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幸せの青い鳥道

道は近きにあり 迷える人は それを遠くに求む



 

 幸せになる道なんてない。


 幸せこそが道なんです。





 と、リチャード・カールソンさんも言ってたよ、

 この本で↓
 小さいことにくよくよするな!―しょせん、すべては小さなこと (サンマーク文庫)

 

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とりとめない徒然な駄弁り

 まず私信。

 ドライブするのは構わないけれど、
 いいのかいほいほいついてきちまっておれはのんけでもかまわずくっちま以下略(ぇー



 いやーすんません、うたいしことの更新空いちゃって。
 仕事の都合と、ちょいと食に関するセルフ人体実験の度が過ぎて体調崩してましたww(ぇぇー

 その間ちょこちょこと変化とかあったんですがそれはまたぼちぼちとしまして。


 そんな隙(隙じゃねェよ)に、ユウさん新ブログ立ち上げたそうで。

 いやあ、読ませて頂きましたが、やっぱり清々しいと感じます。
 前にもどこかで書いた気はするんですが、
 これほどの内容をチャネリングで得てきたというのは、
 本当に素晴らしい感受力の持ち主だなぁとつくづく感服します。


 そういえば、というわけじゃないんですけど。
 もう長いことブログには登場してない、これ→ 川´ー`)について。


 ※今回いつもより特にかなり長い&くどい&意味不明&支離滅裂臭が激しいので、それでも一向に構わんっつー物好きな方だけ続きをどうぞ。

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未来へのこうかい

何事も、後回し先送りにせず、

特段の理由がない限り、

きりのいいところまで進めておけば、

後に心を残さずにすむ。



まさに、今、この今において、

ただやれることをやっておけば、

後という名前の、既に過ぎ去った今に、

心が取り残されずにすむ。



後に心を残す、というのはつまり、

未来の後悔であり、未来への後悔でもあるんだ。



未来への後悔をしている限り、

未来への航海なんて、とてもできやしない。



未来へと航海することは、

まさに今、この一瞬を更改することなんだから。

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"Now Here" is...?

 終わりはしない。始まってなどいないのだから。
 始まりはしない。終わったものなどないのだから。


 あまねく時間とは、永久であると人は言う。

 時間というものが存在するならば、
 それはいつか存在の始まったものであるがゆえに、いつか必ず終わる。
 しかし、永久に終わらぬものに、そもそも始まりはない。
 時間が永久なのは、それはそもそも、始まってなどいないがため。
 ゆえに、時間という実在は、存在しない。

 時間とはただの概念であり、
 無常に基づく万物の変化量を測る為の、ただの物差しであり、
 社会運営において人々が足並みを揃えやすいよう、
 円滑に営めるように編み出した決め事、無形の道具にすぎない。

 ゆえに、元来時間は人に対する従であり、
 また相対性理論も示すように、時間の流れは一定のものではない。

 つまり、時間とは絶対的存在ではない。
 あくまで無常という根源を表層的に把握するための、
 無限に続く相対という幻でしかない。

 ならば、その無限の幻たる時間すら内包して存在し続ける、
 「Now Here」とは一体、何だろうか。

 それは、始まりと終わりの二元性を超えた存在。
 有限と無限の対極性すらも意に介さない、存在。

 そも、存在という概念自体のない、
 それでも存在としか一語では表せない存在がただ、無にして在るだけ。

 「Now Here」は存在する。ゆえに、存在しない。
 「Now Here」は存在しない。ゆえに、存在する。

 どこにもなくて、どこにでもあるのだから。
 どこにでもあって、どこにもないのだから。

 Nowhere is "Now Here".
 "Now Here" is Nowhere.

 どちらの表現でもいい。
 どちらも正しく、どちらも正しくないのだから。

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道はない 通った後が 道になる

 先日阿部さんがブログで、耳を澄ませる瞑想法を紹介してましたが、実はこれ、たわしも以前からずっと実践してたことなんですよ。
 あとは、呼吸を集中して感じる方法とか。


