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ヨル・タル・シル

 えっと、初めにちゃんと明言しておきます。

 今回の記事は、特にたわしの偏った主観や自意識、旺盛な批判精神成分をいつもよりも多量に含んでいます。
 なのでそういうのが嫌な人はぜひともスルー推奨。

 そんなの全く大丈夫っつー大人な物好きさんだけ続きをどうぞ。



 でわ。

 唐突ですが。

 大まかに、「にんげん」ってのは、
 次の四つの「ル」で成り立ってます。

 ・フィジカル ―― 物質性、肉体的な健全さ(頑強さとは違います)。
 ・メンタル ―― 心理。いわゆる知情意(知性・情緒(感性)・意志)の働き。
 ・ソーシャル ―― 社会性、外部への敬意や受容性。
 ・スピリチュアル ―― 霊性・精神性。知情意の働きを統合し、バランスを保つ働き。


 いわゆるジャンル的な「スピリチュアル(精神世界)」ってのは、
 この四つのうちの「スピリチュアル(霊性)」に着目して、
 そこへの自覚や関心が薄いために他とのバランスが取れず不健全になっちゃってるから、
 霊性への理解を通じて、この世に生きる「にんげん」としての、
 「『四ル』を総合した」人間性のバランスを健全化しましょうよ、
 ってコンセプトも根底にあると思うんです。


 要するに偏らずに人生を生き切りましょう、ってこと。


 本来的な「宗教」というものも、その根本スタンスはこれと全く同じはずです。


 だけど。

 どんな理念も、忘れ去られたり、
 あるいは曲解されたりすることは往々にしてあるもので。


 続き


 暴言承知でハッキリ言っちゃいますが。

「スピリチュアル(見えない世界)こそが重要で絶対の真相なのであって、
 残り(見える世界)は幻だから叩きのめして切り捨てていい」
 ってんなら、わざわざこの世で人間稼業やってる必要なんてないんです。


「この世では起こるべきことだけが起きているのだし、
 そもそも何をやっても自由なんだから、
 気に入らない他人を面罵したり蹴り食らわせたりしてもいい」
 ってのと全く同じ愚かなことです。


 なのに時々、六根(五感(フィジカル)+意識(メンタル))の外、
 つまり「見えない世界」ばかりを見(ようとし)すぎるあまり、
 見える世界を下等なものとして、無自覚に蔑ろにし始める人が出てくる。


 それに。
 「見えない世界」は普通、その本人にしか「観得ない」ものです。
 より正確には、「Aさん」の主張する「見えない世界」には、必ず「Aさん」というフィルターがかかっているので、
 Aさんの観た「見えない世界」が、「Bさん」の「見えない世界」とは、少なくとも現れ方が違って当たり前ですし、
 また「Cさん」が「見えない世界」自体を「観得ない」のも、Cさんの「見えない世界」にとっては自然なことなんです。


 にもかかわらず、この場合だとAさんが、
 「(自分が見ている)見えない世界を見られない、(見える世界に住む)他人」
 イコールBさんやCさんを、無意識に軽蔑しはじめる場合があるわけです。


 きらびやかな神秘体験的なものにばかり心ときめかせ、
 ありふれた、既に普遍的に存在している現実を粗末にし始める。

 そんな風に蔑んでる時点で、ある意味純粋な霊性からはもうかけ離れちゃってるんですが、
 そういった乖離、ひいては自らの人間性への黄信号に気付けないまま、
 自覚のない自作自演のスパイラルにハマっていく。


 内的外的に関わらず、スピリチュアル的な現象の何もかもに、
 何らかの意義やら価値やら名詞やら形容詞やら論理やらをくっつけまくってしまう。

 どこまでも無上の価値高いものにするために。
 抜きん出て価値高いものだと錯覚し、他の価値低いものを作り出したいがために。


 ストレートに言えば、「すごい自分がいるんだぞ」と悦に浸りたいがために。


 自覚の有無に関わらず、
 べつに本人がそうなりたくてなってるわけなんですから、紛れもない悪だと断ずるつもりはないんですが、
 一方で、それを指してるのが、いわゆる「悪魔」とか「魔境」とかって単語なのもまた事実。



 で。
 まあこの世じゃなければ知ったこっちゃないです(ぇー)けれども、
 ニンゲンサマの闊歩するこの世じゃ、さっきの四つの「ル」をトータルに見られないと、
 せっかく授かった一度きりの人生を、「部分的にしか」生きられません。


