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記事一覧

思いたったように時々硬い物を食べる人に注意。

川´ー`)「顎を鍛えるためにたまには固いものを食べよう、というのは、普段よく噛んで食べない人間の世迷言じゃな」

 ってな一言を以前唐突に受け取ったんですよ。
 で、ちょいと考えて、色々思い至ったことがやっぱりありまして。


 いつだったかもう何年も昔。
 某少年漫画誌の読み切りで、あるプロ野球のピッチャーの話があったんですよ。
 トレーナーに「もし5年後に150km/hを投げたいのならば」と提示されたトレーニングメニューを誠実に受け入れ、実践したそうなんですね。
 その内容とは、まず高負荷のウエイトトレーニングを一切しない。
 逆に、1kgとか500gとかの極めて軽いウエイトを用いたエクササイズを、長時間に渡って続けるというもの。
 自身のチームが優勝し、その祝賀会の最中でも、彼は軽いダンベルを手放さずゆっくりとエクササイズを続けたそうです。
 そして5年後本当に150km/hを記録した、というお話。

 それと全く逆パターンなんですが。
 たわし中学高校の頃過度な筋トレのお陰で肩や内臓を壊した経験がありまして。
 おかげで今でも、特定の動作では片方の肩関節に違和感があるです。


 「継続は力なり」&「急いては事を仕損じる」って言うでしょ。


 咀嚼も、同じだと思うんですよ。
 本当によく噛んで食べる人は、どんな食べ物であっても、
 柔らかいものも硬いものもその中間のあらゆるものも、
 ゆっくり優しく噛んで噛んで噛み締めて噛み抜いて、食べる。
 特別に意気込んで力を入れる必要はなく、ただ反復するのみ。

 そりゃ硬いものほど力を入れなければいけないこともあるでしょうけど、
 それだって水滴岩を穿つ、ゆっくり優しく噛み繰り返せば必ず咀嚼できるようにできてます。
 だって、どんなに硬くたって食べ物だもの。

 とりあえずは噛み砕かないと如何ともしがたい物も、一旦噛み砕いてしまえばあとは他の食べ物と同じ。
 じっくり噛めばいいんです。

 がしっと噛もうとするのではなく、力を抜いてただ顎を動かすだけのつもりで。



 それのどこが素敵なのかというと。

 じわじわと、でも次から次に食材の奥から味が出てくる。

 そして、噛むという運動に、無理がない。



 そう、無理をすれば続かないですよ。
 だって、理が無いんだもの

 逆に、無理せず続けていけば、咀嚼癖がついてくる。
 そうなればこっちのもん。



 なのにですね。

「よく噛むと健康にいいらしいから、たまにゃスルメでも噛んで顎を鍛えるか」
 ってな具合に、たまに思い立って硬いものを食べようとする人っていますよね。


 たしかに、世迷言なんですよ。
 どこがどう世迷言かって、


 食べ物をよく噛むことによる健康の獲得というのは、
 平素積年の継続の末に、咀嚼によって胃腸への負担軽減が大きく積み重なった結果、
 内臓が本来の健全な状態を取り戻し、付随して全身に活力が無駄なく循環するからこそ、なんです。


 つまり「顎を鍛える=健康にいい」でも、「顎が丈夫=健康である」でもないんです。
 
 どんなに顎を鍛えても、普段噛まなければ意味がないんです。
 普段からよく咀嚼するという習慣が身についているその結果として、顎が鍛えられるというのはあっても。

 普段からよく咀嚼して、消化器への負担を最低限に留め置くよう心がけているからこそ、健康に繋るんです。


 必要なのは、「噛む力の強さ」ではなく、「咀嚼する癖」なんです。


 わざわざ「硬いものを食べよう」なんて思い立つってことは、
 要するに、普段よく噛んで食事をしていない、って証拠でしょ。

 普段しっかりと咀嚼しているなら、
「健康のために硬いものを噛んで顎を鍛えよう」
 だなんて特別に意気込んだりなんてしませんもん。
 しかも、見当違いな意気込みを。




川´ー`)「ちょいと待つがよい」

 あ、宇意さん。何さいきなり。

川´ー`)「今おぬしが話題にしたのは固い物についてじゃの」

 そだね。
 健康のためにと称して硬い食材をわざわざ選んだりする必要なんてない、って力説したい。

川´ー`)「ならば、そこで話題をひっくり返してはみんかの?」

 ひっくり?


