常に曖昧に。
サメが強いわけでもなく
「わたし」が弱いわけでもなく
サメが冷たく薄情なわけでもなく
「わたし」が儚く温厚なわけでもなく
サメが立派で人情味がないわけでもなく
「わたし」が哀れで情緒豊かなわけでもなく
サメが鋭い牙もつ加害者なわけでもなく
「わたし」が柔い肌もつ被害者なわけでもなく
どちらも強くて、どちらも弱い。
どちらも加害者で、どちらも被害者。
どちらも強くなんかなくて、どちらも弱くなんかない。
どちらも加害者ではなく、どちらも被害者でもない。
それを呑み込めた人から、
傷つくことも、傷つけられることも、
だんだん少なくなってくる不思議。
けどそれを呑み込めていなくたって、
誰一人、絶対に漏れることなく、
現実を生きて、生きて、生き抜いて、生き倒し、生き通す力は、
完全に備わってるよ。
ただし、ひとつだけ要注意。
加害者面するのも、被害者面するのも、
やってることはどちらも同じ。
“自分を生きる力”を放棄しちゃうことだから気をつけて。
神頼みというのは、
体を頼むことでもあり、
心を頼むことでもあり、
気を頼むことでもあり、
力を頼むことでもあり、
技を頼むことでもあり、
芸を頼むことでもあり、
水を頼むことでもあり、
風を頼むことでもあり、
光を頼むことでもあり、
天を頼むことでもあり、
地を頼むことでもあり、
闇を頼むことでもあり、
無を頼むことでもあり、
有を頼むことでもあり、
自を頼むことでもあり、
他を頼むことでもあり、
何ものにも頼むことでもあり、
何ものをも頼まぬことでもあり、
全てが神であると知り、
全ての流れを信頼することである。
たとえば、
ちょっと物をぽろっと床に取り落としちゃったりしたときに、
普段何気なくやれてるはずの仕事がうまくいかないときに、
「ああもう、ちくしょう!」
とか思ったり言ったりしながらリカバーする、
ってなことが、いつの間にか全然なくなっちゃってるのよね。
その分、本当に自分に残ってる
「心の中で握り締めてるもの」
が、はっきりと際立って見えるようになっているのだけれど。
たとえば、
渋滞に巻き込まれたりしたときに、
ラッシュアワーの満員電車に直面したときに、
「なんでこんなに混んでるんだ!」
とか愚痴ったりイライラしたりして仕方なくなる、
ってなことが、いつの間にか全然なくなっちゃってるのよね。
その分、周りの人が抱えてる、
「思い通りにならない現実への苛立ち」
が、じっくりと観察できるようにもなっているのだけれど。
たとえば、
「今、心地よく居るか」それとも「心地よくなく居るか」、
そんな、自分の反応というものは、
大勢が信じるように、本当に自分では選べないのだとしたら。
自分に、自分の反応を選択する力が本当にないのだとしたら。
宇宙が、自分を創り出した必要性なんて、ないのだとおもう。
そういえば今日は111111だったんですねw
なのでせっかくだから、今日はまあ色々と節操も出し惜しみもなく更新しますかー。
てなわけで。
KINGGOLFが月刊に移籍しちゃって(´・ω・`)な中、
たわしが当初からお気に入りな週刊少年サンデーの連載の一つでござる。
どんな内容なのかはこちらとかこちらで。
……にしても以前のARAGOといいこれといい、
たわしが好きなタイトルは大概巻末が定位置になるのはまあさておき(ぇー
熱いです。このマンガ。
漢(おとこ)です。
何より、今を精一杯生きる人々の輝きが、随所に出てきます。
あれこれ語るより実際見てもらった方が早いので、
まあちょっとアレですが、写真あげ。
↓雑賀の里で病に倒れたミシェルのため、
めったに釣れない幻の魚を食べてもらうべく海に出た孫一(船が苦手)達、雑賀衆。
それを待つお澄とミシェルの会話。
↓世に言う金ヶ崎撤退戦にて、
追撃する朝倉軍に対し、それを防ぐ殿軍(しんがり)を務める木下藤吉郎隊。
その中で瀕死の重傷を負いつつも奮戦する弥助の、ミシェルとの回想。
いや、なんかですね。
ここ最近、こういったマンガからも、とてつもない数のシンクロを頂いてるんですよ。
その時に「天から頂いた見えない課題」とでも呼べるべきものを、これでもかと指し示して自覚させるかのように。
何度だって言いますよ。
神は手段を選びませんからね?
……ところで。
弥助は信長に仕えた黒人として、
通説上は本能寺の変の後も生き延びたとされてるんですよねぇ……(何
「老いる」ということは、
経年で肉体が衰えることだと思っている人がほとんどの気がします。
が、実はそうではないと思うのです。
『「自分」とは、
毎瞬毎瞬、新しく生まれ変わり続けている存在であり、
常に学び成長できる能力を有する存在であり、
ゆえに、最期まで学習し、挑戦し、進化し続けるし、
その姿勢と行動とを、続けていく』
ということを忘れ、あるいは気づかずに、
放棄し、やめてしまうこと、
つまり変化を拒絶してしまうことを指すのではないでしょうか。
諸行無常。
つまり変化とは絶対に避けられないものなのに、
嫌だ嫌だと抗って、変化を避けようとする。
その矛盾、コンフリクトこそが、
老いというものの正体なんじゃないしょうか。
老も若も、本当はないわけで。
齢百歳の若者がいたって良いわけで。