常に曖昧に。
よく、満たされない思い、欠乏感や欠落感をたとえて、
「心の隙間」
なんて言われるけれど、
心に隙間なんてない。
もちろんただの比喩ってわかってる。
それでも隙間なんてない。
実際は全く逆で、
隙間どころか、思い込みという余計な荷物を抱えすぎているだけ。
隙間どころか、ぎゅうぎゅう詰めで窒息しそうになっているだけ。
でも、自分でこしらえたその荷物に気付けていないから、それは空気のようなものだと思ってる。
だから、見えない。
見えないから、隙間だと思ってしまう。
膨らませた風船の内側は、隙間じゃないのと同じように。
それを隙間と勘違いして、足りないと思って更にどんどん詰め込めば、
いずれ風船は破裂する。
だから、緩めていい。
固く縛っていた風船の口を緩めて、自分を張り詰めさせていた空気を抜いちゃっていい。
荷物は手放しちゃっていい。
それじゃあ自分が萎んじゃう、そう不安になるかもしれない。
もちろん、荷物を持っていたければ持ってていい。
それが望みなら、誰もその自由を侵したりできないから。
でも、空気が抜けていった先、今まで自分だと思っていた風船、その外側と繋がったとき、
「本当の」隙間を知ったとき、空虚どころか無限の安らぎを、知ることができるよ。
心配というものを、ただ不安がることだと思っている人のなんと多いことか。
大切な人のことを心に捕まえては、
「災難に遭いはしないか」
「気苦労を背負いはしないか」
「不幸になりはしないか」
「今、そうではない」悲観的な状況を、頭の中でクリエイトしてシミュレートして、わざわざ自分で自分を不安にする行為に事あるごとに耽る、そんな人のなんと多いことか。
それを美徳とし、道徳とする価値観を頑なに堅持している人の、なんと多いことか。
「心配」。
呼んで字のごとく、「心を配る」こと。
つまり、本当の心配とは「配慮」だ。
彼に「無事であってほしい」なら、
「災難に遭う」ことへの抵抗を意図するのではなく、「無事である」ことへの肯定を意図して配慮する。
彼女に「心安らかにいてほしい」なら、
「気苦労を背負う」ことへの抵抗を意図するのではなく、「心安らかにある」ことへの肯定を意図して配慮する。
わが子に「幸せであってほしい」なら、
「不幸になる」ことへの抵抗を意図するのではなく、「幸せである」ことへの肯定を意図して配慮する。
「配慮」として現れる「行為」、その内容がどちらの意図でも同じであってもちろん構わない。
ただ、その「行為」の根底・根源にある「あり方」がどちらにあるかで、実はまるで別物になる。
さて、どちらが大切な人にとって、そして何よりあなた自身にとって、「幸せ」だろうか?
そして、あなたの「大切な人」は、あなたが心配の名を騙る恐怖や不安に心を苛まれ、蝕まれるのを、はたして望むだろうか?
<心配するあなたの不安そうな表情を見れば、あるいは心配して書き送る言葉を目にすれば、相手の思考も望まない方向へ向く可能性はある。
誰かの役に立ちたいと思ったら、その人が望むとおりの姿で見てやることだ。そういう影響なら与えたいのじゃないか>
エスター・ヒックス+ジェリー・ヒックス「引き寄せの法則 エイブラハムとの対話」より
<悲観をその基盤とし、不幸と悲哀を善とするこの道徳……この善悪の価値表は、速やかに破り捨てなければならない>
ニーチェ「善悪の彼岸」より
2010/12/30 08:17
<あなたが何か物を欲しがっているとき、
あなたが本当に欲しがっているのは、
その物自体ではなく、その物を手に入れたときに味わえるあなたの感情です>
それが真実かどうか知りたければ、自分の本当の内面と真摯に対話してください。
でも、多くの人は、その行為すら難しいかもしれません。
なぜなら、多くの人は四六時中思考や心の内に様々な雑音(ノイズ)を垂れ流し続けているからです。
不安、恐れ、悲嘆、後悔、愚痴、悪口、不平不満、文句、泣き言、
そんなネガティブなものはもちろんですが、あるいは将来への希望や展望など一見ポジティブなものも、実はノイズである場合が多々あります。
なぜそれがノイズなのかは後で軽く触れますが、とにかくそんなノイズだらけの中では、自分の「本当の」内面からくる微細な「声」は、簡単にかき消されてしまいます。
でも、そんなノイズ、むしろ騒音エンドレス状態であることにさえ、気付いていない場合がほとんどです。
普段暮らしていて、冷蔵庫の動作音って気になります?