 言い換えれば、統合性を欠いた偏狭な人間として生きることになります。


 それは同時に、他者という「にんげん」、すなわち他者の人間性への理解を欠き、
 他者をトータルな「にんげん」として見られなくなる、見ることを怠るという愚をおかす、ということです。


 そしていよいよそれが昂じ、「にんげん」に赤信号が点ると、
 実際に他者を害し始めます。


 暴言、暴力、悪態、欺瞞、強奪、高慢、怠慢、強欲、我侭、優越、あるいは決め付けなどなどによって。


 とどのつまり、「自分こそ正しい」という意識がいつのまにか自動で前提に現れてしまう。
 本来間違いではないはずの「自己中心主義」にあぐらをかき、「他者の目から見た」自分を省みない。

 省みても、それは結果として「省みてるんだぞ」と自己陶酔するため。
 悲劇の主人公であることに酔っ払うため。

 それらは、「他者からの評価に左右されない」こととは全く別物です。


 ここまで来ると、上記の「四ル」における「ソーシャル」にも顕著に現れてきます。


 他者との関係性において、
 自分の正しさに沿い、自分の正しさを肯定する相手はもちろん、
 自分の正しさと衝突しない対象に対しては、それこそ聖人のごとき寛容と慈愛の言葉をかける。

 だけど一旦、自分の正しさに反駁する、自分の正しさとは相容れない、正しいものである自分を否定する、
 ひっくるめれば、「自分の正しさに照らして認めない」、
 それら「他」という「異物」「敵」に出会うと、様々かつ凶暴な攻撃性を、「正当として」発揮してしまう。

 誠実な議論で真実を見定めようとするのではなく、ハナっから排除・制圧を目的とした攻撃に出てしまう。

 という具合です。

 もちろん、何らかの分野に限った例ではないですが、
 目に見えないし確実な立証も反証できない点で、スピ方面におけるその現れ方は始末におえないです。
 「潜在意識だから」「高次の意図だから」「自分の意思ではないから」とかって表現だけで頑なに正当化しがちだから。

 正当化するってのは、正当じゃないからこそ行うのにね。
 まあ、いつぞや似たような状態に陥っちゃった事例を、
 実際にサンドバッグ役に(物理的にも精神的にも)なる形で観察させていただけたのは、
 振り返れば本当にありがたいケーススタディなのですがそれはさておき。

 と。
 ここまで、批判的な方面からの見方で書き連ねてしまいましたが、
 逆にこれらの偏りを解消し、人間としてバランスするための鍵も、ちゃんと存在します。


 それこそが、「足るを知る」です。


 どうも、
「思いを遂げ、願いをかなえること」を(潜在的でも顕在的でも)至上命題にしてスピ業界なるものに足を突っ込んでる人は、
 どうやら中々その至上命題を抱えていること自体を自覚できないみたいです。

 その一因は、足るを知らないからです。


「生きるために必要な全ては、今この一瞬に、完全に与えられている」自覚が無いからです。


 思いや願望には、際限がありません。
 脳みそに血流がめぐり続ける限り、
 どこまでも、貪りつくそうとします。

 際限がないからこそ、貪っていることにも気付けません。
 気付いても、中毒性の高い酒なので離れるのは難題です。

 そして、貪れば貪るほど、そこに生じるのは「苦」です。

 時々想い叶って、「楽」になることもあります。
 けど、それ以外は全部、「苦」です。

 「苦」から離れたいがゆえに、1つの「楽」を求める。
 それだけのために、残り99の「苦」を自ら呷っているわけです。

 そもそも、
 どんな美味な食べ物も程度を超えれば飽き、食べ過ぎれば苦痛が生まれます。
 のどが渇いた時に飲む水は格別でも、更に飲みすぎれば最終的に溺死します。
 つまり、「苦」と「楽」は根本的に、同じものなんです。
 よって、「楽」を求めることは必然的に「苦」を貪るのと全く同じことです。

 その本末転倒には、「見えない世界」へと関心を注がなければ気付けません。

 ですが同時に、「見えない世界」へと傾倒すればするほど、自分がそこにハマっていると自覚できなくなるものでもあります。



 そりゃたわしにも、思いや願望はありますよ。将来の夢的な。
 もちろん、それが叶えば当然嬉しい。

 でもぶっちゃけ、それ以上にたわしにとっては、
「願望が実現すること」は全く重要でもなんでもないです。
 だからある意味では、思いや願望が叶ってもそれ自体は嬉しくもなんともないw

