てなわけで。
公私共にちと用事が詰まって中々更新できなかったものの、
おかげさまでどうにか南北くんも終わりまして、
まあ一段落とばかり優雅にブランデーを傾けとります(朝っぱらからかよ!?(嘘です。
ところで、ですよ。
この更新あいてた間、一日のアクセス数がそれまでよりも数倍になってたんですね。
昨日今日でようやく落ち着いてきましたが。
その理由ってのが、これ。
ここしばらくのアクセスログ、リンク元URLリストです。
他にも検索キーワードとしてログに残ってたのをさらっと拾い上げてみると。
「小林正観 訃報 死因」
「小林正観 死因」
「小林正観 死亡原因」
「小林正観 死亡 原因」
「小林正観の死亡原因」
「小林正観 死因 記事」
「小林正観 逝去 理由」
「小林正観 はなぜ死んだか」
「小林正観 なぜ死んだ?」
「小林正観はなぜ死んだのか」
「なんで小林正観は亡くなったの」
とまあ。
この正観さんの死因への関心の高さよ。
どんだけ気にしてる人多いのさwといいますか、
そんなの知ってどうすんのさ? ってのが、たわしの偽らざる感想ですわ。
まあ、中にはミステリアスなイメージを持って「○○の真相に迫る!」ってな三面芸能的な感じの人もいるんでしょうけれど、
そういったのを除けばほとんどは、
「自分にも起こりえるその死因を気にしなければ、不安でしょうがない」
という感じが根っ子にあるんじゃないかな、と個人的に感じてたりします。
今日はそこにたわしなりのあまのじゃっかーを突っ込んでみたいと思ふですよ。
たとえば。
日本人の三大死因として挙げられる、癌・脳卒中・心筋梗塞。
うわぁ、こわいわぁ、癌と脳卒中と心筋梗塞に気をつけなきゃ、と世の人々は口々に言うわけですね。
メディアなんかもこぞって、そう反応するべきだと言わんばかりにそれら三大死因が怖いことだと広めてますよね。
でもね、ちょっと考えればすぐわかるでしょ。
仮に新薬や医療技術の進歩で、癌も脳卒中も心筋梗塞も容易に完治するようになったとしますよ。
その時、何が起きるか。
それまでの日本人の死因における4・5・6位が、そのまま三大死因に繰り上がるだけw
そういう視野で語る限り、
三大死因なんて虚構は、絶対になくなるはずがないわけで。
そもそも、どうして三大死因が怖いのか。
厳しい言い方をすれば、
誰にでも訪れるとは限らないけれど、今のところ割合多くの人には訪れる、特定の「死因」に目を向けることで、
誰にも例外なく訪れる「死」から目を逸らそうとしているからかもしれない。
『生・老・病・死』
お釈迦さんはこれらを、四苦として挙げたわけですが、
それが示すとおり、ほとんどの人間は、死を苦として捉えてるわけです。
だから、死から目をそらそうとするのは、まあ仕方ないといえば仕方ない。
けど、ですよ。
「いのち」にとっては枝葉末節でしかない「死因」にこだわることで、
本質である「死」を覆い隠して見えないようにしている、
たわし的にはそんな風に思えて仕方がないんです。
変えられる「死因」を避けようとすることで、
変えられない「死」を避けようとしている(つもりになっている)、
と言ってもいいかもしれません。
避けられるはずないのにね。
当然、三大死因に限ったことじゃないですよ。
ちょっとテレビやら新聞やらで、
恐ろしい○○病が新種のウイルスがうんたらかんたら~と流れただけで、怖い怖いと。
正直な思いを吐露すると、滑稽で仕方ない(と、敢えてこう書きます)。
(もちろん、まだ幼く免疫も低い我が子の身に罹ったら、なんて類の慮りはここでは脇に置いときますよ?
これはさっきの四苦よりもむしろ、愛別離苦、つまり八苦の方にかかってくるっぽいですから)
病だけじゃなく。
たとえば、餅による窒息死なんかも全く同じですよね。
もちろん、気をつけて食べようね、という注意、
というか生々しく言えば生存のためのノウハウは大事。
そこはおろそかにしちゃ元も子もない。
だけど、そのノウハウにとらわれるばかり、心でビクビクしながら餅を食べてたんじゃ、
そんなの満足に生きることにも、満足に死ぬことにもなりゃしないわけで。
飛躍したように聞こえるだろうけど、
それは生への冒涜であり、同時に死への冒涜でもあり、
「本当の自分」への冒涜とさえ言えるんじゃないかな。
それとも何ですか。
たとえば、正観さんの病理的死因が腎不全だったとして、
じゃあ「私たちは腎不全には特に気をつけましょう」って言うつもりなんでしょうか?
