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道はない 通った後が 道になる

 先日阿部さんがブログで、耳を澄ませる瞑想法を紹介してましたが、実はこれ、たわしも以前からずっと実践してたことなんですよ。
 あとは、呼吸を集中して感じる方法とか。


 でもですね、先月下旬から末にかけて、精神的に大きな乱れがありまして。一週間ほど更新があいた直接的な原因はそれなんですが。

 ぶっちゃけ言ってしまえば、聴覚や呼吸集中による方法が、うまくいかなくなってたんですね。

 それまで平然と感じられていたのに、特にこと「声」に関しては、それに自動的に意味づけや判断・感想を弾き出してしまう自動思考が、とにかく収まらない。

 その結果なのかどうかはわかりませんが、連続する不安の状態と、ある一つの落胆する事態を引き寄せてしまいました。


 でも、その落胆の最中に、ふと見つけたたんですね。

 指先、掌、足の裏、それらの触覚に意識を集中させた方が、今の自分にとっては聴覚や呼吸よりも圧倒的に瞑想状態に入りやすい、と。


 もちろん現状、聴覚や、他にも嗅覚や視覚も活用・併用できますし、一応しています。
 そもそも、触覚への集中も以前から活用はしていたんですが……もしかすると、聴覚集中への固執みたいなものがいつのまにかできていたのかもしれないです。
 それを、ぶち破ってもらえた、みたいな。


 ちなみに、更に波動が高い状態なら、五感全て、全身の皮膚の触覚はもちろん、それ以上のものまで感じられる瞬間だってあります。
 その瞬間は、全てがいっぺんに流れ込んできて、意識ははっきりと覚醒してそれらを感覚していて、でもそれらに決して名前をつけることなんてないし、しようがない、そんな感じ。

 でも、足裏や掌だけ、あるいは聴覚だけといった一部集中の場合、そこまでには至らないんですね。きっかけや呼び水になることはあっても。
 それはたぶん、科学的に表現すると「脳波をベータ波からアルファ波にシフトする」形式であって、要するに、意識レベルの『底上げ』なんですね。脳波なんて測ったことないですけど。

 対してさっきのような「全てを感じる」ときは、おそらくデルタ波やシータ波になってるんじゃないかなーって気がします。
 そういう意味では、目覚めとか悟りとかってのも科学的にはベータ波以外の脳波状態のことと言えるのかもしれんです。よく知らんけど(ぇー



 で、昨夜のこと。
 久々に、湯船に浸かりながら軽くワインをひっかけたんですよ。

 そしたら、すんごい吐き気とか目眩とかでもう一晩中グロッキー。

 多分、軽い急性アル中みたいなもんだったのかな?
 何にしても今まで時々同じような事してもこんな状況になんてならなかったし、そもそもこの程度の酒量で酔っぱらうこと自体珍しいわけで、軽く焦ったりして思考がぐるぐる回ったり。

 あ、今日昼過ぎまで横になって既に快復してあるのでその点ご心配なく。


 ご存知の方はご存知の通り、思考ってやつは、
「この先どうなってしまうんだろう」
「あの時あんな事さえしなければ」
 と、過去や未来に意識のフォーカスを飛ばさせてしまうんですね。
 それで発生するのが、不安だとか恐れだとか。


 でも、ですよ。
 そんな時だからこそ、瞑想状態にある方がいいんです。


 で、そんな状態であるがゆえに、掌や足裏での集中がものすごく効果を発揮したんですよ。
 音や呼吸では、当時の自分ではたぶんそううまくはいかなかった気がします。

 そうして、しばらくいまここに意識を集中させていると、過去や未来に飛ぶ思考の渦の中では見えなかったことに気づき始めるんですね。

 たとえば、今日は仕事が休みで同僚に迷惑をかけずに済んだのは幸い、だとか。
 こうして肉体的な非常事態の時こそ瞑想にあるといい、という実体験としての教訓を得させてもらえたし、またこのような状態でも瞑想にあることができるのだと実際にわかったのが収穫、だとか。

 特に後者は、たわしが是とする「動中の静」の実践そのもの。
 もしかしたら、それを実感するために、この状態を引き寄せたのかもしれないなーなんて。

 とにかく、何かしら物事にはプラスに見ることのできる面があるわけで、それがにょきにょきっと、地面を割って生えてくるみたいに見えてくるんですね。瞑想状態に帰る癖をつけておくと。



