常に曖昧に。
今日は厚着したわたしを見て、「寒そうね」なんていう人が何人かいた。
それって、とんだ見当違い、考え違いでね。
気遣いはありがたいけど、何も事実を見ちゃいない。
わたしは厚着させて頂いているから、あったかいし、寒くないの。
そういうことを言ってくる人は揃いも揃って、寒い寒い、嫌だ嫌だと愚痴ばかりこぼしてる。
それって、とんだ苦痛自慢、不幸自慢でね。
気持ちはわからなくもないけど、誰も幸せにしやしない。
わたしは幸いなことに、厚着できるだけの服も皆のお陰で持たせて頂いている、幸せ者なの。
てなことをやんわり答えたら答えたで、
手が冷たい、足先が冷たい、だから寒いものは寒い、そんな風に返ってくる。
それこそ、本当はとんだ心得違いでね。
いや、冷たいものは冷たいってのは別にいいのよ。
そこじゃなくて、手が冷たい、足先が冷たいって、要は部分的な感覚刺激を、
総身全てがもれなく冷たくて凍えて寒くてどうしようもないと勘違いしてやいないかい?
ってこと。
山奥やシベリアや南極ならいざしらず、
この日本の都会でそれなりの防寒着を宇宙に着させて頂いときながら、
胴やら腰やらの温かさには目もくれず、手足が冷えることばかりに文句を言う。
冷たい部分ばかりに関心を寄せて、暖かい部分には意識を向けてない。
せっかく温もりを得てるのに、冷たいばっかりクローズアップした挙句、文句が出る。
手足が冷たいイコール寒い、と自動的に判断することが絶対的に正しいことだと、
勘違いを勘違いと思わないまま勘違いしているから、文句になる。
これってそのまんま、幸と不幸・運と不運にも当てはまるんだよね。
「冷たい」は現象。
「寒い」は価値判断。
今日は陽光の中で雪が舞い散る、美しく幻想的な空間を歩きながら堪能。
無限の恵みに、ありがとうございます。
<運命は、我々に幸も不幸も与えない。ただその素材を提供するだけだ。
それを、我々よりも強い我々の心が好きなように変えたり、用いたりする。
我々の心がそれを幸にも不幸にもする唯一の原因であり、支配者なのである。>
モンテーニュ「エセー」より。
人生の99%は、何の疑いようもなくうまくいってるんだよ。
残り1%も、うまくいってないように見えて、うまくいってるんだよ。
1%を無理矢理100%に粉飾して不幸自慢するくらいなら、
99%を四捨五入して幸福自慢してみなよ。そっちのが楽よ。
「この人の、こんな所が好き」
と言ってはばからない人の中には、
「この人」が「こんな所」にそぐわない部分を見せると、途端に眉をひそめる人もいる。
「この人」が自己を表現するのに「どんな所」を見せたって、自由なのにね。
結局、眉をひそめる人が好きなのは、
「この人のこんな所」でも「こんな所のあるこの人」でもなくて、
「こんな所こそがこの人だ」と言わんばかりに『あるがままの「この人」』を覆い歪めてしまう、
自分の「色眼鏡」なんだ。
……もちろん「眉をひそめる」のもまた自由であり、そして個性って場合もあるから、一概に斬って捨てるものじゃないのは承知の上。
ただ、「その見方しか選択肢にない」という不自由な状態に陥っていないかどうかが大きな分かれ目。
とはいえ、かく言う自分にも、大なり小なりそんな部分はある。
後から気付いて「あちゃー」となるばかりではなく、その時に気付けるようにもなったのは幸いだけれど。
それよりもむしろ、どんな『色眼鏡』で見られても、
自分そのものはいつだって天然色、あるいは無色だとわかったこと、
そして、何より、自分自身をそんな本来の色のままで見られる瞬間が昔より圧倒的に多くなったのが、嬉しい。
<有漏地より 無漏地へ帰る 一休み
雨降らば降れ 風吹かば吹け>
一休宗純
ちょっと、あっちに直接書くのはやめとけーってお達しが川´ー`)から来たんで、今日二度目ですがこっちに書いちゃう。
ってこっちならいいんかい……( ̄д ̄;)ビクビク
んーとですね、いわゆる精神世界ってカテゴライズされてる業界じゃ、
「あれは闇の罠だ」
「あの人は闇に支配されている」
「それこそ闇の思う壺だ」
って、「闇」って名称で忌み嫌われてる「もの」があるんですが、
「もの」って言っても、そこは精神世界。
形がないから具体的に示せやしません。
ま、そこはどーでもいいことですが。