 もちろん、嬉しいんですけどねw

 いうなれば、「一喜一憂することなく、しかし嬉しがる」、
 そんな言葉じゃ矛盾にも見える在り方が、どうやらベースに流れてるわけで。

「思いや願望以前に存在する何か」とでも言うべきものに触れていると特に、
 それがより自然な形になります。

 あえて後先をつけるなら(本来つけるべきではないのでしょうが)、
 そっちの方が「先」であり、その時点で既に「嬉しさの海中にいる」と。



 小林正観さんの言葉を借りますが、

「思い」があるから、「思い通りにならない事」がある。
「思い」がなければ、「思い通りにならない事」もない。
 つまり、ストレスなし。

 単純な図式です。


 で、
「思い」がなくなったところに、以下割愛。

 単純なパラドックスです。



 えっと、要するに。

「思い・願望」から離れると、
「全ての思い・願望は完全に叶っている」ことがわかるわけで。


 ……この辺特に、言葉じゃ絶対明確に指し示せないとこなんですよね。
 とにかくそれでも言い表すなら、二元相対ではなく、一元絶対ってやつです。

 毎朝目が覚めたらまず、「今日を人生最後の日と思い定め、生きる」と自分に言い聞かせることで、
 最大限に充実した人生を生きられるようになる、ってのと似たような力学とでも言いましょうか。



 ともあれ。
 それがわかると、守護霊やら天使やらハイヤーセルフやら前世やらインナーチャイルドやら自我やら真我やら悟りやらなんちゃらが、あるとかないとかいるとかいないとか、
 そういうことじゃない(←これも二元ですが)し、そういう議論や、シンボリックな名詞にすら興味なくなるし、無闇に使わなくなる。

 あ、いやわかってて興味持っても使っても当然いいんですもちろん。
 むしろ便宜上使わないと困ることも多いでしょうし。
 ただ、それらを過剰に振り回さなくなる、そこへと無闇に傾倒・執着し、偏った人生を演じなくなる、という意味。



 言葉の論理ではどうしても、表現に限界と齟齬と矛盾の出ることですが、

 二元・二極と言う一本の棒、あるいは道の両端でも、その真ん中らへんでもなく、
 道や棒の埒外に、「それ」は道や棒も含めながら超えてある。

 習熟してくると、文字通り「呼吸一つ」で、
 スイッチのオンオフを切り替えるように「それ」へと融けていられるようになる。
 より厳密には、元々融けているのだと気付いていられるようになる。

「気づいている」ことにすら「気づいていない」ということにさえ、「気づいていられる」ようになる。


 その状態から発せられる言動は、まさしく「まごころ」です。


 たとえ一見すると否定的に見えるものでも、

 「まごころ」だから、嘘偽りない。
 「まごころ」だから、着飾らない。
 「まごころ」だから、励まされる。
 「まごころ」だから、暖かくなる。

 だからこそ、突き詰めると、その先はまるで人格論のようなニュアンスも増してくる。
 というか、結果的に人格論に基づいたかのような現実の振る舞いを、演じることなく行うようになる。



「●●であれば幸せである」
「●●でなければ幸せではない」

「●●でなければならない」
「●●であってはいけない」

「「●●であれば幸せである」であれば幸せではない」
「「●●でなければ幸せではない」でなければ幸せである」

「「●●でなければならない」であってはいけない」
「「●●であってはいけない」でなければならない」

 これらのような思いや願望にとらわれず、
 上善如水、いつの間にか水の流れるがごとく生きるようになってくる。

 自他におもねらず、逆らわず、無闇に傷つけず、
 運び、運ばれ、押さえつけず、押さえつけられもせず、
 いかなる形にもその姿を変えることができ、いかなる形をもとらず、
 至極穏やかでありながら、しかし時には想像を絶する莫大な力も発揮する。


 その状態が、ご存知のとおり不立文字でありながら、
 しかし様々な言葉で表わそうと綿々試みられてきたものであり、
 たとえば老子でいうならば「道(タオ)」だったりします。


 そこでは、
「思いや願望にとらわれてはならない」
「思いや願望が浮かび上がってはならない」
 ということにさえとらわれない。

 前述の「四つの「ル」」からなる人間性になぞらえれば、
「人間性は統合されなければならない」
「人間性が偏っていてはならない」
 というわけではないですし。


 そもそも、タオの上には「とらわれる」ために必要な間隙すらないのですから。


「「とらわれないようにする」時点で既にとらわれている」
 というありがちなマトリクス味の酒やタバコを、
 初めから飲んでいない、吸わないままでいる、そんな状態。


 そして、
 その老子が度々、口を酸っぱくして説いているのが、まさしく「足るを知る」、だったりします。



 ちなみに。

 ぶっちゃけ、「足るを知らなければならない」というのも、
 まかり間違えばただの偏った執着になるわけですけど。

 でもそれを見分けるポイントは単純です。

 「~ねばならない」には、必ずその前に「~であるためには」がくっつきます。
 この、つまりは「前提」があるかどうか。それだけです。

 ただ「足るを知っているのが心地よくて好きだから、足るを知る」のか、
 「幸せであるために、満願成就するために、人格者であるために、足るを知らなければならない」のか、
 それだけの違いです。
 


