常に曖昧に。
写真は、この前自転車でぶらぶらと、
通ったことのない街路を気ままにあてどなく散策してた時に見つけた寺の掲示板。
今日はちょっと趣向を変えまして。
トップページのRSSリーダー使って、ぶらぶらといつものブログ散策中、
個人的に特にシンクロっぽかったエントリを徒然にご紹介。
■愛の世界で生きている:お弁当を食べる体
ここんとこみんな興味津々な「食」について、詩にしてくださっています。
いやほんと、なんというか……そうなんですよね。
「食」は全部に繋がって、全部もまた「食」に繋がってる。
本当はシームレスなんですよねぇ。
もぐもぐ噛んでると、ただ食感とか味覚とか噛んでくれてる体とか、訪れては流れてく無常で刹那の感覚を、眺めてるだけになる。
そんな時、実は意識の分離感なんてどっかいっちゃってるんですよね。
そして、それは誰しも必ず感じたことがあるはずで……ただそれを認めるか認めないかの違いだけで。
■ありがとう仙人の「心のホームルーム」:クンバハカ法のコツ
いや先日もありがとう仙人さんのおかげでクンバハカ法の感覚がつかめたばかりなんですが、
その掴んだ内容を更にわかりやすく噛み砕いて、解説してくださいました。うん、たわしが掴んだのも(たぶん)仰るとおりの感覚だ!
そうなんですよ、天風師は実際は「下腹に『力を入れる』」って言葉を使ってるんですよ。
たわしが一番誤解してたのは、まさにそこだったんですね。
その誤解を、まあたわしの中ではもう解けた誤解なんですが、ありがとう仙人さんがさらに優しく解きほぐしてくれました。なんというアフターフォロー!(ぇー
ありがとうございますです、とこの場を借りて御礼を。
余談ですが、アクセス解析見てたら「中丹田に意識を集中」って検索ワードでたどり着いた方がいらっしゃったようで。
それを辿ってったら「意守丹田」なる言葉に出会いまして。
クンバハカが腑に落ちてなかったら、これも全く感覚がわからなかったかも。
ていうか、現在進行形で呼吸についてあちらさんから仕込まれてる最中、こちらページも呼吸関連じゃん……誘導されてる!?
■いまここ:幸せと自信
おなじみすぎて紹介するまでもないかもしれんけどw
読んだのは、ponsunさんのブログのコメント欄に書き込ませていただいた後だったんです。
緊張があるからリラックスがある。リラックスが本来の状態で、リラックスしかないのであれば、リラックスという状態概念は存在しない。ってことで。
二元性なんですね。
(まあ、「リラックスが本来」という言い方もバッチリ二元性に基づいてるんですがここじゃそれは置いといてくださ。だって言葉は二元性でしか物事を表せないんだもん)
で、阿部さんがまさしく語っておられる通り、これは幸せについても言えて。
出典は何だったかな、
「天国への一番の近道は、地獄へ至る道を知ることだ」って言葉もあったような。
南北くんでも、
「不幸になる原因を取り除いたら、あとは幸せになる道しかないからな」って書いたばかりだったし。
要は幸せって、不幸でない状態、不幸であることをやめた状態、なんですね。
それが本来だから、本来幸せしかないのであれば、幸せという状態概念は以下略。
だから言うなれば、根本的な領域で幸せになる方法はたった一つ。
不幸であることをやめること。
「不幸とは、例外なく自分の意思で握り締めているもの」
という常識の裏にあるトリックに気づいて、
更にそれが真実であると受け入れない限り(要は煩悩で言う「疑」がある限り)、
人は死ぬまで悲劇の主人公を演じる舞台にハマりつづけるんでしょうね。
『「縁なき衆生」は、愛を以って放っておくべし』
こないだ、そんなことを言われた今日この頃。
前エントリで敦さんから頂いたコメントを読んで、
へーそんなチェーンメールあったんだー、って思ってたら、どうやら職場の同僚の携帯にも届いたそうですw
でも全くもって仰るとおりで、
確かに紛れもなくチェーンメールなんですが、節約倹約(ケチとは違う)自体に何らの不都合も憚りもないんですよね。
それに、確かにそのまま現地へ送電するには障害があっても、
電力を生むために消費するエネルギーを僅かでも減らすことにつなげられる可能性はあるわけですし。
そのエネルギーが備蓄となって、後々活きてくるって事態も絶対に起きないとは断言できませんから。
とにかく、犠牲こそあれ、一人一人が自分の意識を問う、絶好の機会でもあるのは確かだと思います。
それを活かすも殺すも、まさしく一人一人の心一つ、でしょうね。
まあ、チェーンメールを最初に出した人も、単純に善意のつもりだったのかもしれないですね。
もちろん本当にそうかどうかは知らないですけど。
しかし今時、チェーンメール程度でパンクするトラフィックやサーバーもそうそう無いでしょうし、
まあ、「気付き」のきっかけが一つ増えたくらいに考えれば穏やかに眺めていられるんじゃないかなと。
いや、きっと、「気付く」人達は確実に増えると思います。
シフォンさんやTerraさんも語られているとおり、証明しきれないとはいえ、祈りには力があります。
ちなみに、その「気付き」とは何か。