 次回に続きマス。

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ひとやすみ?

『自己がわからない人は他人を責める。自己がわかった人は他人を痛む。』安田理深


 写真は、この前自転車でぶらぶらと、
 通ったことのない街路を気ままにあてどなく散策してた時に見つけた寺の掲示板。

 今日はちょっと趣向を変えまして。

 トップページのRSSリーダー使って、ぶらぶらといつものブログ散策中、
 個人的に特にシンクロっぽかったエントリを徒然にご紹介。


愛の世界で生きているお弁当を食べる体

 ここんとこみんな興味津々な「食」について、詩にしてくださっています。
 いやほんと、なんというか……そうなんですよね。
 「食」は全部に繋がって、全部もまた「食」に繋がってる。
 本当はシームレスなんですよねぇ。

 もぐもぐ噛んでると、ただ食感とか味覚とか噛んでくれてる体とか、訪れては流れてく無常で刹那の感覚を、眺めてるだけになる。
 そんな時、実は意識の分離感なんてどっかいっちゃってるんですよね。
 そして、それは誰しも必ず感じたことがあるはずで……ただそれを認めるか認めないかの違いだけで。


ありがとう仙人の「心のホームルーム」クンバハカ法のコツ
 
 いや先日もありがとう仙人さんのおかげでクンバハカ法の感覚がつかめたばかりなんですが、
 その掴んだ内容を更にわかりやすく噛み砕いて、解説してくださいました。うん、たわしが掴んだのも(たぶん)仰るとおりの感覚だ!

 そうなんですよ、天風師は実際は「下腹に『力を入れる』」って言葉を使ってるんですよ。
 たわしが一番誤解してたのは、まさにそこだったんですね。
 その誤解を、まあたわしの中ではもう解けた誤解なんですが、ありがとう仙人さんがさらに優しく解きほぐしてくれました。なんというアフターフォロー!(ぇー
 ありがとうございますです、とこの場を借りて御礼を。

 余談ですが、アクセス解析見てたら「中丹田に意識を集中」って検索ワードでたどり着いた方がいらっしゃったようで。
 それを辿ってったら「意守丹田」なる言葉に出会いまして。
 クンバハカが腑に落ちてなかったら、これも全く感覚がわからなかったかも。
 ていうか、現在進行形で呼吸についてあちらさんから仕込まれてる最中、こちらページも呼吸関連じゃん……誘導されてる!?


いまここ幸せと自信

 おなじみすぎて紹介するまでもないかもしれんけどw

 読んだのは、ponsunさんのブログのコメント欄に書き込ませていただいた後だったんです。
 緊張があるからリラックスがある。リラックスが本来の状態で、リラックスしかないのであれば、リラックスという状態概念は存在しない。ってことで。

 二元性なんですね。

(まあ、「リラックスが本来」という言い方もバッチリ二元性に基づいてるんですがここじゃそれは置いといてくださ。だって言葉は二元性でしか物事を表せないんだもん)

 で、阿部さんがまさしく語っておられる通り、これは幸せについても言えて。

 出典は何だったかな、
「天国への一番の近道は、地獄へ至る道を知ることだ」って言葉もあったような。

 南北くんでも、
「不幸になる原因を取り除いたら、あとは幸せになる道しかないからな」って書いたばかりだったし。

 要は幸せって、不幸でない状態、不幸であることをやめた状態、なんですね。
 それが本来だから、本来幸せしかないのであれば、幸せという状態概念は以下略。

 だから言うなれば、根本的な領域で幸せになる方法はたった一つ。
 不幸であることをやめること。

「不幸とは、例外なく自分の意思で握り締めているもの」
 という常識の裏にあるトリックに気づいて、
 更にそれが真実であると受け入れない限り(要は煩悩で言う「疑」がある限り)、
 人は死ぬまで悲劇の主人公を演じる舞台にハマりつづけるんでしょうね。