 ……ま、つまるところですよ。

 先月になって初めて老子の教えに触れて、
 あまりに自分のスタンスと合致するのにびっくりしたっていう、
 ただそれだけのお話、でした。(ぇー






「自分こそ正しい、という考えが、
 あらゆる進歩の過程で最も頑強な障害となる。
 これほどばかげていて根拠のない考えはない」

  ――J・G・ホーランド 


「信念のために人を殺すのは、金銭のために人を殺すより下等なことである。
 なぜなら、金銭は万人に共通の価値を有するが、信念の価値は当人にしか通用しないからである。」
  ――ヤン・ウェンリー(「銀河英雄伝説」より)


「私は「正義の人」が嫌いである。
 「正義の人」はすぐ怒る。「正義の人」の怒りは私憤ではなく、公憤であるから,歯止めなく「正義の人」は怒る。
 「正義の人」は他人の批判を受け容れない。「正義の人」を批判するということは、ただちに「批判者」が無知であり、場合によっては邪悪であることのあかしである。.
 「正義の人」は「世の中のからくりのすべてを知っている人」でもある。「正義の人」に理解できないことはない」

  ――内田樹


「どっちの味方をすればいいの?正しい方を助けなくちゃ」
「どっちも、自分が正しいと思ってるよ。戦争なんてそんなもんだよ」

  ――「ドラえもん」より


「部下を全否定するような上司は、人間性に問題がある」
  ――「人は上司になるとバカになる」(菊原智明・著)より



「今では享楽者とか快楽主義者という誤解された意味でのみ使われている”エピキュリアン”という言葉だが、その語源となった古代ギリシアの哲学者エピキュロスは、生きていくうえでの快楽を追求した。
 そしてたどり着いた頂点が、満足という名の贅沢だった。その贅沢に必要なものは、しかし多くはなかった。すなわち、小さな庭、そこに植わっている数本のイチジクの木。少しばかりのチーズ、三人か四人の友達。
 これだけで、彼は十分に贅沢に暮らすことができた。」

 ――「超訳 ニーチェの言葉」より



 ところで、最初にも書きましたけど、
 もちろんこの記事自体も、一種の固定化された観念に基づくという解釈や、正義やら何やらへの自己陶酔の危うさを多分に含んでるんですよね。
 ある意味、自分自身の拙さ愚かさを炙り出して見つめ合うためのエサでもあり、
 解釈次第でどうにでもうつろう、そんな言葉の怖さを味わってみるためのものでもあり。


 あ、だからこんなに長ったらしい乱文なのか!!(いつものことです

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コメント一覧

ponsun URL 2011年10月18日(Tue)08時55分 編集・削除

せらつかさん、おはようございます

長い記事ですが(嬉笑)、一つひとつが、しっかりした
メッセージで、いずれも共感いたします

一部、私の記事の詳細解説にもなっているような
気がいたしました(嬉笑)


上善如水、いつの間にか水の流れるがごとく生きる
ようになってくる。

 自他におもねらず、逆らわず、無闇に傷つけず、
 運び、運ばれ、押さえつけず、押さえつけられも
 せず、
 いかなる形にもその姿を変えることができ、
 いかなる形をもとらず、
 至極穏やかでありながら、しかし時には想像を
 絶する莫大な力も発揮する

このような生き方に、惹かれてしまいます


ありがとうございます

パン田 2011年10月18日(Tue)12時37分 編集・削除

あはははー、長いー!

