常に曖昧に。
よく、謙虚にしなさい、謙虚にするといいよ、
って言われますよね。
その「謙虚」って、一体何なんでしょうね。
謙虚の「謙」の字には、へりくだる、控えめにし他に譲るという意味があるわけですよ。
けどそれは、「いえいえ私なんてつまらない存在でとてもとても……」なんてニュアンスと思われがち。
それってまかり間違えば、単なる卑下ですよね。
そして、「謙」だけでは「謙虚」にはならないわけで。
「虚」も揃って、はじめて「謙虚」です。
じゃあ、「虚」とはなにか。
空っぽであることです。
この場合、「自分」が空っぽであることです。
「自分」とは「器」です。
通常この器は、「我」と呼ばれる粘っこい液体でたっぷたぷに満たされています。
満たされているから、もうそれ以上何も入りません。
宇宙の恵みという、流れ来る、さらさら澄み切った別の液体が注ぎ込まれる余裕なんて、1デシリットルもありゃしません。
そんな、器に満たされたものを一度、大なり小なりざばっと捨てちまうことで、流れが注ぎ込まれる余裕ができるわけです。
器が空っぽであることで、あるいは空っぽに近づくことで、流れ来るものを受け入れることができるわけです。
じゃあ改めて、謙虚とは何か、となると。
つまりは、
「宇宙に我をゆずり、自らは虚であること」
です。
宇宙に我をゆずり、自らは虚であることとは何か。
今、目の前に訪れ、そして訪れ続けているあらゆる現象は、
宇宙が起こした、宇宙からの贈り物(Present=今)です。
その中には、頼まれごと、あるいはやる羽目になったこと、といった類のものもあるでしょう。
宇宙から与えられ、自らの元に送られてきた、それらのあらゆる機会に対して、
不平や愚痴や文句を返さず、あるいは悲観や不安に惑い翻弄されず、
要はプレゼントを受取拒否せずに、
ただ淡々と、あるいは喜んで、着手しこなしていくこと。
だから、
「いえいえ、(つまらない存在である)私には到底力不足(と自己評価しているの)ですから、とてもそんなことはできません」
というのは、宇宙に我を譲るでも、自らを虚とするでもなく、
むしろ全くの正反対で、我を張っているだけの傲慢なんです。
そう、「卑屈=傲慢」なんです。
こう書くと、
「要は頼み事には何でも応じろってことだよね。
じゃあ金を貸してくれとか、
素手で100トンの荷物を運んでくれとか頼まれても、
それに応えろってことかい?」
なんて疑問が出るかもしれません。
お金をせがまれるのは、その人ではなくお金に用があるので、別に無理して応えなくていいんです。
もちろん、お金に余裕があって、また貸すよりも貸さずにいる方が自分が嫌な気持ちになるのがわかりきっているなら、貸すといいでしょう。
100トンの荷物なんて、素手じゃ持てません。
明らかに物理的に無理な頼みごとは、そもそも宇宙の自然な摂理に反してますから、頼みごととして成立しません。
ただ、たとえば、
「あの築山の土を全部、スコップ1本でここに移動させてくれ」
って具合のことなら、敢えて淡々と挑戦してみてもいいかもしれません。
期限も切られてないし、淡々黙々と土を掘っては運び続けていれば、物理的には絶対不可能ってわけじゃないですから。
そして、そういった一見すると無理難題な頼まれ事を「馬鹿になって」やり続けていると、
初めは馬鹿馬鹿しいと思って見ていた周りの人も、いつしか手伝ってくれるようになるかもしれません。
手伝ってくれなくても、あの人はすごい人だ、ああいう人は支えてあげなきゃ、と大勢味方に回ってくれるかもしれません。
それは、とてつもないリターンでしょうね。
だって、それって無敵になれるってことですよ?
みんな味方になる。
敵がいなくなる。
だから無敵。
あら。
謙虚な生き方ってのはつまり、無敵な生き方だったわけね。
↓参考までに。
いまここ「カラッポの船」