『「縁なき衆生」は、愛を以って放っておくべし』
 こないだ、そんなことを言われた今日この頃。

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さがしものはなんですかみつけにくいものですかかば(ry

 河馬は動物園に行けばいると思う。(何



 忙しいって字は心を亡くすって書く、ってよく言うけどね。

 でも、心をなくすってどういうことだろうね。


 それはね、観念にとらわれて心の自由を失う、ってことだよ。


 「忙しい」って定義したその状況が、
 はたして実は、本当に本質的に「忙しい」のかな?


 後付けでしかない、
 その「忙しい」という定義・意味付け・評価そのものを、
 本質だと誤解したままじゃないのかな?


 要はね、

 「ああ、この状況が、忙しいという状況なんだ」

 という解釈以外の解釈が、できなくなっているってこと。



 「状況=忙しい」って観念にとらわれて、

 「状況=楽しい」とも、「状況=充実した」とも、「状況=腕がなる」とも、
 「=ワクワクする」とも「=気合が入る」とも「=いっそ気持ちいい」とも、

 どうとでも把握できるはずの心の自由を、なくしているってこと。


 そう指摘されると、

「ううんそんなことないよ? 忙しいけど、楽しかったりもするよ?」

 って言うけど、いや、本当にそうなら別にいいんだけどさ。


 よーく自問自答してみると、気付く場合があるの。
 「楽しい」って意味付けができているのは、実は指摘したその時だけ、って事に。

 というか、気付けるならまだ救いがあるから幸い。

 全く気付かないで、
 もしかすると気付いてるけど目を逸らし続けてるのかもしれないけど、

「状況」の内にいる真っ最中は、
 もう無意識的反射的被害者的に「忙しい忙しい」としか思っていないって人、多いよ?

 実際そんな人は、何をおいても「忙しい忙しい」とばかり、
 呼吸するように口に出すから、すぐわかる。

 そして、実はそんな人の方が世間じゃ圧倒的に多数だ、ってことも、
 心を空にして観察していれば、すぐわかる。



 ちなみに「状況=忙しい」なんて、実は全然、式として成立しない。

 一番根っ子の部分で、成立する式は本来、ただひとつ。
 「状況=状況」、それのみだよ。


 いやもちろん、イコールの右側に何を当てはめてもいいんだよ。
 「忙しい」でも「楽しい」でも「気持ちいい」でも、どれを当てはめたって。

 ただ、「それしか当てはまらない」のだと「勘違いしている」「縛り付けている」から、
 「心の自由」を、あるいは「自由な心」を「亡くして」、「忙しい」んだ。



 ま、だから。

 他人に向かってなにかと「大変ね、忙しいのねぇ」って言うのも、
 「相手が相手自身を実はどう思っていようが、『大変だ』という色眼鏡でしか相手を見ることができていない」
 って場合が案外多いから、心当たりのある人は要注意。

 もちろんその時、
 本当に「忙しい(心の自由がない)」のは、
 相手じゃなくて、言ってる当人だね。 



 なんて事をのたまいつつ、実は、
『「状況=状況」しか当てはまらないんだらよ絶対!』
 ってふりかざすのも、しれっと「忙しい」の仲間なんだけどね。



 おまけ:ものの見方と見方道

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変わらない信号はない

『赤信号 みんなで渡れば 怖くない』

 ……なんてたまに言われますが。

 ちょっとタチの悪い印象で用いられるんでしょうけど、
 実はこれ、まだマシなほうでして。

 だって、
「赤信号はほんとは危ないから渡っちゃ良くない」
 ってことを一応自覚してますもん。

 見渡す世間の内、多くの人々には、
 むしろこっちの標語(?)が当てはまるんです。

『赤信号 みんな渡ってるから 渡れって意味なんだね』(超字余り)