 そんなわけで、とりとめなさすぎな文章になっちゃいましたが、結局なにが言いたいかっつーと、
 瞑想ってのは行為でなく状態のことで、その状態に至るための行為ってのは十人十色千差万別あって、自分に合ったやり方さえも時と場合と自分の在り様によっても変化するので、何もひとつの方法にこだわることないですよーってこと。
 むしろ固執しちゃうと、そこから瞑想とはかけ離れた方向にいっちゃうこともありますからね。体験者は語る(ぇー

 自由自在にいきましょ。

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とてもシンプルな煩悩の消し方。

 例えば、
 仏教でいう「預流果」に至った人からは、「有身見」という「煩悩」が消え去っています。

「有身見」とは、
「自分という、全体から分離し独立した存在が、存在する」
 という固定観念です。

「世界は私に冷たい」「世間は厳しい」「みんな社会のせいだ」
 これら全て、有身見という煩悩に基づく分離感から生まれる『誤認識』です。
 もう少し言葉を柔らかくしても、せいぜい『極度に偏った認識』です。 

 つまり、仏教で言われる「煩悩」のざっくばらんな正体とは、

 「固定観念」や「思い癖」です。

 よって、しばしばいわゆる悟りの境地に至るための道として扱われる、
 「煩悩を無くす」という実践は、
 イコール固定観念や思い癖を手放すこと、ということにもなります。




 今、イメージしてみましょう。
 

 家族に呼ばれて、廊下を普通に歩いているとします。

 「自分の力で自分の足を使って歩いている」

 その時大抵の場合、言葉にしてみれば、おそらく自動的にこう認識していると思います。

 このような自動的な認識、すなわち固定観念こそが、煩悩という名の思い癖です。



 その「家族に呼ばれて廊下を普通に歩く」という行為に必要なものを、可能な限り挙げてみて下さい。


 まず、廊下。
 板、板となってくれた木、木を育んだ山、土、水、光、空気などが必要です。
 廊下だけでなく、柱、壁、土台、屋根、建物、釘、塗料、断熱材、配管、配線、
 それらを組んでくれた大工さん、製材してくれた工員さん、板を運んだドライバーさん、
 また彼らの使う工具、機械、車、またそれらを形作った人々や材料、道路、燃料……

 足がなければ歩けません。
 それ以前に人体全体、血液、内臓、神経、少なからず歩ける形で稼動してくれていなければ歩けません。
 その人体全てを今の形に維持させてくれているのは、まず水と食料。
 水は、雲であったり地下であったり、様々な媒介を経てやってきてくれました。
 食料も、あらゆる天地の恵み、農家・流通の人々の力があって、やっと手元に届きました。
 水を飲むためのコップも、食料を食べるための食器や箸も大抵はあるはずです。
 衣服や布団や家や、他にもいっぱい挙げられます。

 家族がいなければ、生きていてくれなければ、呼ばれることはできません。
 空気がなければ、呼び声も届きません。
 家族を生かしてくれる食料や水やその他諸々は、上で挙げたものと共通します。

 これも忘れてはなりません。
 陸地、重力、そして地球。
 このどれかが欠けても、呼ばれも歩きもできません。

 そしてある意味最も肝要なのが、
「それらの内一つとして、自分の力でゼロから作り出せるものはない」
 という事実。

 こんな風に、挙げると本当に、きりがありません。



「自分の力で、自分の足を使って、歩いている」

 この、「自分がいて、自分の力でやっている」という自動認識、

 すなわち思い癖・固定観念は、

 先ほど挙げた無数の「支えてくれるあらゆる要素」を、

 それらへと繋がる認識を全部、まとめて豪快に覆い隠してしまいます。



 感謝が、思い癖を手放すことに繋がるとされる理由は、ここです。



 おかげさま。

 すべては皆の、おかげさま。



 そうやって感謝の対象を無数に挙げて、無限に拡げていくと、

 ある点で、大小無数の「ループ」「サイクル」ができあがるのに気付くはずです。



 なーんだ、全部、繋がったひとつのものだったんだ、と。



 あるがままに見るというのは、

 そんな「素の事実」を心の底から認め、受け容れる、ということです。

 統合、ワンネス、素粒子など、言葉を変えてもその根底に流れる意味は皆同じです。


 そうして認め、深いレベルで受け容れた時、

 無意識に握り締め続けていた思い癖が、するっと手放されていきます。

 すなわち固定観念が、外れます。


 もちろん、握り締めることがずっと習慣になっていたので、

 最初の内はまたすぐに握ってしまうでしょう。

 そしたらまた、感謝して、するっと放れていくのに任せればいいんです。


 「手放そう」と力を入れるのではなく、

 「あれ、手放しちゃった?」ってくらいに勝手に力が抜けて離れてくれるまで、

 感謝に没頭するのがコツかな?


