常に曖昧に。
※今日の記事は、こと女性、特に母親の皆さんにはひどく顰蹙をかうかもしれません。
けど、敢えて書きます。
昨日地元の公共施設の飲食コーナーで、母親が息子にある言葉を連呼していたのを見たことで湧いたインスピレーションだったので。
《母親とは、人類史上最も偉大な存在であり、
同時に、人類史上最も罪深い存在でもある。
なぜなら、彼女たちによって数多の素晴らしい子供達が誕生したとともに、
また彼女たちによって、
数多の素晴らしい子供達の才能の芽が摘み取られてきたからだ。》
母親が、特に幼い我が子(この『我が』という冠詞自体が元来エゴだがそれは置いて)に対して、
頻繁にぶつける、『四文字の「四い」』がある。
「あぶない」
「きたない」
「うるさい」
「~しなさい」
この四つ。
「あぶない」は、本当に危ない場面であれば、それはもう使うべきだ。
だが、本当に危ない場面で使うケースは、事実滅多にない。
ひどい場合になると(といっても頻繁に見かけるが)、子供が周りに障害も何もない平坦路を数メートルただ走った、それだけでもう過敏な煙感知器のように「あぶない」と連呼する始末だ。
そんな風に「あぶない」と言われ続けた子供は、本来なら問題にもならない軽微なリスクにも、二の足を踏むようになる。
また、危なくないものを危ないと言い続ければ、『逆』狼少年現象が起きることもある。
子供が幼いうちはまだ押さえつけられても、ある程度成長して自我が強まってから、真に「危ない」時に警告が通じなくなることがあるのだ。
「きたない」とは、子供の行為(例えば地べたに座る、素手で地面に触れる、食物や食器以外の何かを舐めたり口にくわえる、など)に対して言っているつもりだろう。
が、それは同時に「あなたは汚い存在だ」と子供にメッセージを送っていることに気づいていない。
子供たちは、ただあるがままに万物を見つめ、あるがままに興味を示しているだけであって、また「興味の対象」と「自己」との境界分離観念が大人ほど強くこびりついていない。
だから、「興味の対象」に「きたない」と言ったつもりでも、子どもたちにとってそれは「自己」がきたないと言われたのと同義なのだ。
「うるさい」、「~しなさい」は言うまでもない。
前者は「否定」「断罪」、後者は「命令」という差異はあるが、
どちらも根っこにあるのは「強制」「強要」「支配」だ。
どんなに躾という大義名分を用いようが、事実としてそれは大なり小なり子供の人格尊厳を無視した行為であり、子供の頭を力で押さえつける言葉の(あるいは『気』の)暴力であり、また、躾を隠れ蓑にした言う側のエゴ的感情に基づいて発せられる場合すら多々ある(用いる当人はほぼ絶対に認めたがらないが)。
どれも、もっと違う言い方があるはずだ。
たとえば、「きたない」を例にすれば。
家に帰ったきり手洗いしていない子供に対し、
「手が汚い」と言うか、
「手にお外のばいきんがついてるから、きれいに洗おうね」というか、
その差は考えてみればわかるだろう。
前者は子供の手、ひいては子供自身が汚いのだと受けとれるが、
後者はあくまで、汚いのは子供ではく、お外のばいきんだと伝えているのだから。
そしてどれも、子供の才能や意欲、自尊心を確実に刈り取っていく。
たとえば過剰に「あぶない」と言い続ければ、僅かでも「あぶない」状況を恐れるような性質を子供に日々せっせと刷り込む。
そうでありながら、「大志を抱こう」「夢を実現しよう」などと焚きつけるのは二律背反、あるいはブレーキをかけながらアクセルを踏ませるのと変わらない。
しかしながら、これらの言葉を呼吸するように投げつける親ほど、
我が子の栄達と繁栄をより強く求めている、という滑稽な矛盾が、
あくまでも全体的な傾向として、世間に蔓延っているのではないか、
と、前からしばしば感じていたと気づいた市立図書館の昼下がり。
もっとも、単なる自分の固定観念かもしれないけどね。
ところで。
「四い」は、示威・恣意・私意(=エゴ)とも読めるね。
斜めアングルで見にくくてもうしわけなす。
写真は福岡県警の募集ポスターなんですが……、
わ、ほんとだよく考えたら全部心が入ってる!