 怒る
 怒鳴る
 威張る
 愚痴る
 文句を言う
 不平不満を言う
 悪口を言う
 陰口を叩く
 嫉妬する
 嘲笑する
 いじける
 羨む
 貪る
 侮る
 騙す
 奪う
 暴力を振るう
 こき下ろす
 尊大に振舞う
 他人を糾弾する
 自分を卑下する
 他人を見下す
 自分を責める
 他人を責める
 他の何かに責任転嫁する
 自分を運命の被害者だと思い込む
 自分を悲劇の主人公だと思い込む
 世界の全ては私の敵だと思い込む
 過ぎたことを後悔する
 未来の状況を不安がる



 全部、赤信号。

 たくさんの人々が、それでも渡ろうとする。
 渡ろうとして、もれなく車にはねられて、痛い目見てる。

 でも、やっぱり赤信号は渡らなきゃいけないんだって思い込んでるから、また渡る。

 渡って、渡りきった先に、
 素敵な素敵なご褒美が、幸せが待ってるって思い込んでるから、また渡る。


 でも、それで向こう岸に辿り着いた人なんて、いないんですよね。
 そもそも「向こう岸」なんてどこまで渡っても見えないんですよね。
 なのに、なんで「向こう岸に幸せがある」なんて、わかるんだろ。


 それは、
 偶然はねられずに「独自の目標に決めた距離まで渡った」人が、
 「ああ、俺はここまで渡ったぞ! やったぞ!」
 って、一時の達成感・解放感を幸せと勘違いして、そこでバンザイしてたから。

 他のみんながそれを見て、
 羨ましがったり、「よーし俺も!」と意気込むから。
 あの場所こそが向こう岸なのだと、こぞって目標にするから。


 そこはまだ、車道のど真ん中なのにも関わらずね。



『山のあなたの空遠く、幸い住むと人のいう
 噫(ああ)、われひとと尋(と)めゆきて、
 涙さしぐみ、かえりきぬ
 山のあなたになお遠く、幸い住むと人のいう』

(カ-ル・ブッセ 作/上田敏 訳)




 だけど、そうやって無数の人がはねられていく中、
「あれ? なんかおかしいんじゃない?」
 って疑問を抱く人が、僅かながら出てくる。


 更にその中から、この疑問を真摯に受け止めて、
「もしかして、赤信号って渡っちゃまずいんじゃない?」
 って仮説を打ち立てる人が、僅かながら出てくる。


 更に更にその中から、この仮説を誠実に検証し続けて、
「あ、やっぱり赤信号って、渡っちゃいけないんだ!」
 って確信と結論を導き出す人が、僅かながら出てくる。


 それが、「目覚め」の始まりです。


 そして、渡っちゃいけないんだという結論を、
 それまでの「渡り癖」と問答しつつ、地道に実践していくことで、

 時々焦りながら、でもやっぱり焦らずに、
 ゆっくりじっくり、少しずつ力を抜く術を身につけながら、
 ただただ、「渡らない」「その場に在る」という実践をしていくことで、

 いつしか気付くんです。


「ありゃ。渡らなきゃ幸せじゃん」



『赤信号 渡らずにいれば 青になる』



 ♪とーぉりゃんせーとーりゃんせー

 ちなみに青信号の中には、が描かれてます。

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今日は死ぬのにもってこいの日

 身近な人の死や、死に準じる事態に突然直面したとき、やってはいけない事がひとつある。


 それは、驚くことでも、悲しむことでも、悼むことでもなく、


 うろたえ、取り乱し、途方に暮れることだ。


 「どうしよう。ああ、どうしよう」と。

 「突然こんなことになってしまって、これからどうなってしまうんだ! どうすればいいんだ!」と。


 有り体に言えば、過去や未来に心を飛ばし、眼前の死と呼ぶ現象から逃避し、
 今この瞬間に存在していない状況を妄想し、不安を創造して「遊ぶ」ことだ。


 悲しむのは構わない。悼むのは構わない。
 むしろそれは、人として断然、あってもよいことだから。


 しかし、
 「人は必ず死ぬものだ」ということを予め、本当に理解できていれば、
 たとえどれほど悲しみに苛まれても、不安という自縄自縛にはまず陥らないし、仮に陥っても短時間で済む。