でも、言わんとするところはよーーっくわかります(最初の1/4で)。
私もあっちとこっちをチラ見して同じようなことを思っていました。

思いっきり吐き出しましたね。これまで苦しかったでしょう。

せらつかさんが、黒くなりすぎるのを危惧しながらバランス取ろうとしていたのは分かるんだけど、「全然黒くないよ! ふつーだろこれ。もっと吐き出さなきゃ。」と思っていたのでした。

これ書くのにものすごいエネルギーが要ったと思うんだけど、南北くんの怒濤の更新といい、今、せらつかさんにはそれ以上のエネルギーが充ち満ちているんですね。
脱皮のあとの飛翔が始まっているのかも。
鱗粉飛ばしながら。(ぇー

さて、後半を読むか。(おぃ…

せらつ@中の人 2011年10月19日(Wed)06時13分 編集・削除

 いやー、実はこのエントリですね、
 一週間ちょっと前に書き上げてて、そのままお蔵入りするはずのものだったんですよ。
 アグレッシブってのもあるけど、あまりに文章自体がまとまりなくて拙すぎたからw

 でも、そう思ってたら、
 ponsunさんとひょい!さんのブログで示し合わせたように「知足」についてのエントリが出たでしょw
 更に、しばらく前に買ったきり置いていた本を読み始めたら、
 いきなり、ある序盤の章題が「足るを知ること」……

 ついかっとなって公開ぽちっと(ぇー
 そんなしだいでございます。えへ。


>ponsunさん
 そんなわけですので、ある意味、確かに詳細解説っぽくなっちゃってますw
 こんな生き方に惹かれるのは同じくですね~。
 水は低きに流れるって言いますけど、自分の心もそこへと流れていくのが、一番しっくりきます。
 今はまだまだ川の途中ですがw
 ありがとうございます~


>パン田さん
 くらえ!どくがりんぷん!(ぇー

 >あっちとこっち
 えー?なんのことだかわかんなーい?(ぇー
 と、あえてしらばっくれてみましたが、それはともかく。
 まあこの超長駄文wの原動力としちゃ一切否定できませんぜ大将!(ぇー

 たしかに、昔自分自身の攻撃性でついには自分を痛めつけすぎてしまい、心黒々とした病人になってしまったという経緯から、それをもう二度と繰り返すまいってな信念が眠ってるとは思うですよ。

 でもねぇ、今になって何となく感じるですよ。

 黒にも、暗くて重々しい黒と、
 明るくて眩しい黒とがあるって。

 その違いが、ようやく理解できはじめた気がします。

 光の三原色じゃ、全部合わさると白になるけど、
 色の三原色じゃ、黒になりますもんね。
 だから黒はある意味、一番眩しい色でもあるわけで。

 執着しないことに執着しているうちは、やっぱり執着してるんですね。

 これもみんなのおかげさまです。
 ありがとうございます^^

河内国之言珠媛こと敦 URL 2011年10月19日(Wed)18時22分 編集・削除

>結果的に人格論に基づいたかのような現実の振る舞いを、演じることなく行うようになる。

演じることなく行えるようになりたいです。

>上善如水、いつの間にか水の流れるがごとく生きるようになってくる。

これできたらいいですね。


これだけ書けるエネルギーがあるという事は、もう大丈夫ですね。(嬉笑)
安心しました。
いつもありがとうございます。

パン田 2011年10月19日(Wed)18時22分 編集・削除

連投すまそ。

一切の執着を手放すとどうなるかっつーと、そのときの感情をどんどん忘れちゃうんですよね。なんかぼやーっと、「そんなこともあった気がする」ってな感じで、すごくリアル感にとぼしい。
だからもう、何でもニコニコ許せちゃう。

ところで、よく考えると「脱皮」と「羽化」は別モノでした。でもまあ、ステージが変わるって意味では同じようなもんで。

初代は東京タワーで羽化だったけど、二代目はスカイツリーだったのかな? 福岡タワーとかあるのかな?

せらつ@中の人 2011年10月19日(Wed)21時32分 編集・削除

>河内国之言珠媛こと敦さん
 いやいや、Oちゃん記事とか見てたらもう既にできてると思われますw
 人格論つったって、何もしゃちほこばった道徳うんぬんとかでもなく、
 そもそももっと暖かくなるふれあいを導くものだよって気がしますからー。

 つーわけで、いろいろお気遣い頂いてありがとうございます^^


>パン田さん
 そうそう、確かにそんな感触ー
 で、その状態に習熟した上で、更に今度はシャープに収斂する感じで「今」に意識のフォーカスを絞りきってみると、
「今、すること」が何か、すごくはっきりと浮かび上がってくるんですよね。
「今、したいこと」でも「今、すべきこと」でもなく、「今、すること」が。
 それに従ってとった行動には、本当に、間違いがないです。広い意味で。


>脱皮と羽化
 じゃー間とって、皮化!(とれてない

 ありますよ福岡タワー。ヤフードームの近所に。
 ってかモスラってモスバーガーって以下略(ぇー


 ……いったい何を略したのか自分でもわからない罠(ぇぇぇー