いつも鳴り続けているから、大抵は慣れてしまって気にすることすら思いつかないでしょ。
それで、ふと停電にでもなって、その音も消えたときに初めて、
「あ、こんなに静かだったんだ!」って、冷蔵庫からのノイズが「それまでずっと存在してたことに気付く」。
ちなみに、それに気付けるようになる、つまり「意図的に停電状態を発生させる」のが、いわゆる瞑想です。
瞑想と聞いて、結跏趺坐して印を組んで半眼で微動だにせずに~なんて堅苦しくイメージする人もいると思います。
でも、それは行為です。
瞑想は行為じゃありません。
今この瞬間に、心と意識が集中している「状態」のことです。
だから、別に座ってなくても、立っていても歩いていても運転してても台所で玉ねぎの皮を剥いていても、瞑想はできます。
その状態にある間、一切の例外なく、上で挙げた「ノイズ」の数々は、存在することができません。
なぜなら、それら「ノイズ」の全ては、「今この瞬間」ではなく「過去」や「未来」に心と意識がタイムスリップしている時にしか、発生しないからです。
それは「今この瞬間にしか実在しえない」自己の力を、「過去や未来という非実在」に注ぎ込んで捨ててしまうということ。とんでもないパワーロスを産む行為です。禅でいえば有漏地(うろじ)。
言い換えれば、瞑想とはそのパワーロス行為をやめること。要は、行為に対する「無行為」です。
……さて。最初に戻りましょ。
<あなたが何か物を欲しがっているとき、
あなたが本当に欲しがっているのは、
その物自体ではなく、その物を手に入れたときに味わえるあなたの感情です>
瞑想などを通じて自分の本当の内面の声に気付けたら、それが本当かどうかはわかります。
もちろん、物を欲しがることが悪いなんて言うつもりは毛頭ありません。
どんどん欲しがったっていいんです。それも自由で立派な一つの方法です。
伝えたいのは「『その物(外側)を得ることでしか、本当に欲しい感情(内側)を得ることは出来ない』という無意識の思い込み=固定観念に嵌っていませんか?」ということです。
もしそれを飲み込めたなら、物に依存しなくても楽しめるようになるきっかけが手に入ります。
依存しても楽しめるけど、依存しなくても楽しめる……つまり、選択肢がぐんと拡がります。
だって、感情にお金がかかりますか?
タダで本当に欲しい結果が手に入るなんて、お得だと思いません?
納得するも、バカバカしいと思うも、全ては自由です。
某所で「悟り」についての話題があって、ふと思ったこと。
本当は、この世に悟った人なんていません。
だって、悟るってのはある真実に気付くってこと。
いわば、どんなに否定しようとしても否定のしようもなく、ある意味力ずくとさえ言えるくらい圧倒的に、だけど素直に納得させられてしまう現象。
その真実に気付いてしまうと、あらゆる存在・非存在の一切合財が、例外なく全て同一で単一で唯一のものだって理解してしまうから。
そうすると、悟った人は、その自分以外の存在・非存在は全て自分だって見抜いてしまう。
すると、「自他」でいうところの「他」が消滅しちゃう。
「彼我」の「彼」でもいい。とにかく消えちゃう。
でも、それだけじゃない。
「他」が消えちゃうと、「自」も存在できなくなっちゃう。
なぜって、よく考えてみてほしい。
「自」も「他」も、互いの関係性なくして、互いに存在できない概念でしょ。
「右」という指向なくして、「左」は存在できない。
「硬」という評価なくして、「軟」は存在できない。
「悪」という観念なくして、「善」は存在できない。
片方がなくなれば、もう片方は比較対照を失って、ただ「それ」としか認識できないでしょ。
水密隔壁で左右に区切った水槽に水を満たせば、右の水と左の水で別れているように見えるけど、その隔壁を取り除いて境界がなくなった途端、右の水と左の水を区別できなくなっちゃうでしょ。それと同じ。
だから、悟った人は、悟った時点で、悟った人の自己、悟った「私」が消えちゃうんです。
よって、この世に悟った人なんていないんです。
ただ、「悟りの状態」があるだけなんです。それが本質です。
……。
でも、やっぱり、悟ってる人はいますw
矛盾してる? でも正しいの。
言葉なんて、一度に一方向からしか物事を表現できないとても不便なツールなんだから。
ついでに言えば、「正しい」も「しか」も「不便」も、「悟ってる人」の眼からみればただの虚構や虚飾でもあるわけで。
だけどこれもほんとは正しくなくて、「虚構」や「虚飾」というのも余計なわけで。
だけど「正しくない」や「余計」も以下無限ループ。
これが、言葉というものの限界。
大抵の人は、言葉で表現できないもの、理屈で成立できないもの、それらを拒絶し、否定する。
だけど、本当の「それ」、
その全ては、理屈を超えた、ものの見方の先にある。
固定観念を脱して、ついでに言葉という枠組みの形骸も脱して、自由自在に観れば観られるよ。
元々、最初は誰もが「それ」を観てたんだから。
ただそれだけのお話。
上のごとく下もしかり。
下のごとく上もしかり。
ずっと上にあると皆が思っている太陽は、
大気圏外に出てみれば下にあったり左にあったり後ろにあったりする。
あなたが下だと思っている方向は、
地球の真裏にいる人にとっては上になる。
上も下も右も左も、自分中心。
自分中心が生んだ固定観念。
そうやって、いつでも人は自縄自縛している。
しかも大抵、その縄の存在にさえ気付いていない。
だけど、他者中心になれば自由なのかといえば、そうじゃない。
なぜなら、自分中心以外のあり方は、ありえないから。
ここでのポイントは、自分中心の「自分」というもの、その解釈の根本的な、人類がずっと遺伝させてきた根深い誤解にある。
その誤解を、たとえば仏教では有身見(うしんけん)といって煩悩の一つに数えている。
地球に帰還した宇宙飛行士が、その後牧師や農家などへと転身するケースが多いというのも、上も下もない宇宙空間でそういった「誤解」を砕かれて、「本当のこと」に気付いたからなのかもね。