 繰り返せば、慣れてきます。

 そして、そっちの方がずっと気持ちよく、心身にもとっても良い影響があると、気付けます。


 半信半疑な人は、それが本当かどうか他人に尋ねる前に、やりましょう。

 もちろんやるやらないは自由意志。強制するつもりもありませんしできませんが、

 やった人にしか、絶対にわからないことですから。



 ちょっと最近頭でっかちなエントリが増え出してきたのでその自戒と、
 せっかく「リスタート」したのだからということで、
 とっても原始的で初歩的で、核心的な部分をおさらい。

 ぶっちゃけ、悟りとか覚醒とかワンネスとか気にする必要は全然どこにも一切ないのよ。
 感謝を深め続けていけば、勝手にそこに辿り着いてるから。

 たわしの場合も、最初のきっかけの一つは、
 小林正観さんの「年齢×●万回のありがとうで奇跡が起きる(ただし途中で愚痴文句不平不満悪口泣き言を一切言わない)」だったしw
 実践すれば、奇跡はさておき、感謝習慣が絶対身につくから。


 かるくなろ。

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悟りAがあらわれた! 悟りBがあらわれた! 悟りCがあら(略

 前回のエントリの「悟っている」への反響が予想外だったのでw
 ちょっと今回は臨時&即興でエントリ立ててみました。

 ま、たわしのスタンス・解釈はこんな感じ、って程度で受け止めてもらえれば幸い。


 あ、そうそうその前に。

 前回のエントリを上げた後、ユウさん、そしていい気分.comのユキさんが、
(少なくとも個人的に)前回と密接に関連する内容のエントリを上げておられたことに気付きました。
 よろしければ、ぜひ目を通してみてください。

 キーワードは「私を知る」「自分に還る」「統合」。


 では、本題。


 ~・~・~・~・~・~


 言葉、とりわけ名詞には、それが持つ意味に無数のレイヤーがあります。


 「愛」は、時にただの感情のことであったり、時に無償の奉仕のことであったり。

 「神」は、時に崇拝対象としての偶像のことであったり、時に絶対権力者的な存在のことであったり。

 「悟り」も、時に日常の細やかな気付きのことであったり、時にいわゆる無我の境地などのことであったり。


 その解釈によって、同じ単語でも意味する本質は十人十色千差万別、加えて臨機応変です。

 でも、究極的なレイヤー(レイヤーという表現も語弊はあるけど敢えて)においては、

 「愛」「神」「悟り」……他にも「仏」とか「宇宙」とか「真理」とか色々ありますが、

 それら全て、一切のズレなく同じものを指しています。


 それが何なのかは、あまがっぱさんのコメントが非常に良い示唆を含んでいるので、そちらを解釈していただくとして。



「悟っている人は、存在しない」

 よく言われるこの言葉は、紛れもなく究極的な真理を示しています

 「究極的な意味での悟り」に至ると、「自分」というものが存在していなかったことに気付きます。

 「自分」が存在していないのであれば、「悟った人」も当然存在していないのですから。

 (だから2行上の文章も、本来的確な表現ではありません。自分がいないのに誰が気付くのか?)


「悟っている人は、存在しない」

 でも同時に、言葉である以上、これは真理そのものではありません


 以前ありがとう仙人さんのブログから引用させていただいた言葉を再度借りれば、

『言葉はすべて二元的だ。反対の言葉がなければ、言葉を持つことは出来ない』んです。



 ありがとう仙人さんは続けて、

「言葉にした以上、必ず、反対の説明が成り立つのです。」

 とも語られました。(これはもう、自分的に完璧に納得と同意があるので、やっぱりそのまま引用)



