常に曖昧に。
keiziさんブログの先日のエントリを読んでふと感じたこと。
(というか、読む少し前に個人的な日記に書いてたこと)
「スピリチュアル」というモノに対する人の解釈、あるいは姿勢には、二種類あると思う。
スピリチュアリティと、スピリチュアリズム。
前者は、霊性。
言い換えれば、霊性を発揮して生きるということ。
あるいは、霊性本来の神聖さを発揮して、ということかもしれないです。
それは同時に、
「『この世に霊的ではないものは存在しない』がゆえに、『スピリチュアルなど存在しない』」
ってことを理屈を越えて理解している。
つまり、「すべてはひとつ、ひとつはすべて」という、
限定された霊性という概念のみにとらわれない深い敬意と洞察が伴っている。そんな姿勢。
後者はイズム、すなわち主義。要するに、霊的主義。
主義が生み出すもの、あるいは生み出される基盤は、分離であり、分離に伴う排他。
だから、霊的主義に軸足を置くと、大なり小なり、自覚の有る無しに関わらず、必ず物質面を軽んじる。
この極地が精神至上主義と言っていいと思う。
気合さえあれば何でもできる、できないのは気合が足りないからだ、みたいな。
まあそこまで突っ切らなくても、イズムな時点で既に、霊性と物質性を別々のものとして捉えている、そんな姿勢。
つまり、スピリチュアルと称されていても、両者は完全に異なるわけで。
主に「スピリチュアル」として悪い意味で槍玉に挙げられるのは、スピリチュアリズムの方じゃないかな。
だから。
スピリチュアリティ(霊性・精神性)は、
スピリチュアリズム(霊的主義・精神主義)を手放す事で初めて万全に現れるんです。
どういうことかって。
さっきの繰り返しになるんですけども。
だって、この世に、スピリチュアル(霊的)でないものはないんですから。
新聞紙やクエン酸や重曹でいろんなものを掃除できる。これもスピリチュアル。
イースト菌が発酵ガスを出してくれてパン生地が膨らむ。これもスピリチュアル。
交差点にミラーが設置されていてくれるおかげで、出会い頭に衝突しないですむ。これもスピリチュアル。
さて。
そんな世界の根っこの中で、ですよ。
スピリチュアル(精神世界)なんて『ジャンル』は、いったいどこに存在しうるんでしょうね?
たわしが現状ブログランキングの類に参加してない理由は、まさにここ。
いやさ、参加してもべつにいいんだけどね……まだその気にはなってない。