常に曖昧に。
<「自己」が幸せであると常に認識し続けていることが、
実は最も根本的に「他者」を幸せにする行為です。>
これ、実は今に至るたわしの根本理念。
元はといえば小林正観さんの教えの中からから頂いて、
他の方々の教えも交え吟味して、吟味して、吟味して、
それで心底納得して消化吸収して、身につけたもので。
とはいえ理屈の外にあるものだから、理屈で説明しろって言われても困るけど(ぇー
強いてたとえれば、
焚き火の周りには暖かさが満ちあふれ、更に近づけば勝手に火が燃え移る、
ってところかな。
ちなみにもう一つある基本理念がこれ。
<人は、他人を幸せにすることは決してできない>
ユウさんのブログでも時々言及されますけど、まさしく同意で、
かつその存在を知るずっと前から確信してたことなんです。
もちろん前後関係の証明なんてできやしまへんが。
てか、二つの理念を同時に書くと矛盾しているように見えるけど、自分の中では全く矛盾してません。
それを繋げるのは「幸せ」というものの「定義」。
言い換えれば、幸せの「正体」。
ちなみに英語の諺に、
「馬を水のみ場に連れて行くことできるが、馬に水を飲ませることはできない」
ってのがあるそうですね。
「正体」を見抜いている人なら、言ってる意味はたぶん伝わるはず……。
他者を幸せにしよう、幸せにしよう、と躍起になっている人を観察していると、
案外その、幸せの正体を掴んでいない人が多いように見受けられて。
なんというか、歯を食いしばって、必死の形相で、
「自分は苦しいけど他人を幸せにしよう」って。それナンカチガウ。
だからつい書いちゃったこんなエントリ。
そうそう、何となく話は飛びますが。
『今自分が見ている世界は、自分の固定化された主観が創っている』
っていう観点(要は五蘊皆空)から言えば、
とどのつまり、「救世」ってのはまず、
『自分を固定化された主観という牢獄から解き放つ』
ことから始めるのが筋ってもんかもしれないね。
「カルマ」から、「ダルマ」へと。
<人間の最大の罪は不機嫌である>
ゲーテ「ファウスト」より
快や不快の感情はウイルス以上に空気感染するんだぞー。
かつて、我慢によって自分という木を枯らした。
幹を縛りつけ、枝葉を全て覆い隠し、
天と地の滋養を拒んで、痛めつけ続け、
そうやって枯らし、殺した。
次に、我慢をしないことによって、新たな自分は芽吹いた。
嘘のように流れ込む栄養と恵みに驚きと感謝を捧げながら、
枝葉をとにかくただ、茂るに任せるがまま茂らせてきた。
省みれば、その生命力に酔いしれるあまり、
萌えるばかりの枝葉を剪定することを、
心の奥底で邪道と見ていた部分があったように思う。
これからは、その枝葉を整えていこう。
整えたい枝葉は、何構わず剪定していこう。
我慢することを自分に許そう。
両極を知った今ならできるはず。
我慢という枠も超えた、第三の道にだっていけるはず。
<子路曰く「南山に竹あり、揉めずして自ら直く、斬りてこれを用ふれば犀革に達す。これを以てこれを言へば、何の学ぶことかこれ有らん」
(※南山の竹は矯正せずとも真っ直ぐで、切って使えば厚い犀革も貫くという。天から才能を与えられた者は、何も学ぶ必要などないのでは?)
孔子曰く「括してこれに羽をつけ、鏃してこれを礪かば、その入ること亦深からずや」
(※その南山の竹に矢羽をつけ、鏃をつけて磨けば、犀革を貫く程度ではすむまい?)>
「孔子家語」より。
<あなたが何か物を欲しがっているとき、
あなたが本当に欲しがっているのは、
その物自体ではなく、その物を手に入れたときに味わえるあなたの感情です>
それが真実かどうか知りたければ、自分の本当の内面と真摯に対話してください。
でも、多くの人は、その行為すら難しいかもしれません。
なぜなら、多くの人は四六時中思考や心の内に様々な雑音(ノイズ)を垂れ流し続けているからです。
不安、恐れ、悲嘆、後悔、愚痴、悪口、不平不満、文句、泣き言、
そんなネガティブなものはもちろんですが、あるいは将来への希望や展望など一見ポジティブなものも、実はノイズである場合が多々あります。
なぜそれがノイズなのかは後で軽く触れますが、とにかくそんなノイズだらけの中では、自分の「本当の」内面からくる微細な「声」は、簡単にかき消されてしまいます。
でも、そんなノイズ、むしろ騒音エンドレス状態であることにさえ、気付いていない場合がほとんどです。
普段暮らしていて、冷蔵庫の動作音って気になります?
いつも鳴り続けているから、大抵は慣れてしまって気にすることすら思いつかないでしょ。
それで、ふと停電にでもなって、その音も消えたときに初めて、
「あ、こんなに静かだったんだ!」って、冷蔵庫からのノイズが「それまでずっと存在してたことに気付く」。
ちなみに、それに気付けるようになる、つまり「意図的に停電状態を発生させる」のが、いわゆる瞑想です。
瞑想と聞いて、結跏趺坐して印を組んで半眼で微動だにせずに~なんて堅苦しくイメージする人もいると思います。
でも、それは行為です。
瞑想は行為じゃありません。
今この瞬間に、心と意識が集中している「状態」のことです。
だから、別に座ってなくても、立っていても歩いていても運転してても台所で玉ねぎの皮を剥いていても、瞑想はできます。
その状態にある間、一切の例外なく、上で挙げた「ノイズ」の数々は、存在することができません。
なぜなら、それら「ノイズ」の全ては、「今この瞬間」ではなく「過去」や「未来」に心と意識がタイムスリップしている時にしか、発生しないからです。
それは「今この瞬間にしか実在しえない」自己の力を、「過去や未来という非実在」に注ぎ込んで捨ててしまうということ。とんでもないパワーロスを産む行為です。禅でいえば有漏地(うろじ)。
言い換えれば、瞑想とはそのパワーロス行為をやめること。要は、行為に対する「無行為」です。
……さて。最初に戻りましょ。
<あなたが何か物を欲しがっているとき、
あなたが本当に欲しがっているのは、
その物自体ではなく、その物を手に入れたときに味わえるあなたの感情です>
瞑想などを通じて自分の本当の内面の声に気付けたら、それが本当かどうかはわかります。
もちろん、物を欲しがることが悪いなんて言うつもりは毛頭ありません。
どんどん欲しがったっていいんです。それも自由で立派な一つの方法です。
伝えたいのは「『その物(外側)を得ることでしか、本当に欲しい感情(内側)を得ることは出来ない』という無意識の思い込み=固定観念に嵌っていませんか?」ということです。
もしそれを飲み込めたなら、物に依存しなくても楽しめるようになるきっかけが手に入ります。
依存しても楽しめるけど、依存しなくても楽しめる……つまり、選択肢がぐんと拡がります。
だって、感情にお金がかかりますか?
タダで本当に欲しい結果が手に入るなんて、お得だと思いません?
納得するも、バカバカしいと思うも、全ては自由です。