たわしこれ、「レッテル」にしか見えないんですわ。
理由はどうあれ、「闇」って名付けちゃうことで、そこに固定化された観念を注入してしまう。
そうすることで、本来不可分なものを、あたかも摘出手術できるような状態におけたみたいに錯覚しちゃう。
ぶっちゃけ、
『「光」と「闇」とは別々のもの』
って思ってるわけですよ。多分大半の人が。
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よく、満たされない思い、欠乏感や欠落感をたとえて、
「心の隙間」
なんて言われるけれど、
心に隙間なんてない。
もちろんただの比喩ってわかってる。
それでも隙間なんてない。
実際は全く逆で、
隙間どころか、思い込みという余計な荷物を抱えすぎているだけ。
隙間どころか、ぎゅうぎゅう詰めで窒息しそうになっているだけ。
でも、自分でこしらえたその荷物に気付けていないから、それは空気のようなものだと思ってる。
だから、見えない。
見えないから、隙間だと思ってしまう。
膨らませた風船の内側は、隙間じゃないのと同じように。
それを隙間と勘違いして、足りないと思って更にどんどん詰め込めば、
いずれ風船は破裂する。
だから、緩めていい。
固く縛っていた風船の口を緩めて、自分を張り詰めさせていた空気を抜いちゃっていい。
荷物は手放しちゃっていい。
それじゃあ自分が萎んじゃう、そう不安になるかもしれない。
もちろん、荷物を持っていたければ持ってていい。
それが望みなら、誰もその自由を侵したりできないから。
でも、空気が抜けていった先、今まで自分だと思っていた風船、その外側と繋がったとき、
「本当の」隙間を知ったとき、空虚どころか無限の安らぎを、知ることができるよ。
某所で「悟り」についての話題があって、ふと思ったこと。
本当は、この世に悟った人なんていません。
だって、悟るってのはある真実に気付くってこと。
いわば、どんなに否定しようとしても否定のしようもなく、ある意味力ずくとさえ言えるくらい圧倒的に、だけど素直に納得させられてしまう現象。
その真実に気付いてしまうと、あらゆる存在・非存在の一切合財が、例外なく全て同一で単一で唯一のものだって理解してしまうから。
そうすると、悟った人は、その自分以外の存在・非存在は全て自分だって見抜いてしまう。
すると、「自他」でいうところの「他」が消滅しちゃう。
「彼我」の「彼」でもいい。とにかく消えちゃう。
でも、それだけじゃない。
「他」が消えちゃうと、「自」も存在できなくなっちゃう。
なぜって、よく考えてみてほしい。
「自」も「他」も、互いの関係性なくして、互いに存在できない概念でしょ。
「右」という指向なくして、「左」は存在できない。
「硬」という評価なくして、「軟」は存在できない。
「悪」という観念なくして、「善」は存在できない。
片方がなくなれば、もう片方は比較対照を失って、ただ「それ」としか認識できないでしょ。
水密隔壁で左右に区切った水槽に水を満たせば、右の水と左の水で別れているように見えるけど、その隔壁を取り除いて境界がなくなった途端、右の水と左の水を区別できなくなっちゃうでしょ。それと同じ。
だから、悟った人は、悟った時点で、悟った人の自己、悟った「私」が消えちゃうんです。
よって、この世に悟った人なんていないんです。
ただ、「悟りの状態」があるだけなんです。それが本質です。
……。
でも、やっぱり、悟ってる人はいますw
矛盾してる? でも正しいの。
言葉なんて、一度に一方向からしか物事を表現できないとても不便なツールなんだから。
ついでに言えば、「正しい」も「しか」も「不便」も、「悟ってる人」の眼からみればただの虚構や虚飾でもあるわけで。
だけどこれもほんとは正しくなくて、「虚構」や「虚飾」というのも余計なわけで。
だけど「正しくない」や「余計」も以下無限ループ。
これが、言葉というものの限界。
大抵の人は、言葉で表現できないもの、理屈で成立できないもの、それらを拒絶し、否定する。
だけど、本当の「それ」、
その全ては、理屈を超えた、ものの見方の先にある。
固定観念を脱して、ついでに言葉という枠組みの形骸も脱して、自由自在に観れば観られるよ。
元々、最初は誰もが「それ」を観てたんだから。
ただそれだけのお話。