黒斎さんとこの極楽飯店が、ついに輪廻中毒にまで話が及んでwktkしてる今日この頃、皆様いかがお過ごしでしょうか(何
うみさんには南北話期待してる言われてるのにアレなんですが、
アップデートで北米実装したばかりの大航海時代にかまけて筆がノロノロでごぜーますああそこ石を投げるならせめて片手で持てる程度で……( ̄д ̄;)
でも放置じゃせっかく来ていただいてる方々に申し訳ないので、せっかくなので今回は以前書き溜めたもののお蔵入りしてたやつからお披露目をば。
てゆーか、前のエントリでちらっと「反応を選択」するって言葉を使って、ふと思い出したのが今回の話題。
加えて、今日うずらさんに頂いたコメントとも何気に関連することなので、渡りに船というか、そのコメント頂く前からこのエントリをつなぎに公開する予定だったものでなんというシンクロー、ってのが正直な所。
ただ本音言うと、内容自体すっごい粗があるからホントはこのまま蔵に入れときたいのは山々なんだけどねぇ……それでも何かしらの学びに変える人もいるかもしんないし、ってことで敢えて。
てかこれ書いたの、タイムスタンプ見たら今年の1月2日かー。
結構熟成してたもんだ。乳酸菌たっぷり?(ぇー
そんなわけで、以下その腐敗臭をごゆるりとご堪能ください(ちょ
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……。
さて。
唐突ですが、「責任」という言葉がありますね。
広辞苑によると、
せき‐にん【責任】
1.[荘子天道] 人が引き受けてなすべき任務。「―を全うする」「―を持つ」「―をとる」
2.政治・道徳・法律などの観点から非難されるべき責(せめ)・科(とが)。法律上の責任は主として対社会的な刑事責任と主として対個人的な民事責任とに大別され、それぞれ一定の制裁を伴う。
つまり責任とは、為さねばならない何か(英語であればmust)であり、
またそれを為さないことも含めた何らかの落ち度について罰を科されること。
そんなふうに解釈されてるわけですね。
「責任を取れ!」だとか、
「どう責任取ってくれるんだ!」とか。
特に他者に向ってこの言葉を使うときは、確かに責め罰するニュアンスが強い印象かな。
でもこの責任という単語、
英語ではresponsibilityといいます。
response - ability で、「反応する能力」という原義。
どういうことかというと、
「自分がどう反応するかを自分で選ぶこと」
なんです。
つまり本当の意味での「責任」とは、
「強制されること」「罰を食らうこと」という受動的・非主体的なものではなく、
「自ら反応を選択すること」という能動的・主体的なものなんです。
実はですね。
どんな外部刺激を受けようと、どんな決断を目の前にしようとも、
誰もが本来、必ず、「反応を選択する能力」を保有しています。
たとえは渋滞に巻き込まれたとして、
ある人は、イライラするあまり舌打ちを繰り返し、タバコを何本も消費しながらクラクションを鳴らしまくる。
ある人は、緊張をといてシートにくつろぎ、スピーカーから流れるお気に入りのジャズに微笑みながら耳を傾ける。
両者ともに目的地はあります。可能な限り早く着きたい意図もあります。
現象は何も変わっていません。
なのに、反応は全く逆です。
このことは、
「渋滞という現象そのものに、人の反応を直接左右する能力は無い」
ことを表しています。
裏を返せば、
「現象に対してどんな反応を示すかは、その自覚の有無にかかわらず、その人自身が完全に決定権と能力を持っている」
ということ。
それは他の誰の力でもありません。
「自分」しか持っていない、絶対無二の力です。
でも、その力を本当に自分のものとして活用している人は稀です。
多くは、その力を他の誰か・何かに明け渡してしまっています。
こういう喩えは眉をひそめる人もいるかもなので、先にすみませんと謝っておきますが。
いきなり極端な例を挙げれば、「人を殺してはならない」ということ。
ええ、私ももちろんそう思います。
でも、なぜ殺してはならないのか?
