超個人的新着RSSリーダー

  • JavaScriptをONにすると、RSSリーダーが表示されます。


     

お知らせ

 ・オリジナル小説 『うたいしこと。』
  各章冒頭への直リンクはこちらからどうぞ。
   プロローグ/第1章/第2章/第3章/第4章


 ・『ストーリー・オブ・ウォーターフィールドサウスノース(水野南北物語)』
  各話への直リンクは以下からどうぞ。
   第1話/第2話/第3話/第4話/第5話/第6話/第7話/第8話/第9話
   第10話/第11話/第12話/第13話/第14話/第15話/第16話/第17話/第18話

記事一覧

めくります。

<人生を 楽しむ人は 観自在>

 今朝海にログインして、鬼絵さんとの話の中でふと、そんな一句が浮かびました。


 仕事、というか生業を遊び(あるいはゲーム)と捉えることができる人は、いろんなことを楽しみながら生きられます。
 そんなことはできない、そんな風には考えられない、とほとんどの人は言うかもしれません。

 本当は、人生に仕事も休みも存在しません。
 仕事と呼ぶものも休みと呼ぶものも、その全てが、「人生」です。

 ただ、人間の意識がそれを細かく切り取って、それぞれに仕事だ休みだと名札を貼り「定義」しているだけに過ぎません。
 「できない」という人は、単にその原則に気づいていないだけです。
 気づいていても、戯言や屁理屈と考えて認めていないだけです。
 別に批判や否定をしているわけでもなければ、そのつもりもありません。
 良いとか悪いとかの話ではなく、単にそうである、というだけです。

 もちろん、仕事と休みを分けて捉え、そのメリハリからやり甲斐を見出しているのなら、それはそれでとても素晴らしいと思います。

 でも、少なくとも自分の周りを見渡す限り、メリハリをつけているつもりであろうがなかろうが、大多数の人はそうであるようには見えません。

 その人たちにとっては、仕事は生活のために不本意ながらも従事しているもので、更には休みも結局のところ次の仕事のための骨休めに過ぎません。
 つまり無意識のうちに休みも仕事の内と捉えてしまい、結果休日にも息を抜ききれずにいるのです。
 それでは、いつまでも疲れっぱなしなのも当然です。


「観自在」とは、「観ること自在」。
 観音菩薩の別名である「観自在菩薩」の観自在です。

 それは、あらゆる固定観念なしに、「あるがままの物事」を観ることができるということ。

 観念とはつまり、「あるがままの物事」に対して人が意識の中で下す、「評価」や「定義」や「価値判断」です。
「これは仕事で、あれが休み」これも観念です。
 そして「その観念によって定義された価値こそが現実である」と、それが確固たるものであると無意識的に決め付けてしまうのが、「固定観念」です。
「この価値こそが当然である」という「固定化された観念」です。
「この物事にはこんな価値があるのが当然で、当たり前である」という観念を何度も何度も何度も頭の中で繰り返してきた(あるいはそういう情報に触れ続けてきた)結果、固定化されてしまったのです。


 固定観念は、大なり小なり、あからさまなものから一見そうは見えない巧妙なものまで、人間社会のあらゆるところに普遍的に存在しています。
 むしろ、人間社会の構造は現状、固定観念によって構築されているといっても過言ではありません。

 上で挙げた「大多数の人」はおそらく、この固定観念という「色眼鏡」を通して見た物事を、絶対的な現実だと思い込んで疑っていません。
 その思い込みが、「いつまでも疲れっぱなし」…ひいては、幸せでない(不幸な)状況を継続させています。

 逆に、「観自在」つまり色眼鏡を介さずあるがままに物事を見られる人は、同時にあらゆる観念=色眼鏡を自在に入れ替えて物事を見ることもできます。
 多くの人が「不幸だ」としか捉えない出来事を、観自在の人は「幸いだ」とも「幸でも不幸でもない、ただの出来事だ」とも自然に、自由に解釈することだってできるのです。
(もっとも、自分でも気づかないほど固定観念にどっぷりとらわれちゃってる人からすれば、「そんなことできるもんか」と思うかもしれませんが…)