 でも、世の中には、そうでない人もいる。
 まだ若く、経験と哲学に乏しいなら話は別だが、
 突然の死、あるいは死の宣告を前に、
 いい歳をしてただ闇雲に、心を過去や未来に逃がし、遊ばせ続けている人が。
 いつまでもいつまでも、ただ不安に嘆き浸り続けるだけの人が。



 そんな人に「人は必ず死ぬものだ」と告げると、必ずといっていいほど返ってくる反応がある。



 「そんなことはわかってるよ!」



 わかっていないから、取り乱すのだ。



 もっと正確に言えば、
 理屈で理解しても、胆(はら)の底で受け止めていないのだ、
 頭で、自我で、思考で「人は必ず死ぬものだ」という「言葉をコレクションしているだけ」で、
 覚悟という胆の領域に落とし込む事を、怠ってきたのだ。


 そう。
 自らの心を修めるという一世一代の大仕事に対する、怠惰の結果だ。



 人として生まれた以上、誰一人の例外なく、必ず一度は死ぬ。

 その理解の真髄を端的に語った言葉こそが、


 「一期一会」


 この言葉を飾り棚に収めることなく、

 いつでも抜き放てる愛刀として座右に置き続ける剣人(賢人)は、

 悲しめども、決して取り乱すことはない。





 ……。

今日は死ぬのにもってこいの日
 プエブロインディアンの死生観を綴った詩集で、
 記憶が確かなら、かれこれ10年くらい前に入手した一冊です。

(って書いた後で、たわしのアカウントでamazonにログインして上のリンク先見たら、
 「2001年2月に購入しました」って表示されてた。記憶違いじゃなかったね)

 当時はまだ音楽活動真っ最中の頃、いわゆるペシミズム的な見方しかできなかったこの世界観。
 様々な紆余曲折や有形無形の存在との出会いを経て、近頃になって読み返してみると、
 大地に根ざして生きてきたネイティブアメリカン達の境地は、まさに悟りそのものだったのだ……と、
 それなりに少しは肌で分かるようになってきたようではあります。
 それもまた、おかげさまなのだな、と。


 仮に今日、自分が死ぬとして。
 はたしてその時に周囲の人々が取り乱すのかどうか、
 それははっきり言って、その一人一人各自の問題です。
 冷たく聞こえるでしょうが、そこまで後生責任抱えてあの世に逝くなんてまっぴらごめんです。


 ただただ、放言してしまえばエゴイスティックに。

 今では本当に、今日は死ぬのにもってこいの日だと、
 一日一度は一瞬でも思うよう、自分に課しています。

 そしてその瞬間とは、どのような瞬間かというと、


 今この瞬間に、いまここに、意識が完全に集約されている時です。


 過去も未来もなく、執着も妄想もなく、全部が空っぽなのに、完全に満たされた心の状態、その瞬間。

(正確には、「あ、その瞬間を迎えてた」という自覚、認識ですね。
 その認識・思いの汲み上げ自体には思考を用いるので、
 厳密には「その瞬間」とは別物ではあるんですが、それはここでは置いておきます)


 それは、自ら命を絶つ事を望むのでは決してなく、
 しかし死を憂うことなく、むしろ待ち遠しくもあり、その上で生を全うする覚悟もあり、
 何より本来生も死も無く、同時に眩い命の総体という祝福そのものとして、存在するという感触。

 ああ、今まさに、生きるために必要な全ては、完全に与えられている。
 今まさに、完全に生かされている。
 だからこそ今、もしも死が訪れるならば、何の心残りも躊躇いも恐れも無い、と。
 そう明確に「わかる」瞬間。





 ちなみにその瞬間、
 タンスの中のエロゲーの箱やHDD内のエロ画像の処分についてとかもどうでもよくなっていますが何か(ぇぇぇー

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