そこに、「自分なりの理由」を持っている人は、いったいどれだけいるでしょうか。
「殺してはいけない(と親や教師や誰かが言った)から、殺してはいけない」
「殺したら警察に捕まって裁判で有罪になったりするから、殺してはいけない」
シビアかもしれませんが、こういう考え方であれば、それは「反応選択能力の放棄」の現れかもしれません。
なぜなら、「内部(自己)ではなく、外部(他者・環境)にその理非の基準をゆだねている」可能性があるからです。
「殺すのは悪いことだ」と自分では完全にわかっているつもりでも、
深く心を見つめ掘り下げてみると、「悪いこと」と判断する基準、その源泉が、
実は「殺すことそのもの」への忌避感=自己基準からではなく、
むしろ「殺すことによって被る社会的不利益」への忌避感=外部基準からくるものだった、という場合すらあります。
それらのケースはみな、元を辿れば、自分で選ぶのではなく、
「~しなければならない」「~してはならない」と、
いつぞや他の誰かに教え込まれた判断基準を、そうと疑わずに絶対のものと信じ込んでいるわけで。
常識とか道徳とかを超越した根源的なことを言ってしまえば、
この世に、
「~しなければならない(must)」
「~してはならない(never)」
は、存在しません。
いや、neverやmustな事柄は存在するじゃないか、と言われるかもしれません。
が、「純粋な」「無条件の」「それのみで成立する」neverやmustはやはり存在しません。
必ず、「~であるためには」といった限定条件がセットになって、初めて成り立つんです。
しかし多くの場合、無意識に使っている「never」や「must」には、それが無条件で成立するという錯覚を伴います。
あるいは、「セットとなる限定条件」こそが絶対の存在であるという固定観念に基づいています。
それは他人や環境、すなわち「外部の何か」が「自分にそう強制させている」という、被害者的な内的姿勢の現れです。
そこにあるのは、「response - ability」の放棄です。
こんなことを書くと、「じゃあ殺してもいいのか」とツッコむ人もたまに見かけます。
が、ここでしてるのはそんな解りきった領域の話じゃありません。
言いたいのはあくまで、善悪理非の判断基準を「自由意志」と「固定観念」のどちらに置いているのか、ということです。
個々の設問で表に現れてくる選択結果は同じに見えても、その差異はおそらく人生全体に大きな違いを及ぼすでしょう。
そう。
その「response - ability」という能力は、自由意志・自由選択の元でしか発揮されません。
しかし、被害者的な思考を続けてきた場合でも、そうであったことに気づけたなら、その能力を取り戻す方法はあります。
誰しも、「自分はどうありたいか?」という「あり方」必ずあります。
自己の内面との、誠実で根気強い対話によってそこをよく見極め、把握する。
その上で各々の「あり方」に照らして、そこに沿っているのか、それともそぐわないのか、
そこを吟味して、初めてneverやmustは、
「外部による強制」ではなく、
「自主的な反応」へと帰ってきます。
neverやmustに伴う限定条件、その基準を、
そこで初めて自由に選べるようになる。
つまり、そこで初めて、思い癖に利用され自分を縛っていたneverやmustを、
自分のあり方を自由に形作るため道具として使いこなせるようになる。
「自分はどうありたいか?」
それは言い換えれば、
「どんな自分を経験したいか?」
ということです。
あなたは、どんな自分を経験したいですか?
それを真摯に問うことが、一つの扉を開ける鍵になります。
2011/01/02 19:56
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……とまあ、ここまでが以前に書き溜めた分で。
けどまあ、今見返してみると、
たとえば、親から「あなたが他人を傷つけると私は悲しい」と教えられた子供が、
「ぼくが誰かを傷つけるとお母さんが悲しむから、そんなことはしない」
という判断基準でもって、誰も害さないことを選択するってこともあるよねぇ。
それってすっごく素敵なことに思えもするんだけど、でも基準は「母という他者が悲しむから」という外部にあるものなのかもしr
川´ー`)「たわけ。その子は無意識的に、母と自分とが本質的に同一の存在であることを理解しておるんじゃ。他者の痛みは自分の痛みでもあるということをの。それのどこが外部基準だというのじゃ? 『誰か』という宇宙を傷つければ、同じ『宇宙』たる自分も傷つく……それに気付いておる者の選択は、どんなに外部基準に見えてもその実内部基準となる。いや、厳密には一体なのじゃから内部も外部もないがの。そもそも現状ここに集うてくれておる人々は、その程度とうに掴むなり感ずるなりしておる。いくら一月以上過去に書いたものとはいえ、さすがに色々な意味で現段階のこのブログやおぬしにはそぐわん内容じゃの」
あいたたた……( ̄д ̄;)
川´ー`)「まあ、恥はどんどん晒すがええ。それもまた種じゃよ」
最近いつもこんな具合でs〓■●_
ponsun URL 2011年02月25日(Fri)05時03分 編集・削除
自分がどう反応するかを自分で選ぶこと
そうですね。大事な選択ですね
そしてすべての責任は自分にあり、ですね
ありがとうございます