そいえば黒斎さんも、
「『羨む』とは『心病む』」
って言ってましたね。
「心」って辞書引くと、確かに「うら」という読み方も載ってまして。
表のツラ(表面)に対して、裏側のココロ、と。
表裏一体。
つまり心は、現われるんですねぇ。
てなわけで更新滞っとりますが、
ちょっち今いろいろと内面的な変化が生活行動にも大きく影響を及ぼし始めてるようでして、
その虚実を掴み見極めるのに、心身両面でかなりのリソースを割いてる状態でござまする。
時々川´ー`)やら( ^-^)やらとも膝突き合わせて(ぇー
再起動までもちっとお待ちをm(_ _)m
Terraさんも入り込んでるのと同様に、たわしも何やら変革の時期みたい。
(08:15追記)
と、このエントリアップした直後に万年素人さんのブログ見たら、
>従来の行動と同じ行動をとっていては進歩はせん。
>もっともっと手放せ。
>おぬしは大丈夫じゃ。わしが保障する。
ちょ、たわしにも全く同じこと伝えられてて、
しかもまさにそれを具体的な実行に移してる最中なんですがっΣ( ̄д ̄;)
河馬は動物園に行けばいると思う。(何
忙しいって字は心を亡くすって書く、ってよく言うけどね。
でも、心をなくすってどういうことだろうね。
それはね、観念にとらわれて心の自由を失う、ってことだよ。
「忙しい」って定義したその状況が、
はたして実は、本当に本質的に「忙しい」のかな?
後付けでしかない、
その「忙しい」という定義・意味付け・評価そのものを、
本質だと誤解したままじゃないのかな?
要はね、
「ああ、この状況が、忙しいという状況なんだ」
という解釈以外の解釈が、できなくなっているってこと。
「状況=忙しい」って観念にとらわれて、
「状況=楽しい」とも、「状況=充実した」とも、「状況=腕がなる」とも、
「=ワクワクする」とも「=気合が入る」とも「=いっそ気持ちいい」とも、
どうとでも把握できるはずの心の自由を、なくしているってこと。
そう指摘されると、
「ううんそんなことないよ? 忙しいけど、楽しかったりもするよ?」
って言うけど、いや、本当にそうなら別にいいんだけどさ。
よーく自問自答してみると、気付く場合があるの。
「楽しい」って意味付けができているのは、実は指摘したその時だけ、って事に。
というか、気付けるならまだ救いがあるから幸い。
全く気付かないで、
もしかすると気付いてるけど目を逸らし続けてるのかもしれないけど、
「状況」の内にいる真っ最中は、
もう無意識的反射的被害者的に「忙しい忙しい」としか思っていないって人、多いよ?
実際そんな人は、何をおいても「忙しい忙しい」とばかり、
呼吸するように口に出すから、すぐわかる。
そして、実はそんな人の方が世間じゃ圧倒的に多数だ、ってことも、
心を空にして観察していれば、すぐわかる。
ちなみに「状況=忙しい」なんて、実は全然、式として成立しない。
一番根っ子の部分で、成立する式は本来、ただひとつ。
「状況=状況」、それのみだよ。
いやもちろん、イコールの右側に何を当てはめてもいいんだよ。
「忙しい」でも「楽しい」でも「気持ちいい」でも、どれを当てはめたって。
ただ、「それしか当てはまらない」のだと「勘違いしている」「縛り付けている」から、
「心の自由」を、あるいは「自由な心」を「亡くして」、「忙しい」んだ。
ま、だから。
他人に向かってなにかと「大変ね、忙しいのねぇ」って言うのも、
「相手が相手自身を実はどう思っていようが、『大変だ』という色眼鏡でしか相手を見ることができていない」
って場合が案外多いから、心当たりのある人は要注意。
もちろんその時、
本当に「忙しい(心の自由がない)」のは、
相手じゃなくて、言ってる当人だね。
なんて事をのたまいつつ、実は、
『「状況=状況」しか当てはまらないんだらよ絶対!』
ってふりかざすのも、しれっと「忙しい」の仲間なんだけどね。
おまけ:ものの見方と見方道
「幸せだな」のしきい値。
「大変だー」のしきい値。
「楽しいぜ」のしきい値。
「悲しいよ」のしきい値。
「嬉しいぞ」のしきい値。
「許せない」のしきい値。
そんな「しきい」は、どこで決まるのかな?
一生かけても使い切れない程の大金が入ったとか。
そのお金を騙されて根こそぎ持っていかれたとか。
誰もが羨むような絶世の美男美女と結ばれたとか。
その相手に尽くした挙句こっぴどくフラレたとか。
あなたが手にした、目にした、耳にした、経験した、
そんなあなた以外の何かが決めるのかな?
