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手放すという意味と、手放し方。

 感謝している瞬間、心から傲慢や怒りなどは消え失せています。

 つまり、傲慢や怒りから意識のフォーカスが外れているということ。

 傲慢や怒りは、観念の一種。

 いわゆる「観念を手放す」というのは、つまり意識のフォーカスを、そこ(その向けている対象)から外すということです。

 そのための根本的な方法というのが、
 「今この瞬間」を感じきることで、意識のフォーカスそのものを希薄化、あるいは停止し無効化してしまうというものだけれど、
 これは瞑想や何らかの経過・アクシデントを通じて固定観念を打ち破ったことのある人でないと、いきなりは難しいでしょう。

 そこでオススメできるのがやはり、その派生形とでも言える、感謝。

 感謝に意識のフォーカスを移すことで、傲慢や怒りからフォーカスが外れます。

 つまり、「意図せずして」傲慢や怒りを手放すことになるわけです。

 さて、問題はそれをどうやって普段かつ不断の実践として取り入れるかですけど。

 手っ取り早いのが、今見ているもの、あるいは触れているものが、
 いったいどれだけの人や物や現象の連なりによって今ここにもたらされたかを可能な限り想起し、感謝すること。

 その感覚と心的姿勢を保つよう努めつつ、とにかく繰り返すこと。
 反復は力なり。習慣は第二の天性。それを地で行くこと。

 そのようにして、その瞬間瞬間に、連なりを思い起こす癖をつけていくと、
 いつのまにか、その瞬間瞬間に、連なりを感じることができるようになります。
(正確には、「感じている」ことを認識できるようになります。なぜなら、感じるだけなら無意識的にでも最初からできているのですから)

 思い起こす、つまり「考える」ことで把握できるキャパシティを遥かに超えた、
 計り知れない連なり・繋がり・広がりを、「感じる」という境地に至れば一瞬にして感得しえます。


 全然話は変わりますが。
 今週の少年週刊サンデーのARAGO、
 守るべき人の前で異能の力を見せてしまった主人公のアラゴに投げかけられた感謝に、目頭がひどく熱くなってもう。
 好きなんだよなぁこのマンガ。
 これほどの作品の掲載位置が巻末ってのはいかがなものかってつい思ってしまうくらいに。

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閾値

 「幸せだな」のしきい値。

 「大変だー」のしきい値。

 「楽しいぜ」のしきい値。

 「悲しいよ」のしきい値。

 「嬉しいぞ」のしきい値。

 「許せない」のしきい値。



 そんな「しきい」は、どこで決まるのかな?

 一生かけても使い切れない程の大金が入ったとか。
 そのお金を騙されて根こそぎ持っていかれたとか。
 誰もが羨むような絶世の美男美女と結ばれたとか。
 その相手に尽くした挙句こっぴどくフラレたとか。
 

 あなたが手にした、目にした、耳にした、経験した、

 そんなあなた以外の何かが決めるのかな?



 いやいや。

 「しきい」は「意識」で決まるのね。

 あなたの「いしき」が決めるのね。

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ルール

 最近は本当にですね、川´ー`)と二者間的な「対話」をすることがほとんどなくなりまして。
 以前、いずれは対話が薄れていくだろうと言われてましたが、本当にその通りになってるようで。


 たとえば、少し前はしばしば
川´ー`)「大丈夫じゃよ」
 という思念が届いてたんですが、最近はそれもめっきり少なくなって。
 その理由が(ていうか今日目が覚めて気づいた)、
「大丈夫だ」というのは、裏に「大丈夫じゃない」があるから出てくる観念なわけで。つまり二元性。
 だから、自然な形で「大丈夫だ」が消えたとき、そこには「大丈夫じゃない」も消えているんですね。
 つまり、「大丈夫だ」が消えることで、本当に「大丈夫だ」という純粋な(一元的な)観念が出来上がる、と。


 で、なんでそんな流れになってるかというのも。
 いつのまにやら、川´ー`)そのものとして生きる、という選択をしたみたいで。
 少し具体的な言い方をすると、
「向こうからの見えない声を伝達する」メッセンジャーとしてよりも、
「自ら明るく楽しく光って生きる」ジッセンジャー(by小林正観さん)であれ、と。
 サイクリングとかパンとかもそんな一環といえばモロに一環ですし、
 まあ他にもいろいろと試行錯誤とか葛藤とかもあるにはありますが、まあその恵みには感謝しきりな人生を現状送らせていただいとります。


 で、そんな中、実に珍しく唐突にあっちから語りかけられたんですよ。

 それは、先日言葉の二元性について触れた日の夜、湯船につかりながらのこと。


川´ー`)「悩んでも何にもならぬことを悩んでおるの」


 近頃とんと静かになってたと思ったら何さいきなり。(; ̄д ̄)


川´ー`)「書いたじゃろうが。言葉の二元性を超えられない葛藤について」


 あー、あれね。確かに葛藤っていえば葛藤なんだろうけど……そんなに気にしてるつもりもないよ?


川´ー`)「顕在的にはそうであっても、潜在的にはおぬしの底にずっと横たわっておる。
 よいか。言葉では二元性を超えられない、それはこの世というゲームのルールみたいなものじゃ。
 サッカーでは手でボールに触れてはいけないのと同じでの」


 ルールっすか?


川´ー`)「言葉で二元性を超えて確実に伝えられないかと悩むのは、
 サッカーで手を使って相手ゴールを奪えないかと悩むのと同じじゃ」


 で、そのルールを越えようと試行錯誤するのは何にもならない悩みなわけ?