 なら、「あるがままの物事」とは何なのか。

 それは、いかなる物事においても、それを「物事という枠組み」に捉えてある以上は存在します。
 とはいえ「定義の外にあるもの(禅でいうところの不立文字)」なゆえに、言葉によって「定義」してしまうと、矛盾しているようにも見えてしまいます。

 それでもあえて、上の「仕事と休み」で自分なりの回答例を出すなら…

 これも既に上で書いてますね。
 「人生」です。

 自分としては、しばしばこう考えています。
「人生というお仕事の余暇に、労働という趣味に従事している」
(言葉にすると前後の話と噛み合わない印象を受けるかもしれませんが、字面にとらわれず、裏に流れている感覚を汲み取ってもらえるとありがたいです)


 とにかく、繰り返しになりますが、いかなる物事も「あるがままに観る」ことは可能です。

 日々の生活の中でその原則を見出し、理解したとき、それまで「自分は幸せでない、不幸だ」と漠然と思っていた人は、その不幸は外部の物事によってもたらされていたもの(=自分が被害者)ではなく、不幸の原因を自分自身で後生大事に握り締め続けていた(=自分が加害者)であったことに気付けるかもしれません。

 というか、いつかの自分がまさにそうだったなぁ…と、ふと思い出したクリスマスの朝のひとときでした。
 全ての存在に、感謝。


 ちなみにタイトルはメリークリスマスの略だから!(台無しだー

  • この記事のURL
  • コメント(0)

  •  

Present=現在

<いまここに 在るそれだけで ありがとう
       この我が身さえ 自力にて在らず>


 根っ子の部分で理解するには、「肉体も心も『本当の自分・自分の本体』ではない(※)」ことを見破る必要があるけれど、そんな小難しいことは脇においといて。

 全てはおかげさま。
 

(※)ただし、心身はtrinity(=三位一体)の内の二柱となる重要な要素であり、軽視するものではありません。

  • この記事のURL
  • コメント(0)

  •  

思い出したもの

<私は宇宙の作用
 水の作用が波であり潮であり流れであり
 それら全てが水そのものであるように
 宇宙の作用である私は
 すなわち宇宙そのものである>


※「私」といっても自分のことだけじゃありません。
 「我々全員」「森羅万象」「万物」です。

  • この記事のURL
  • コメント(0)

  •  

備忘のための考察

 突然ですが、私には記憶力がありません。

 いやもちろんありますが低いです。
 ある種の知能テストでは、理解力・論理的考察力・判断力などの項目に混じって、記憶力の結果の棒グラフだけが全国平均よりもマイナス方向に限界突破しちゃうほどです。いやマジで。

 確かに、昨日の献立を思い出せないから連日同じメニューになっちゃったとか、今日の仕事内容を思い出せないから業務日報はおとぎ話とゴマカシだらけなんてことはいつものことです(ぇー
 けど反面、ふとしたきっかけで一月以上前の些細な出来事を思い出したりすることも、これまたよくあったりするのです。
 これはいったいどういうことかと。

続きを読む

suzumoku「週末」

CROSSFMのヘビーローテで初めて耳にしたこの曲。
何かを残すことを諦めたまま、自らの命を捨てようと考えた事のある人にとっては、リアリティと言うだけでは足りない程に胸を締め付ける、週末の黄昏を感じさせてくれる。
けど、そんな個々人の背景を抜きにしても、この歌詞が織り成す凄まじい情景力にただただ圧倒。

思うに「週末」と言うタイトルはおそらく「終末」とかけているんじゃないだろうか。
誰かに終末が訪れても、自身が終末を望んだとしても、それでも延々と続き繰り返されていく「週末」。

黒く消えた少年、真っ赤なギター。
それでも止まない少女の歌声と、どこにでもある人身事故のアナウンス。
気の利いた言葉は思いつかないけど、なんと見事な声と単色の世界だろうか。
素朴であるがゆえの強烈な存在感。オルタナティブフォークとはよく言ったものだ、と寒心しつつも感心する。


久々にアルバムを買ってみようと思う。