いやいや。
「しきい」は「意識」で決まるのね。
あなたの「いしき」が決めるのね。
前回のエントリの「悟っている」への反響が予想外だったのでw
ちょっと今回は臨時&即興でエントリ立ててみました。
ま、たわしのスタンス・解釈はこんな感じ、って程度で受け止めてもらえれば幸い。
あ、そうそうその前に。
前回のエントリを上げた後、ユウさん、そしていい気分.comのユキさんが、
(少なくとも個人的に)前回と密接に関連する内容のエントリを上げておられたことに気付きました。
よろしければ、ぜひ目を通してみてください。
キーワードは「私を知る」「自分に還る」「統合」。
では、本題。
~・~・~・~・~・~
言葉、とりわけ名詞には、それが持つ意味に無数のレイヤーがあります。
「愛」は、時にただの感情のことであったり、時に無償の奉仕のことであったり。
「神」は、時に崇拝対象としての偶像のことであったり、時に絶対権力者的な存在のことであったり。
「悟り」も、時に日常の細やかな気付きのことであったり、時にいわゆる無我の境地などのことであったり。
その解釈によって、同じ単語でも意味する本質は十人十色千差万別、加えて臨機応変です。
でも、究極的なレイヤー(レイヤーという表現も語弊はあるけど敢えて)においては、
「愛」「神」「悟り」……他にも「仏」とか「宇宙」とか「真理」とか色々ありますが、
それら全て、一切のズレなく同じものを指しています。
それが何なのかは、あまがっぱさんのコメントが非常に良い示唆を含んでいるので、そちらを解釈していただくとして。
「悟っている人は、存在しない」
よく言われるこの言葉は、紛れもなく究極的な真理を示しています。
「究極的な意味での悟り」に至ると、「自分」というものが存在していなかったことに気付きます。
「自分」が存在していないのであれば、「悟った人」も当然存在していないのですから。
(だから2行上の文章も、本来的確な表現ではありません。自分がいないのに誰が気付くのか?)
「悟っている人は、存在しない」
でも同時に、言葉である以上、これは真理そのものではありません。
以前ありがとう仙人さんのブログから引用させていただいた言葉を再度借りれば、
『言葉はすべて二元的だ。反対の言葉がなければ、言葉を持つことは出来ない』んです。
ありがとう仙人さんは続けて、
「言葉にした以上、必ず、反対の説明が成り立つのです。」
とも語られました。(これはもう、自分的に完璧に納得と同意があるので、やっぱりそのまま引用)
究極的なレイヤーにある「それ」そのものを、明確に言葉で表現することはできません。絶対に。
なぜなら、「それ」は言葉という概念の外にあり、また言葉ともゼロ距離にあるものだから。
言葉は、言葉の示せる範囲の外側にも、また言葉それ自身にも、手が届かないんです。
「言葉」を、「理屈」や「思考」に置き換えても同じ。
ちょっと変な例えに思うかもしれませんが。
たとえば、白くて固くて表面に無数の窪みがあって丸い物体があるとして、
「それは白い」
「いやそれは固い」
「いやその表面には無数の窪みがある」
「いやそれは丸い」
と個々のエッセンスを指差すことはできても、
「それはゴルフボールだ」
と一発で言い表すことは、ゴルフボールでは可能でも、「それ」の場合は不可能です。
「群盲象を評す」という成句そのままです。
だけど逆に、言葉が真理を指し示す方向指示器になるのも事実です。
「悟っている人は存在しない」
「悟りではない人も存在しない」
「誰もが始めから悟っている」
方向指示器として、てんでバラバラの方向を指している上記の言葉、
これら全部、同じ意味です。
そして、これらが指す「悟り」とは、全て究極的なレイヤーに属します。
示す先にあるものは同じでも、各方向指示器の「立ち位置」「現在座標」「立脚点」が違うから、
同じ「悟り」を示していても、全然別の「方角」を向くことになるんです。
ある場所に置けば正しい方向を示す方向指示器も、別のある場所に置けば見当違いの方向を示します。
『体験を持ち運ぶな』『月指す指は切り捨てよ』とは、それを戒めた言葉です。
そもそも、原理的に『言葉は「それ」たりえない』と同時に、
究極的には『言葉も「それ」でできている』んです。
これこそがまさに、言葉の持つ二元性というものです。
一方、前回のエントリで川´ー`)が告げた「悟っている」とは、
『究極的なレイヤーに属する意味では(必ずしも)ありません』。
直後に使われた「預流果」。仏教用語です。