川´ー`)「実際問題としてじゃ。おぬしは素手で10トンの重石を持ち上げることはできんじゃろう」


 うん。
 車の下敷きになったわが子を助けようと火事場の馬鹿力で車を持ち上げた母親の話ってのはあったけど、さすがに10トンはねぇ。


川´ー`)「それと全く同じことなんじゃよ。
 そういった有形無形の事象、可能不可能という現象、
 物質だろうと非物質だろうと、それらの間に差はないということはおぬしは把握しておるはずじゃ。
 たとえばこの不可能というのも、不可能であるということが可能である、といえるがゆえに可能しか存在せぬ、とも表現できるの」


 あー、うん、まぁ、えぇ、うん、その辺は。
 他の人にうまく説明できるような理解の仕方じゃないからモニョイけど( ̄д ̄;)


川´ー`)「他の者ではなくおぬし自身の内面の理解を話しておる。
 で、引き寄せの法則じゃとか何じゃとか、この世の法則と呼ばれておるのはいろいろあるがの。
 確かにそのようなこの世の法則に基づく限り、想念はある意味で万能とも言えるのじゃが、
 逆に言えば法則に則らない形、あるいは法則そのものを改変しようとする形においては万能ではない。
 いわば、それが想念である限り、想念という枠を超えられない。
 そういう根源的な部分で、できないことはできないと、しっかり認めることもまた大切じゃよ。
 逆に、そういった制限、ルールがあるゲーム、あるいは種目としてのこの世を楽しみに出てきたのじゃ。思う存分、楽しむがええ」(ニヤリ



 今笑った!? ほくそ笑んだ!?Σ( ̄Д ̄;) 


 そんなこんなで、今日も一日ぐいっといこう!
 いまからあさごはん建造するです(ぇー

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おつかれサンガ

 ふぃーっと。
 先月から抱えて詰まってた案件が、おかげさまで昨日ようやく片付きまして。
 これで少しは更新にもリソースを割けると思うます。ほったらかしぎみでほんとすまそん。
 巡回もほとんどしてなかったしなぁ、ぼちぼちネットお散歩しよっと。



 さて、sarasaさんにいただいたコメントでふと思ったんですが。
 確かにたわしも含めて、なかなかほとんどの人は一つの方法論に固執しちゃい気味なんですよね。


 昨日買ったスマナサーラ長老の『怒らないこと』に、
『私こそが唯一正しい』が人間の本音
 とありましたが、うむ、これにも当てはまるなぁ、と。


 正しい、は、間違い、があるからこそ存在する二元相対の観念。

 人はとかく、あらゆるものを二元相対的に見ようとします。
 言葉や思考、またそれらが表現するものも、全て二元性の上に成り立っています。

 でも、この世は実は一元絶対の世界。

 そこを履き違えるから、そのギャップが苦しみという摩擦になるわけで。
 ちなみにここでいう苦しみってのは、怒りや嫉妬や渇愛といった、自分の心を束縛する思いや感情。


 まあ、一元性と二元性、という考え方自体も実は二元性的な観念に基づいたものなので、
 本当には一元性も二元性もないってことでもあるんですが、
 ああもう二元性に基づいてしか言葉では説明できないのがもどかしいw


 まあだから、要はお釈迦さんとかが言ってるのって、
 この二元相対性による幻の世界から、一元絶対性による真実の世界に戻りましょうよ、ってことでもあるんでしょうね。

 ほとんどの人が現実だと思っている二元相対世界が実は幻想で、同じく幻想だと思っている一元絶対世界が実は現実ですよ、っていう。
 となると、そのアベコベを見抜くのが目覚めで、アベコベを元通りにするのが悟りって解釈もできなくもないかもしれないけどそれはまあいいや(ぇー

 にしても、言葉にするとやっぱりニュアンスのズレや誤誘導の危険性が出てきますねぇ。
 書かなきゃ話にも記事にもならないんで書いちゃいますが。w


 でね。
 さっきの『怒らないこと』には、こうもあったんですよ。

『私は正しい』と思うから怒る」と。

 案件詰まらせてたここしばらくの間、結構この怒りに属する感情が湧いてしまうことがあったんですが、
 振り返ってみれば、ただの一つもの例外なく「自分が正しいと思っていた」から、なんですよね。

 だからどんな種類でも怒りが湧いたら、それを治めるには、
「自分が正しいわけではない、相手が正しいのかもしれない」
 そう思うことがまず入り口だと、身をもって痛感します。


 ……が、それはあくまで入り口なんですね。
 対処療法的であって根本治療的ではないというか。


 そこから更に進めて。
 正しいというのは間違いというものがあって成り立つ二元性の産物なのだから、
 そもそも自分にも相手にも、正しいも間違いもないのだ、ということを把握する。 

 それを敢えてこの二元相対世界でも解釈できるように言えば、
 強いて言うなら正しいしかない、ということになる。
 もちろんそれは一元絶対における正確な表現ではないけれど、
 そこを踏まえた上で、それが、あるがまま、ということになる。

 そこまでいくと、これまでの色んな精神的な知識や解釈とも有機的に結合し始めるんですよね。
 結局のところ、「いまここ・今この瞬間」に何もかもがあるということを見抜いていること、それが唯一の全てなんだと、改めて腑に落ちている次第。

 そういうことを実感できたという意味で、ここしばらくの経験は面白いものだったと、省みています。


 とまあ、またとりとめもない徒然でしたが、今日はこのへんで。
 南北くんもぼちぼち再開取り掛かるかぁ。

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統合

 あとはただ

  宇宙として

   生きるのみ




 We're the universe.

 uni = 一つの
 verse = 詩(歌)



 歌といえば、
 今朝なぜか真っ先に浮かんできたのが、大黒摩季の「ら・ら・ら



 無明に溺れる人の有り様を歌った詞は数あれど(むしろそれが大半だよね)、

 それをここまで写実的に描いたのもかえって珍しいなや、と。

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