 でもですね、先月下旬から末にかけて、精神的に大きな乱れがありまして。一週間ほど更新があいた直接的な原因はそれなんですが。

 ぶっちゃけ言ってしまえば、聴覚や呼吸集中による方法が、うまくいかなくなってたんですね。

 それまで平然と感じられていたのに、特にこと「声」に関しては、それに自動的に意味づけや判断・感想を弾き出してしまう自動思考が、とにかく収まらない。

 その結果なのかどうかはわかりませんが、連続する不安の状態と、ある一つの落胆する事態を引き寄せてしまいました。


 でも、その落胆の最中に、ふと見つけたたんですね。

 指先、掌、足の裏、それらの触覚に意識を集中させた方が、今の自分にとっては聴覚や呼吸よりも圧倒的に瞑想状態に入りやすい、と。


 もちろん現状、聴覚や、他にも嗅覚や視覚も活用・併用できますし、一応しています。
 そもそも、触覚への集中も以前から活用はしていたんですが……もしかすると、聴覚集中への固執みたいなものがいつのまにかできていたのかもしれないです。
 それを、ぶち破ってもらえた、みたいな。


 ちなみに、更に波動が高い状態なら、五感全て、全身の皮膚の触覚はもちろん、それ以上のものまで感じられる瞬間だってあります。
 その瞬間は、全てがいっぺんに流れ込んできて、意識ははっきりと覚醒してそれらを感覚していて、でもそれらに決して名前をつけることなんてないし、しようがない、そんな感じ。

 でも、足裏や掌だけ、あるいは聴覚だけといった一部集中の場合、そこまでには至らないんですね。きっかけや呼び水になることはあっても。
 それはたぶん、科学的に表現すると「脳波をベータ波からアルファ波にシフトする」形式であって、要するに、意識レベルの『底上げ』なんですね。脳波なんて測ったことないですけど。

 対してさっきのような「全てを感じる」ときは、おそらくデルタ波やシータ波になってるんじゃないかなーって気がします。
 そういう意味では、目覚めとか悟りとかってのも科学的にはベータ波以外の脳波状態のことと言えるのかもしれんです。よく知らんけど(ぇー



 で、昨夜のこと。
 久々に、湯船に浸かりながら軽くワインをひっかけたんですよ。

 そしたら、すんごい吐き気とか目眩とかでもう一晩中グロッキー。

 多分、軽い急性アル中みたいなもんだったのかな?
 何にしても今まで時々同じような事してもこんな状況になんてならなかったし、そもそもこの程度の酒量で酔っぱらうこと自体珍しいわけで、軽く焦ったりして思考がぐるぐる回ったり。

 あ、今日昼過ぎまで横になって既に快復してあるのでその点ご心配なく。


 ご存知の方はご存知の通り、思考ってやつは、
「この先どうなってしまうんだろう」
「あの時あんな事さえしなければ」
 と、過去や未来に意識のフォーカスを飛ばさせてしまうんですね。
 それで発生するのが、不安だとか恐れだとか。


 でも、ですよ。
 そんな時だからこそ、瞑想状態にある方がいいんです。


 で、そんな状態であるがゆえに、掌や足裏での集中がものすごく効果を発揮したんですよ。
 音や呼吸では、当時の自分ではたぶんそううまくはいかなかった気がします。

 そうして、しばらくいまここに意識を集中させていると、過去や未来に飛ぶ思考の渦の中では見えなかったことに気づき始めるんですね。

 たとえば、今日は仕事が休みで同僚に迷惑をかけずに済んだのは幸い、だとか。
 こうして肉体的な非常事態の時こそ瞑想にあるといい、という実体験としての教訓を得させてもらえたし、またこのような状態でも瞑想にあることができるのだと実際にわかったのが収穫、だとか。

 特に後者は、たわしが是とする「動中の静」の実践そのもの。
 もしかしたら、それを実感するために、この状態を引き寄せたのかもしれないなーなんて。

 とにかく、何かしら物事にはプラスに見ることのできる面があるわけで、それがにょきにょきっと、地面を割って生えてくるみたいに見えてくるんですね。瞑想状態に帰る癖をつけておくと。



 そんなわけで、とりとめなさすぎな文章になっちゃいましたが、結局なにが言いたいかっつーと、
 瞑想ってのは行為でなく状態のことで、その状態に至るための行為ってのは十人十色千差万別あって、自分に合ったやり方さえも時と場合と自分の在り様によっても変化するので、何もひとつの方法にこだわることないですよーってこと。
 むしろ固執しちゃうと、そこから瞑想とはかけ離れた方向にいっちゃうこともありますからね。体験者は語る(ぇー

 自由自在にいきましょ。

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