常に曖昧に。
昨日のアノ記事の直後、ありがとう仙人さんのブログのこのエントリが上がってたのを見て、
なんていうか胸の内にあったことを明快痛快に言葉に変換してくれてたのに驚きと感動っ。
ありがとう仙人さんは小林正観さんや中村天風師にも繋がってて、一方的にですがとても私淑してる方のお一人です。
うん、ありがとうございますです。
そんなこんなで今日の本題。
タイトルそのまんまで、今現在進行形でアルコールっとります(ぇー
ってかですね。
飲み会とかは別として、
たまに、たまーーーに、自主的に、自分ひとりで、集中的に酒を飲むことがあるんですよ。
まるで導かれるようにね、無性にね、そういう衝動が湧いてくる。
今日もそうで、職場帰りに祖父祖母の墓参りしたついでになぜか1.5lのペットボトルワインを迷いながらも買って、かぱっと。
すでに半分ほど胃袋へダイブ済み(ぇー
いや、それほどの量の飲酒は決して体にいいとは言えないですよ。
そこを承知しつつ、止めたい自分もいつつ、だけど、
川´ー`)「よい。許す」
そんな幻聴が聞こえるんですよwww
川´ー`)「なにが幻聴じゃ。悪い悪いと思いつつ呑む方が余程体に毒じゃ。毎日とか頻繁とかならともかく、稀のことじゃからの。おぬしが許さんでもわしが許す」
……ってな具合でw
そうして飲んでると、酔いの中で、自分の現在の――言うなれば「段階」が赤裸々になってくるんです。
いつからだったかな。
一人きりでひどく酒に酔うと、ありがとうという気持ちと言葉、そして嬉し涙ばかりが湧いて出るようになったのは。
昨日のエントリ書いて、それから他にも関連するいろいろなことを意識に引っ張り出してみて、
有言無言の人々の思いの糸に感を得て、その精妙な連なりと絡まりで胸の内に何かを織り綴られて。
縁。
夢。
愛。
今。
様々なものごとがそよ風のように、優しくも疾く訪れては流れ、また涙腺を刺激する。
そして、それら全てをまた、客観的に見つめている自分がいることも、認識している。
酔いてなお、それを認識できる。
それを認識できている意識を、更に認識している意識がいる。
それはつまり、
ああ、何だかんだ言っても、「目覚め」ているんだな、と。
そんな確証。
そうなんですよ。
黒斎さんも以前書いてましたが、
アルコールってのは、脳を強制的に興奮状態にもってくんです。
どんなにリラックスしてるように感じても、それは錯覚。
到底、酔った状態ではいわゆる「ワンネス」の感覚に入れなんてしません。
だけど、それでも、わかるんです。不思議なことに。
《「たとえ自分がどんな状態でも、それを感じられなくても、『全ては一つであり、今まさに自分も全てと一つである』ということを知っている」
ということを『知っている』》
……ってことを。
入れ子のように。
禅の世界では、酒の事を「般若湯」とも呼ぶそうで。
般若とは、悟りの智慧のこと。
まあ洒落のきいた呼び名ではありますが、こんな日はつくづく、その絶妙なネーミングに感服したりもします。
のんべぇの開き直りかもしれんけどww
そうしてふと浮かんだ言霊を。
迷うことすら楽しむ者に、迷いはない。
迷うことすら楽しむ時、迷いは味方となる。
ありがとうございます。
つーかこりゃ、明日は目が覚めたら頭痛いか重いかだろうなぁ。
でもそれすらも楽しみなたわしがいる。マゾめ(ぇー
おまけ:瞑想は遍在する
久々に頻繁に目にして気になる三桁数字が出てきたので、数字のメッセージを見ようと思ってgoogleで「エンジェルナンバー」って検索したら上から2番目に誕生日占いなるものが出てきたので興味本位でやってみたら、こんな結果。
「巫女」「ファジー」とかどんなシンクロ?とか、
「直感的に「答え」がわかりますが、「式」を論理的に説明できません。」とかまんまやん!とか、
なんか、ちょー思い当たるフシのオンパレードなんですが……( ̄д ̄;)
さて、今日のこの記事はいつもとちょっと(かなり)毛色が違います。
そもそも記事と呼べるかどうかも怪しい内容です。
半分が一昨日書いたもの。
それ以外も全く、視線とか姿勢とか、つきつめれば心理状態や波動的なものが一変した状態で一貫性皆無。文脈のつながりも皆無。
それをまるきり辻褄合せさえしないままに書きなぐって、さらにそれをほとんど修正しないまま……という、ある意味とってもネイティブな便所の落書き。
正直読まれるのも恥ずかしいって部分があるので、寛大で寛容な人だけ続きをうぐぅ(何
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この世に「私」はいない。
この世の全ては、「宇宙の現象」。
この手の、腕の、足の、心臓の、
この体くんの刻むあらゆる動作も、宇宙の現象。
この視覚の、聴覚の、心の、感情の、
この心くんの感じるあらゆる情報も、宇宙の現象。
