、完全に切り捨てることは出来ないよ。
それは、自らの肉体の一部を切り落とすのと同じことで、強烈な痛みを伴うからだ。
自我も、宇宙なんだ。別個のものじゃない。
しかし自我のもたらす望まない作用は知ってのとおりだ。
だから、自我は切り捨てるのではなく、認め、鎮まってもらうことになる。
裏を返せば、どんな覚者でも、分離を求める自我からの内面的な突き上げに襲われる危険性は常にある。
そんな時、どのように在ればいいか……そのハウトゥには、ただ鎮め続けるだけでは逆に身につかないものもある。
むしろ様々な、無限ともいえる無数のモデルケースを自らの内で体験してきたからこそ、
覚者や仏陀は、多くの――十人十色、百人百色のケースを抱えた人々に、説くことができたんだ」
それ聞いてパッと浮かんだんだけど、『静中の静は真の静にあらず』って言葉。
( ^-^)「菜根譚にいう『動中の静』だね。
君の挙げたその言葉自体は正確とは言えない。
静である以上、静中だろうと動中だろうと真の静だし、静に本来、真も偽もない。
けど、静であることにこだわるあまり、動中を嫌い、静中に身を置くのに固執するとなると、融通自在という観点に照らせば確かに『真の静』とは言いがたいね。
実践という動の中にありながら、静を保つ。
二律背反のような状況においても、揺るぎない芯――無我に立脚した自我とでも言おうかな。やはり表面上二律背反に見えるそれを、君なりに組み上げる。
そのための忘却であり、二周目であり、君自身が望んで引き寄せたことだ。
以前君は言ったね。『夢を叶えつつ、悟りを開く――それは矛盾しない』と。
今君がある二周目とは、まさにそれを実証しようとして自ら希望したフェーズ、いわば実験室だ」
う……で、実証できるのかな。
( ^-^)「できるできないという断片的な結果に根本的な意味はないよ。
『どう転んでも、自分という全てである存在は大丈夫だと理解している』からこそ選択した、それ自体が大事なんだ。
選択という能動でありながら、流れに身を任せるという受動でもある。
まさしく二律背反の体現だ。
そう……二律背反、つまり矛盾や両極をあるがままに受け入れ、『統合』する。
君の最も根本的な『在り方』だよ。自覚の有無にかかわらず、常に君はそこに在るということなんだ」
……了解。まとめるよ。
とにかく、諸行無常。苦しみは必ず流れ去る。
自罰であれ他罰であれ、苦しみは否定から生じ、否定は固定観念から生じる。
特に自罰は、否定への否定から生まれやすい。
だから根本的な肯定とは、否定そのものを手放すことに他ならない。
そして今回の精神的な不調も、全ては『統合』におけるただのプロセス、その一部、と。
本当、全部基本的なことだねぇ。よくぞまあ忘却できたもんだ。
( ^-^)「でも、思い出したよね。
鋼は加熱と冷却を何度も繰り返して強靭に鍛えられるのと同じで、
忘れては思い出すことを繰り返して、気付きはより確固たるものになっていく。
砥石だって、巧く使えば以前以上の切れ味を刃物に与えることもできるんだ。
もうしばらくは胸にモヤモヤしたものは残ると思うけど、それも含めて統合に至る一時的な痛みにすぎない。
今回の一連のことは、それらの再確認と、更なる進展――そのために必要なパズルのピースだった、ということを納得できるはずだ。
だから、今後も思い出したなら、すぐに強く念じて欲しい。
『常に、すべてはうまくいっている』んだ。
そして、『忘れてしまっていても、幸せであっていいんだよ』ともね」
らじゃ。ありがとうございました。
うずら 2011年03月20日(Sun)09時07分 編集・削除
「望む在り方」を望みながら、まだ望む在り方になっていない状態の自分も受け入れてて今幸せを感じてる、ってーやつだよね?^^