これが含まれる、悟りに至る段階を表した「四向四果」には、さらにその上として、
「一来向」→「一来果」→「不還向」→「不還果」→「阿羅漢向」→「阿羅漢果」と6つもあります。
ちなみに「預流果」の前が「預流向」。
更に阿羅漢の上には、須弥山という(いわゆる)悟りを開いた者達が住む山があるとされ、
その中には更に、このような階層があります。
如来(知恵と慈悲を持っている。大日如来、阿弥陀如来など)
↑
菩薩(慈悲を持っている。観世音菩薩、地蔵菩薩など)
↑
明王(魔を調伏する力を持っている。不動明王、愛染明王など)
↑
天(一芸に秀でている。弁財天、帝釈天など)
つまり、手っ取り早くこの構造を用いて説明すれば、
「預流果」の段階では、「究極的な意味での悟り」を得て(自覚して)はいないんです。
「それ」が何なのか、には一応気付いていますが。
(余談ですが、この概念でいくと、
「一芸に精魂込めて注力し、またそれに秀でている人は、「天」として悟っている」わけです。
たわしもこれは、本当のことだと思います。
武道、スポーツ、手工芸、芸術芸能、家事、商売、何だっていいんです。
無心に打ち込むのは、それだけである意味立派な一つの「悟り」です。)
ご覧の通り、現状たわしは「リセット」あるいは「ループ」しています。
内面的に、ゼロからとは言えないけれど、1からのスタートを切りました。
実際そうなのかは説明も証明もできないけど、なんとなくそんなつもり(ぇー
だから、かつて「気付き」に変わったはずの過ち、「無明」にも、
泥水にヘッドスライディングするように再び遠慮なく飛び込んでます。
たとえば、
>でも、これはかつてあれだけ強い自覚と認識があったことなのに、
>なんで思い出し直すような状況を作らなきゃいけないのさ。
前回冒頭でこう書いた、これまさしく、現在の否定と過去への執着です。
どういうことか、というとつまり。
今のたわしは、「今この瞬間」への安住から敢えて(無意識に?)離れ、
一旦脱ぎ捨てた「気付き」の意図的な再発見・再認識と、それに基づく「在り方」のリビルド、
大仰に言えば生まれ変わりの最中にいます。
……いや、実際は言葉でいうほどカッコよくはないですよ?ww
だから、究極的にも、表層的・あるいは中間的なレイヤーに属する「意味」にも、
遠慮なく「解釈(誤解)しうる」言葉を使っています。ユーザーフレンドリーそっちのけ。
阿部さんの言葉をそのまま借りると、
「真実は、理解の段階によって変化します。」
あの「悟っている」は、
その段階を、誤解の恐れは承知の上で、意図的に「落として」表現したものでもあるんです。
ものすごくお節介な忠告なんですが、
特にこと精神世界系のブログなどでは、この「語り手」が意図する「段階」「レイヤー」を読み違えると、
その語らんとする意味が全く伝わらないばかりか、見当違いの方向に矢印の向いた案内板と同じく、迷走を誘発します。
それが悪いことかどうかは別問題として。
コトノハさんや敦さんが自評する「悟ってない」とは、
おそらくこの「究極的ではない」レイヤーを指していると思います。
そのレイヤーに「悟り」の意味を置いて言えば、
正直言うと、たわしもうずらさん同様、どおでもええ派ですw
そして同時に、「究極的なレイヤー」に意味を置くと、
あまがっぱさんのコメントそのまんまで、
>「そりゃ…旦那、無理な話ですぜ」
となるわけです。全くの大正解。
だから、同じ「悟り」「愛」「神」という単語でも、
使い手が意図するレイヤーが違えば、話が全くかみ合いません。
当然この場合、仮に討論したって不毛です。前提から噛みあってないんだもの。
宗教戦争の発生原理ってまさにここなんだよね、とミサカはミサカはちょっとぼやいてみたり。(誰だ
えっと、そんなわけで。
個人的かつ「一面的な」結論を申しあげますとですね。
↑これ重要
「悟っている人・いない人はいたりいなかったりするけれど、究極的にはみんな悟りそのものだよー」
はい、んじゃみんな、風呂入れる人は気持ちよく風呂入って、
そうじゃない人もごろんと横になってぐっすり寝よー!w
(_ _ )
ヽノ) おやすみなさい
ll
⊂ ⊂ヽ、 /)/)
c、 `っ( ヽ
( v)c、 `っ
V''V ( v) / ̄`⊃
V''V | ⊃
( v) ハ,,ハ
V''V (・ω・ )
⊂⊂ ヽ
> )
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