案じなくても大丈夫ですよ。
腎不全だろうと肝硬変だろうと、何を特に気をつけようとつけまいと、
たわしもこれ見てる人も見てない人も、
そのうち漏れなく必ずあの世に逝きますから。
脳卒中かもしれませんし、癌かもしれませんし、戦争や天災かもしれませんし、
んなこた誰にも知りようがありません。
きっと理屈では、健康でありたいから死因を知りたいなんて思ってるんでしょうが、
知りようもないものを知ろうとするからぐだぐた迷うんです。
迷って不安になって、イコール苦しんで、余計に心身耗弱するんです。自分で墓穴掘ってるんです。
だからこの辺もパラドックスで。
たとえば餅だって、いきなり飲み込まずよく噛んでじっくり味わうこと自体を楽しんでりゃ、それで安全も幸福も事足りるんです。
以前の記事から繰り返します。
人が死に至るそもそもの、一番の根本的な原因は、
人として生を受けたから、です。
生ずれば、滅する。
これは自然の摂理。
そこには、どうやって滅するか、つまり死因や死に方なんて実はまったく関係なくて、
訪れる死そのものは、みんな等しい。
穏やかだとか悲惨だとか言ってみても、それは死んだ人がそう判断してるわけじゃない。
まだ生きている人が、死んだ人、というか死体や死因、
死亡状況を見て勝手にあーだこーだと評価しているだけ。
誤解を恐れず有り体に言えば、
死体は「死んだ方の肉体」であって「死んだ方」ではないんですよ。
気を悪くする人もいるかもしれないけど、
良いも悪いもなくただ単に事実を指摘しているだけなので、
そこを汲み取ってくれるとありがたいところです。
とにかく、繰り返しになるけれど一番言いたいのは。
「他人の死因」を「自分の死因」に投影して、
その他人固有のものでしかない「死因」と同種のものを避けるよう気をつけることで、
つまり「死因」を予防することで「死」を避けたつもりになっていませんか?、ということです。
まだ訪れていないにせよ既に通り過ぎたにせよ、
「他人の死因」は、その他人だけのものです。
同様に、「自分の死因」は自分だけのものですが、
こっちは間違いなく、まだ訪れていないものです。
そして、「自分」が気にする「他人の死因」は、
ほぼ例外なく、既に過ぎ去ってしまったものです。
それは、どうあがいても、
「自分の死因」と同一ではありえません。
そしてそのいずれも、「必ず訪れる自分の死」とも同一ではありません。一如ですらありません。
「いや、親父もそうだったし、俺も胸にちょっといわくあるから、どちらも同じ心臓病だよ」
なんて言うかもしれませんが、
それは病理名が同じなだけであって、個々の死としては全く別物です。
つまるところ。
死因をとやかく気にするのは、
医療や事件事故の対策に専門的、あるいは政治的に関わるプロフェッショナルだけで十分でしょってたわしは思います。
それ以外のたわしらパンピーは、
まあせいぜい、気楽に生を謳歌するとしましょ。
必ず死ぬということも、本質的に死はないということも、偏らず受け入れて。
今は死んでいないのだから死を恐れる必要はないし、
死んだあとは既に死んでいるのだから死を恐れる必要もないんですから。
『死は人生の終末ではない。生涯の完成である。
ゆえに死を恐れることほど愚かなことはない。
かくも醜い一生の本跡をたずさえて、神の御前に立つことこそ、恐ろしい』
――マルティン・ルター
sarasa 2011年10月30日(Sun)14時51分 編集・削除
祖父はまさに「もちし」をしましたがー
…体が衰えつつある中、惚けたばあちゃんに出されたもちで天界に行けたのだとしたら、幸いだったかもしらん、と孫の私は思ったり。
死について話すのはむつかしーんですが、
死をおちゃらけたように扱っている訳ではなく、(外からは不謹慎なように例え見えても)、あるべきタイミングだったと、肉親として納得できるというか。ひょっとしたら生きている間の交流に悔いがないから、そう思えるのもあるかもしれません。
死因は選べんですが、死は必ずやってきますねー。