「私」は、ただそれを観察するのみ。
この世ではない、少なくとも物質ではないどこかから。
そして、いつだって、
この世では体くんと心くんが、勝手にお仕事してくれている。
香ばしい米の香りにホッとしてくれて、
しっかりと箸と茶碗を持ってくれて、
美味しく噛み締めた食べ物を消化吸収してくれて、
肺も心臓も血流も、年がら年中動き続けてくれて。
ほとんどの人が、体くんや心くんこそが「私」だと思い込んでる。
けど、本当はそうじゃないことを、「私」は知っている。
ただ、それを忘れているだけ。
昔は、体くんや心くんに、ああしろこうしろと命令してばかりいた。
それどころか、「私」の力で体くんや心くんを完全に動かして、生かして、成り立たせているのだと思い上がっていた。
だけど、他人が自分の思いどおりに動くことはほとんどないのと同じ。
「私」ではない体くんや心くんは、必ずしも命令どおりに動いてくれるわけじゃない。
内臓ひとつ、神経ひとつ、呼吸ひとつ、「私」の力じゃ働かない。
腕一本、指一本、どんなに命令しても動かないときは動かせない。
心だって、思考だって、「私」を離れて勝手に暴走するなんてのも珍しくない。
そんな単純なことも理解せず、「私」は体くんや心くんに罵声を浴びせ、鞭をうち、痛めつけてしまっていた。
そんなんじゃ、体くんや心くんだって、厭にもなるよね。
今はもう、ただ見守るだけ、観察するだけの方が多くなった。
せいぜい、「できればここはこうしてくれたらありがたいな」と、ちょっとだけお願いするくらい。
ああしろこうしろと、下手に「私」がこと細かく口出しするより、
体くんと心くんが自主的に動いてくれた方がよほどいい仕事してくれるから。
ありがとう。ありがとう。
……え?
じゃあ、「私」ってのは一体何だって?
そんなの説明できるわけないじゃん。
説明したくないんじゃなくて、説明不能。明示不能。
だって、知りようがないから。
「私について」を知ることはできても、「私」を知ることはできなさそうだから。
この世の理屈で表せる形では、ね。
でも、そうだねぇ。それでも強いて言えば。
想像してみて。
今の自分から視覚を除いて、聴覚を除いて、触覚嗅覚味覚その他全身体感覚を除いて、
思考を除いて、感情を除いて、信念も衝動も反射も何もかも、完全に除いて除ききって、
そうして残ったものが、『私』だよ。
<私は、私が何も知らないことを知っている>
ソクラテス
個人的に、
「私は、私が『私を』何も知らないことを知っている」
とした方が、一般的に言われる『無知の知』より根本的な意味に近いと思うんだ。
「私を知る」のと「私について知る」のとは全く違う、ってのを踏まえた上でだけど。
「♪その日は朝から夜だった」
で始まるあの歌ありますよね。
曲名もそのまんまですが。
実は、かの嘉門達夫たんの歌だって今日始めて知ったってのはまあ内緒として(ぇー
あれ、ほんとすごいなーと最近になってつくづく思うんですわ。
だって、歌詞の内容が固定観念無視、
つきぬけてあるがままなんだもんw
たとえば、いきなりの「♪その日は朝から夜だった」
たわし普段午前3時か4時には起きて活動開始するんですけど、
当然空は真っ暗なわけですよ。
これ、朝なん? 夜なん?
まさしく朝から夜だった状態なわけで、
それって要するに、朝も夜も明確に分けられるもんでもなく、
朝でもあり夜でもある?
朝でもなく夜でもない?
まあ、どっちでもいいじゃん。今日も一日はじまるよー!
って具合でw
ほかにも、
「♪だけどウグイスパンにはウグイス入ってない」とか。
これほんと、そのまんまだよねw
で、これを聞いて「ホントだウグイス入ってねーじゃんべ、けしからん」
みたいな否定をサッとはさむ人っているんと思うんですよ。
だけど歌の中じゃ、ウグイスパンにウグイス入ってないのが悪いなんてひとことも言ってないw
あともう一つ挙げると、
「♪地球の上に朝が来る
ね・うし・とら・う・ねこ・パンダ・カメレオン」
いやほら、なんとなく当たり前のように思ってる人がごろごろいますけど、十二支が子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥でなきゃいけない必然性なんて、実はどこにもないんですよw
12個でなくちゃいけない理由もないしw
もうね。
こんなふうに、徹頭徹尾投げっぱなしジャーマンなんです(ぇー
昔初めて聞いたときは、ただただナンセンスでお笑いなだけの歌かと思ってたですよ? 正直。
でもこうして今の段階で改めて聞いてみると、いろんなものが見えてくるもんですね。
こうでなければならない、ああでなければならない、
そんな観念を握り締めてたなら、こんな曲を産み出す事なんてそもそもできやしないと思いますわほんと。
まあ、とにかく面白い良い歌ですw
聞いたことない人はぜひ。
ナスがママならこの世は天国。