常に曖昧に。
何事も、後回し先送りにせず、
特段の理由がない限り、
きりのいいところまで進めておけば、
後に心を残さずにすむ。
まさに、今、この今において、
ただやれることをやっておけば、
後という名前の、既に過ぎ去った今に、
心が取り残されずにすむ。
後に心を残す、というのはつまり、
未来の後悔であり、未来への後悔でもあるんだ。
未来への後悔をしている限り、
未来への航海なんて、とてもできやしない。
未来へと航海することは、
まさに今、この一瞬を更改することなんだから。
てなわけで。
公私共にちと用事が詰まって中々更新できなかったものの、
おかげさまでどうにか南北くんも終わりまして、
まあ一段落とばかり優雅にブランデーを傾けとります(朝っぱらからかよ!?(嘘です。
ところで、ですよ。
この更新あいてた間、一日のアクセス数がそれまでよりも数倍になってたんですね。
昨日今日でようやく落ち着いてきましたが。
その理由ってのが、これ。
ここしばらくのアクセスログ、リンク元URLリストです。
他にも検索キーワードとしてログに残ってたのをさらっと拾い上げてみると。
「小林正観 訃報 死因」
「小林正観 死因」
「小林正観 死亡原因」
「小林正観 死亡 原因」
「小林正観の死亡原因」
「小林正観 死因 記事」
「小林正観 逝去 理由」
「小林正観 はなぜ死んだか」
「小林正観 なぜ死んだ?」
「小林正観はなぜ死んだのか」
「なんで小林正観は亡くなったの」
とまあ。
この正観さんの死因への関心の高さよ。
どんだけ気にしてる人多いのさwといいますか、
そんなの知ってどうすんのさ? ってのが、たわしの偽らざる感想ですわ。
まあ、中にはミステリアスなイメージを持って「○○の真相に迫る!」ってな三面芸能的な感じの人もいるんでしょうけれど、
そういったのを除けばほとんどは、
「自分にも起こりえるその死因を気にしなければ、不安でしょうがない」
という感じが根っ子にあるんじゃないかな、と個人的に感じてたりします。
今日はそこにたわしなりのあまのじゃっかーを突っ込んでみたいと思ふですよ。
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叱る。
道理に照らして間違っているものを、
間違っていると指摘して、諭すこと。
だから叱るのに、怒るのは必要ない。
怒鳴りつける事が、叱る事じゃない。
一方で。
怒りを乗せたら叱ることにならない、
……というわけでは、必ずしもない。
単に、怒りを乗せて叱ってしまうと、
相手が心閉ざしてしまいがちだから、
諭し、間違いを正すという目的には、
普通は不適格というだけに過ぎない。
ところで。
叱りに同じ怒気を乗せてるのに、
周りに受け入れてもらえる人と、
受け入れてもらえない人がいる。
その違いは何か、と考えたとき、
ふと、「叱る」ための前提条件があることに気付く。
「叱る」という行為は、
そこに込めるものが「情熱」でなければ、成立しない。
相手の成長を願う期待や、誰かを慮る愛情や、
手の届く範囲で物事や環境の進歩を促す意欲。
他にもあるけれど、それら全部、情熱の一種。
要するに、叱ることを怒ることと勘違いし、
結局鬱憤を晴らすために怒鳴っているのか、
相手や物事に対する情熱に基づいているか、
それだけの違い。
怒りでもいい、笑顔でもいい。
ただ、情熱があるかどうか。
相手の心に届くか否かを分けるのは、
そこなんじゃないかな、と感じる。
――理屈で人の心は動かない。
昨日の昼のこと。
久々に鶏ムネ肉のステーキがつっと食ったら、
しばらくたってから異様に体が野菜を欲しがる欲しがるw
だもんで晩飯は玄米と納豆と漬物に、生のニンジンそのまま1本。
ぽりぽりかじって、よく噛む……野菜うめぇwww
何の変哲もない普通のニンジンなんですけどね。
「今、感じる味」だけを感じきると、全ての食べ物がもれなく最高に美味しいとわかります。
タレをかけないところてんも美味しいよ?(ウフ
そんなわけで、動物占いではこぞってペガサスとか月からきたウサギなんて不思議系な結果になるたわしです。こん○○ぱ。
私の愛馬は凶暴だぴょん(何
みょんな前置きはさておき。
アクセスログを見てたら、
「正観さん 告別式 行ってきました」
って検索ワードで訪れた方がいらっしゃったようで、
思わずポチっと覗いてみました。
すると。
実際に参列された方のレポートを発見。
■あさやん通信さん:正観さんの葬儀
こちらに、正観さんの辞世の句が紹介されていました。
転載させていただきます。
《わが形見
高き青空 掃いた雲
星の夜空に 陽に月に》
見た瞬間、
「あ、確か良寛さんの辞世の句も同様の趣だったはず」
と感じて、早速ぐぐるさんwに調べてもらいました。
《形見とて 何か残さむ
春は花
山ほととぎす 秋はもみじ葉》
思えば正観さんも、良寛さんの諸々のエピソードを度々紹介してくださいました。
正観さんの本名は正寛さん。
「良寛さんのような人になってほしい」
という意味で親に名づけられた、と語られていました。
こうして残った辞世の句を目にするにつけ、
「現代の良寛さん」だったんだなぁ、とつくづく感じます。
この場を借りて、
レポートしてくださったあさやんさんにも深く感謝いたします。
本当にありがとうございます。
……そういえば。
「小林正観 訃報 死因」
「小林正観はなぜ死んだか」
「小林正観さんなんで死んだの」
なんて検索キーワードで来た方々もいたみたい^^;
その問いに答えるとしたら、たわしなら迷わずこう返します。
「正観さんが生まれたからですよ」
……こーゆーこと言うとすぐ理屈っぽいとか怒鳴りだす誰かには、その奥にあるニュアンスなんて汲み取れますまいて。(さりげに黒モード(ぇー
『散る桜 残る桜も 散る桜』
――良寛和尚
えっと、初めにちゃんと明言しておきます。
今回の記事は、特にたわしの偏った主観や自意識、旺盛な批判精神成分をいつもよりも多量に含んでいます。
なのでそういうのが嫌な人はぜひともスルー推奨。
そんなの全く大丈夫っつー大人な物好きさんだけ続きをどうぞ。
でわ。
唐突ですが。
大まかに、「にんげん」ってのは、
次の四つの「ル」で成り立ってます。
・フィジカル ―― 物質性、肉体的な健全さ(頑強さとは違います)。
・メンタル ―― 心理。いわゆる知情意(知性・情緒(感性)・意志)の働き。
・ソーシャル ―― 社会性、外部への敬意や受容性。
・スピリチュアル ―― 霊性・精神性。知情意の働きを統合し、バランスを保つ働き。
いわゆるジャンル的な「スピリチュアル(精神世界)」ってのは、
この四つのうちの「スピリチュアル(霊性)」に着目して、
そこへの自覚や関心が薄いために他とのバランスが取れず不健全になっちゃってるから、
霊性への理解を通じて、この世に生きる「にんげん」としての、
「『四ル』を総合した」人間性のバランスを健全化しましょうよ、
ってコンセプトも根底にあると思うんです。
要するに偏らずに人生を生き切りましょう、ってこと。
本来的な「宗教」というものも、その根本スタンスはこれと全く同じはずです。
だけど。
どんな理念も、忘れ去られたり、
あるいは曲解されたりすることは往々にしてあるもので。
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