タイミングよく、黒斎さんがそのとても大きな一側面を表現してくれていましたので、そっちで。ありがとうございます。
さて。
今後は、今回の地震についてエントリ上では触れないことにします。
絶対とは言えないですが、極力。
その代わり、というわけではないですが、
啓発や啓蒙は他に様々な切り口で語って頂いている皆様方に任せて、たわしはひとつ、たわしなりの実践をしていきます。
どんな実践かって。
それは、有り体に言ってしまえば、引き寄せの法則。
具体的には、
「災害や苦難に意識をフォーカスし続ければ、災害や苦難を引き寄せる。
平常や安穏に意識をフォーカスし続ければ、平常や安穏を引き寄せる」
古今東西のあらゆるブッダは、例外なくそれを知っていました。
たわしが普段からテレビやラジオや新聞を見聞きしないのはそれに基づいた選択なんですが、
いつも以上に、それを見習ってみようと思います。
つまり、こんな時だからこそ、
見ている人が少しでも意識のフォーカスを平常へと向けていられるよう、平常なエントリを上げることにします。
ほんの僅かでも早く、ほんの僅かでも多くの人々に、
ほんの僅かでもホッとするという選択を持てる、
そんな平常が訪れる事を願って。
<私の、あるいは我が子のその病を根本から癒したいのなら、
まず本当に踏み出すべき第一歩は、
『その病が治らなければ、私は、あるいは我が子は幸せではない』
という、無自覚に握り締めている誤った観念を、手放すことだ。>
人間としてできること、味わえることが、仮に1000あるとします。
病によって、それが990に減っているかもしれない。
欠けてしまっている10を、人はしばしば嘆き、ぼやき、
10欠けているから不幸なのだと、その欠け分を取り戻そうと苦悶します。
だけど、それは、
『できることが990も残っている』
ということでもあります。
確かにできないことが10ある。
けれど、残った990へと心から目を向けさえすれば、
病であっても充分な幸せに恵まれていると、気付けるものです。
いいや、私の場合はできることが800、いやいやこの子は600なんだ、というかもしれない。
でも、それでも800、600もできることがあるんです。
手足が動く。
だから字も書けるし、歩きもできる。
五感が利く。
だからテレビも視聴できるし、花の香りも嗅げる。
そして何より、体がある。
だから、いずれ必ず去り逝くにもかかわらず、まだこの世の生を受けていられる。
それらも、990、800、ないし600の中の、立派な1です。
欠けている部分ばかりを主張していると、
今ある幸せを、見ているようで全く見ていない状態へといつの間にか陥ってしまいます。
今あるものに目を向け続ければ、今あるものが増えていく。
今ないものに目を向け続ければ、今ないものが増えていく。
病というものは、そういった『価値ある法則』に気付いてもらうために、
天が与えてくれるプレゼントなのかもしれません。
心配というものを、ただ不安がることだと思っている人のなんと多いことか。
大切な人のことを心に捕まえては、
「災難に遭いはしないか」
「気苦労を背負いはしないか」
「不幸になりはしないか」
「今、そうではない」悲観的な状況を、頭の中でクリエイトしてシミュレートして、わざわざ自分で自分を不安にする行為に事あるごとに耽る、そんな人のなんと多いことか。
それを美徳とし、道徳とする価値観を頑なに堅持している人の、なんと多いことか。
「心配」。
呼んで字のごとく、「心を配る」こと。
つまり、本当の心配とは「配慮」だ。
彼に「無事であってほしい」なら、
「災難に遭う」ことへの抵抗を意図するのではなく、「無事である」ことへの肯定を意図して配慮する。
彼女に「心安らかにいてほしい」なら、
「気苦労を背負う」ことへの抵抗を意図するのではなく、「心安らかにある」ことへの肯定を意図して配慮する。
わが子に「幸せであってほしい」なら、
「不幸になる」ことへの抵抗を意図するのではなく、「幸せである」ことへの肯定を意図して配慮する。
「配慮」として現れる「行為」、その内容がどちらの意図でも同じであってもちろん構わない。
ただ、その「行為」の根底・根源にある「あり方」がどちらにあるかで、実はまるで別物になる。
さて、どちらが大切な人にとって、そして何よりあなた自身にとって、「幸せ」だろうか?
そして、あなたの「大切な人」は、あなたが心配の名を騙る恐怖や不安に心を苛まれ、蝕まれるのを、はたして望むだろうか?
<心配するあなたの不安そうな表情を見れば、あるいは心配して書き送る言葉を目にすれば、相手の思考も望まない方向へ向く可能性はある。
誰かの役に立ちたいと思ったら、その人が望むとおりの姿で見てやることだ。そういう影響なら与えたいのじゃないか>
エスター・ヒックス+ジェリー・ヒックス「引き寄せの法則 エイブラハムとの対話」より
<悲観をその基盤とし、不幸と悲哀を善とするこの道徳……この善悪の価値表は、速やかに破り捨てなければならない>
ニーチェ「善悪の彼岸」より
2010/12/30 08:17