常に曖昧に。
よくよく考えてみると、
「体に気をつけてね」
ってのも奇妙な言葉だねぇ。
取りようによっては、
「あなたの体があなたに危害を加える恐れがあるから気をつけてね」
なんて風にも思えるたわしはあまのじゃく。
まあそれは冗談として。
「体に気をつけてね」
とはしょっちゅう聞いても、
「心に気をつけてね」
とは滅多に聞かないんだよね。
大抵の人、大抵の場合、
気をつけるのは、目に見えるものだけ。
奇妙だよね。
「気をつける」の「気」自体目に見えないのに、
目に見えないものには気をつけない。
普段気をつけていないものを使って、
別のものに気をつけさせようとしている。
なんとなくあべこべ。
目に見えないものに関心を払わないまま、
いくら目に見えるものばかり大事にしようったって、
アンバランスもいいとこなんじゃないかな。
ま、それはそれで立派な経験だからいいんだけどね。
なんてことをふと考えたのは、
母が電話で親戚の子に「体に気をつけてね」って言ってたから。
まあ、その思いやりはいわずもがな、母の母たるなんとやら。
ありがとうございます。
「真実は一つしかない」
「真実は無数にある」
「真実しか存在しない」
「真実など存在しない」
これら全部、実は同じ意味です。
真実というものを、あたかも東西南北、異なる視点から指し示しただけ。
わっかるかなぁ?
さて今日も楽しくいってらっしゃーい(* ̄∇ ̄)ノ
黒斎さんとこの極楽飯店が、ついに輪廻中毒にまで話が及んでwktkしてる今日この頃、皆様いかがお過ごしでしょうか(何
うみさんには南北話期待してる言われてるのにアレなんですが、
アップデートで北米実装したばかりの大航海時代にかまけて筆がノロノロでごぜーますああそこ石を投げるならせめて片手で持てる程度で……( ̄д ̄;)
でも放置じゃせっかく来ていただいてる方々に申し訳ないので、せっかくなので今回は以前書き溜めたもののお蔵入りしてたやつからお披露目をば。
てゆーか、前のエントリでちらっと「反応を選択」するって言葉を使って、ふと思い出したのが今回の話題。
加えて、今日うずらさんに頂いたコメントとも何気に関連することなので、渡りに船というか、そのコメント頂く前からこのエントリをつなぎに公開する予定だったものでなんというシンクロー、ってのが正直な所。
ただ本音言うと、内容自体すっごい粗があるからホントはこのまま蔵に入れときたいのは山々なんだけどねぇ……それでも何かしらの学びに変える人もいるかもしんないし、ってことで敢えて。
てかこれ書いたの、タイムスタンプ見たら今年の1月2日かー。
結構熟成してたもんだ。乳酸菌たっぷり?(ぇー
そんなわけで、以下その腐敗臭をごゆるりとご堪能ください(ちょ
~~~~~
……。
さて。
唐突ですが、「責任」という言葉がありますね。
広辞苑によると、
せき‐にん【責任】
1.[荘子天道] 人が引き受けてなすべき任務。「―を全うする」「―を持つ」「―をとる」
2.政治・道徳・法律などの観点から非難されるべき責(せめ)・科(とが)。法律上の責任は主として対社会的な刑事責任と主として対個人的な民事責任とに大別され、それぞれ一定の制裁を伴う。
つまり責任とは、為さねばならない何か(英語であればmust)であり、
またそれを為さないことも含めた何らかの落ち度について罰を科されること。
そんなふうに解釈されてるわけですね。
「責任を取れ!」だとか、
「どう責任取ってくれるんだ!」とか。
特に他者に向ってこの言葉を使うときは、確かに責め罰するニュアンスが強い印象かな。
でもこの責任という単語、
英語ではresponsibilityといいます。
response - ability で、「反応する能力」という原義。
どういうことかというと、
「自分がどう反応するかを自分で選ぶこと」
なんです。
つまり本当の意味での「責任」とは、
「強制されること」「罰を食らうこと」という受動的・非主体的なものではなく、
「自ら反応を選択すること」という能動的・主体的なものなんです。
実はですね。
どんな外部刺激を受けようと、どんな決断を目の前にしようとも、
誰もが本来、必ず、「反応を選択する能力」を保有しています。
たとえは渋滞に巻き込まれたとして、
ある人は、イライラするあまり舌打ちを繰り返し、タバコを何本も消費しながらクラクションを鳴らしまくる。
ある人は、緊張をといてシートにくつろぎ、スピーカーから流れるお気に入りのジャズに微笑みながら耳を傾ける。
両者ともに目的地はあります。可能な限り早く着きたい意図もあります。
現象は何も変わっていません。
なのに、反応は全く逆です。
このことは、
「渋滞という現象そのものに、人の反応を直接左右する能力は無い」
ことを表しています。
裏を返せば、
「現象に対してどんな反応を示すかは、その自覚の有無にかかわらず、その人自身が完全に決定権と能力を持っている」
ということ。
それは他の誰の力でもありません。
「自分」しか持っていない、絶対無二の力です。
でも、その力を本当に自分のものとして活用している人は稀です。
多くは、その力を他の誰か・何かに明け渡してしまっています。
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よくよく考えると、「邪魔」って凄まじい言葉だね。
だって、「邪」で「魔」よ?
特に子供とかに向かって、
「邪魔だ!」
なんて言い放つのって、
「お前は邪(よこしま)な魔(悪魔?魔物?)だ!」
と言ってるのと同じわけで。言う人にその自覚はなくても。
ずっと前にテレビの対談番組で誰だったか、俳優さんが語ってたけど、
その人の故郷だと、親や祖父母が子供を怒鳴るときの言葉は
「このばかもんが!」ではなく、
「このたからもんが!」なんだそうな。
宝物。
ああ、こうして叱られているけれど、僕達は宝物として大事にされているんだ。
おかげさまで、そんな愛情を実感して育ってこれた。
てな感じの事を、その俳優さんは言ってました。
普段何気なく口から出る言葉、単語。
ちょっと立ち止まって、その意味を考えてみると、結構たからもんが見つかって面白いもんです。
他所では言葉の限界ってものを時々俎上にのせるたわしですが、
しかしそんな言葉、というか言語や文字にも、もぬすんごく深い智慧が含まれてることも多いわけで。
たとえば、坐禅の「坐」は土の上に人が二人。
土というゆるぎない大地の上で、二人の存在が向かい合ってるわけです。
この二人は何かっていうと、
「本来は幻であるはずの主観によって作られ、それが本物だと信じてしまっている(この世的な)自分」
と
「内にある真なる(あの世的な)自分」
つまり、坐禅ってのは内なる自分と対面し真摯に向き合う禅ってことになるわけですよ。
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