 究極的なレイヤーにある「それ」そのものを、明確に言葉で表現することはできません。絶対に。

 なぜなら、「それ」は言葉という概念の外にあり、また言葉ともゼロ距離にあるものだから。

 言葉は、言葉の示せる範囲の外側にも、また言葉それ自身にも、手が届かないんです。

 「言葉」を、「理屈」や「思考」に置き換えても同じ。



 ちょっと変な例えに思うかもしれませんが。

 たとえば、白くて固くて表面に無数の窪みがあって丸い物体があるとして、

 「それは白い」
 「いやそれは固い」
 「いやその表面には無数の窪みがある」
 「いやそれは丸い」

 と個々のエッセンスを指差すことはできても、

 「それはゴルフボールだ」

 と一発で言い表すことは、ゴルフボールでは可能でも、「それ」の場合は不可能です。

 「群盲象を評す」という成句そのままです。



 だけど逆に、言葉が真理を指し示す方向指示器になるのも事実です。


「悟っている人は存在しない」

「悟りではない人も存在しない」

「誰もが始めから悟っている」


 方向指示器として、てんでバラバラの方向を指している上記の言葉、

 これら全部、同じ意味です

 そして、これらが指す「悟り」とは、全て究極的なレイヤーに属します。

 示す先にあるものは同じでも、各方向指示器の「立ち位置」「現在座標」「立脚点」が違うから、

 同じ「悟り」を示していても、全然別の「方角」を向くことになるんです。

 ある場所に置けば正しい方向を示す方向指示器も、別のある場所に置けば見当違いの方向を示します。

 『体験を持ち運ぶな』『月指す指は切り捨てよ』とは、それを戒めた言葉です。


 そもそも、原理的に『言葉は「それ」たりえない』と同時に、

 究極的には『言葉も「それ」でできている』んです。

 これこそがまさに、言葉の持つ二元性というものです。




 一方、前回のエントリで川´ー`)が告げた「悟っている」とは、

 『究極的なレイヤーに属する意味では(必ずしも)ありません』。



 直後に使われた「預流果」。仏教用語です。

 これが含まれる、悟りに至る段階を表した「四向四果」には、さらにその上として、

「一来向」→「一来果」→「不還向」→「不還果」→「阿羅漢向」→「阿羅漢果」と6つもあります。

 ちなみに「預流果」の前が「預流向」。


 更に阿羅漢の上には、須弥山という(いわゆる)悟りを開いた者達が住む山があるとされ、

 その中には更に、このような階層があります。


 如来(知恵と慈悲を持っている。大日如来、阿弥陀如来など)
 ↑
 菩薩(慈悲を持っている。観世音菩薩、地蔵菩薩など)
 ↑
 明王(魔を調伏する力を持っている。不動明王、愛染明王など)
 ↑
 天(一芸に秀でている。弁財天、帝釈天など)


 つまり、手っ取り早くこの構造を用いて説明すれば、

 「預流果」の段階では、「究極的な意味での悟り」を得て(自覚して)はいないんです。

 「それ」が何なのか、には一応気付いていますが。


(余談ですが、この概念でいくと、
 「一芸に精魂込めて注力し、またそれに秀でている人は、「天」として悟っている」わけです。
 たわしもこれは、本当のことだと思います。
 武道、スポーツ、手工芸、芸術芸能、家事、商売、何だっていいんです。
 無心に打ち込むのは、それだけである意味立派な一つの「悟り」です。)



 ご覧の通り、現状たわしは「リセット」あるいは「ループ」しています。

 内面的に、ゼロからとは言えないけれど、1からのスタートを切りました。

 実際そうなのかは説明も証明もできないけど、なんとなくそんなつもり(ぇー


 だから、かつて「気付き」に変わったはずの過ち、「無明」にも、

 泥水にヘッドスライディングするように再び遠慮なく飛び込んでます。


 たとえば、

>でも、これはかつてあれだけ強い自覚と認識があったことなのに、
>なんで思い出し直すような状況を作らなきゃいけないのさ。


 前回冒頭でこう書いた、これまさしく、現在の否定と過去への執着です。



 どういうことか、というとつまり。

 今のたわしは、「今この瞬間」への安住から敢えて(無意識に?)離れ、

 一旦脱ぎ捨てた「気付き」の意図的な再発見・再認識と、それに基づく「在り方」のリビルド、

 大仰に言えば生まれ変わりの最中にいます。


 ……いや、実際は言葉でいうほどカッコよくはないですよ?ww


 だから、究極的にも、表層的・あるいは中間的なレイヤーに属する「意味」にも、

 遠慮なく「解釈(誤解)しうる」言葉を使っています。ユーザーフレンドリーそっちのけ。


 阿部さんの言葉をそのまま借りると、

真実は、理解の段階によって変化します。

 あの「悟っている」は、

 その段階を、誤解の恐れは承知の上で、意図的に「落として」表現したものでもあるんです。




 ものすごくお節介な忠告なんですが、

 特にこと精神世界系のブログなどでは、この「語り手」が意図する「段階」「レイヤー」を読み違えると、

 その語らんとする意味が全く伝わらないばかりか、見当違いの方向に矢印の向いた案内板と同じく、迷走を誘発します。

 それが悪いことかどうかは別問題として。



 コトノハさんや敦さんが自評する「悟ってない」とは、

 おそらくこの「究極的ではない」レイヤーを指していると思います。

 そのレイヤーに「悟り」の意味を置いて言えば、

 正直言うと、たわしもうずらさん同様、どおでもええ派ですw



 そして同時に、「究極的なレイヤー」に意味を置くと、

 あまがっぱさんのコメントそのまんまで、

>「そりゃ…旦那、無理な話ですぜ」

 となるわけです。全くの大正解。



 だから、同じ「悟り」「愛」「神」という単語でも、

 使い手が意図するレイヤーが違えば、話が全くかみ合いません。

 当然この場合、仮に討論したって不毛です。前提から噛みあってないんだもの。

 宗教戦争の発生原理ってまさにここなんだよね、とミサカはミサカはちょっとぼやいてみたり。(誰だ



 えっと、そんなわけで。

 個人的かつ「一面的な」結論を申しあげますとですね。
          ↑これ重要

「悟っている人・いない人はいたりいなかったりするけれど、究極的にはみんな悟りそのものだよー」


 はい、んじゃみんな、風呂入れる人は気持ちよく風呂入って、
 そうじゃない人もごろんと横になってぐっすり寝よー!w

   (_ _ )
    ヽノ) おやすみなさい
     ll
       ⊂ ⊂ヽ、  /)/)
          c、   `っ(  ヽ
        (   v)c、  `っ
          V''V  (   v)  / ̄`⊃
               V''V   |  ⊃
                   (   v)  ハ,,ハ
                     V''V  (・ω・ )
                          ⊂⊂ ヽ
                           >   )
                          (/(/
                                 <⌒/ヽ-、___
                               /<_/____/

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忘却の意義

 全ては皆のおかげさま。
 全て、完全に自分以外、他の皆の力を頂いて、
 『生存』――つまり、生かして頂いて、存在せしめてもらえている。


 それを、忘れてた。
 それが、先日の最も大きな原因です。


 こんな大切で、根本的な原則を、なんで忘れてたんだろ。

 やることがあって、その手段として思考のスロットルを開放し続けていたせいか、
 自分の力で生きているのだという観念が知らぬ間にまぎれこんで、増殖していたみたい。

 だからって、どうして忘れてしまうような状況を引き寄せたんだろ。


川´ー`)「思い出すためじゃよ」


 いや、それは以前から何度も聞いたよ。
 思い出すために忘れる、って。
 でも、これはかつてあれだけ強い自覚と認識があったことなのに、
 なんで思い出し直すような状況を作らなきゃいけないのさ。


川´ー`)「ならば質問じゃ。この世の絶対的な法則とは何じゃ」

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反省だけなら猿でもできるって言うけどかといって猿が反省するかというとそこんとこどうなの

 ちょっとワケあってですね、ここんところ「思考」の稼働率を上げてたんですよ。意図的に。
 そしたらたぶん、「自我」の活発度も増したんでしょうね。
 気付かないうちに「望まない波動」と同化しちゃって、
 知らず知らず「望まない観念」を握っちゃってたんでしょうね。

 ぶっちゃけると。
 今朝上げた前回のエントリ、
 たわしの自身の「望む在り方」に大きく背いちゃってます。

 いくら「全てにYES」とはいっても、だからって無軌道に暴走するのとは意味合いが違う。 
 いやほんと、誰に指摘されたとかじゃないんだけど、正直猛反省中。o(_ _o)

 特に阿部さんのエントリをそのダシに使ったと言っても過言じゃない形にしちゃってるし……あーもう、ごめんなさい。


 でもね おかげさまで、
 「自分は何を望み、何を望まないのか」
 をひとつ改めてハッキリと浮き彫りにしてももらえたんですよ、今回。

 ちょいと今は思考の影響で「いまここ」の感覚にうまく入れてないんで、「あちら側」の声が途切れちゃってるんですが、
 もしかしたら、そんな意図があったのかもしれません。


 ころんでもただではおきない。


 てなわけで、
 不本意な記事ですが自戒のために消さずにそのままにしといて、ちょいと頭冷やしてきまする。ノシ

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