常に曖昧に。
万物は波動でできている。
目に見えるものも見えないものも、全部。
肉体も、水も空気も食料も、思考や感情も。
これ、精神的世界じゃ常識と言ってもいいと思います。
また、科学的にも次第に同じ事が証明されつつあるそうですね。
ところで。
食べ物や飲み物は、体を養い、体が動くのに必要なエネルギーとなるだけのもの、
っていうのが栄養学という化学的な捉え方。
でも、個人的な実感として、
「飲食は、ダイレクトに思考や感情へと影響する」
と言わざるを得ません。
具体的には、
・少食、粗食、穀物菜食を心がけていると、心や思考が落ち着き、感じ取れる世界が澄み渡ってくる。
・多食、大食、暴飲暴食・肉食に溺れると、心も思考も乱れ、世界が不安に満ちたものに見えてくる。
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今日は厚着したわたしを見て、「寒そうね」なんていう人が何人かいた。
それって、とんだ見当違い、考え違いでね。
気遣いはありがたいけど、何も事実を見ちゃいない。
わたしは厚着させて頂いているから、あったかいし、寒くないの。
そういうことを言ってくる人は揃いも揃って、寒い寒い、嫌だ嫌だと愚痴ばかりこぼしてる。
それって、とんだ苦痛自慢、不幸自慢でね。
気持ちはわからなくもないけど、誰も幸せにしやしない。
わたしは幸いなことに、厚着できるだけの服も皆のお陰で持たせて頂いている、幸せ者なの。
てなことをやんわり答えたら答えたで、
手が冷たい、足先が冷たい、だから寒いものは寒い、そんな風に返ってくる。
それこそ、本当はとんだ心得違いでね。
いや、冷たいものは冷たいってのは別にいいのよ。
そこじゃなくて、手が冷たい、足先が冷たいって、要は部分的な感覚刺激を、
総身全てがもれなく冷たくて凍えて寒くてどうしようもないと勘違いしてやいないかい?
ってこと。
山奥やシベリアや南極ならいざしらず、
この日本の都会でそれなりの防寒着を宇宙に着させて頂いときながら、
胴やら腰やらの温かさには目もくれず、手足が冷えることばかりに文句を言う。
冷たい部分ばかりに関心を寄せて、暖かい部分には意識を向けてない。
せっかく温もりを得てるのに、冷たいばっかりクローズアップした挙句、文句が出る。
手足が冷たいイコール寒い、と自動的に判断することが絶対的に正しいことだと、
勘違いを勘違いと思わないまま勘違いしているから、文句になる。
これってそのまんま、幸と不幸・運と不運にも当てはまるんだよね。
「冷たい」は現象。
「寒い」は価値判断。
今日は陽光の中で雪が舞い散る、美しく幻想的な空間を歩きながら堪能。
無限の恵みに、ありがとうございます。
<運命は、我々に幸も不幸も与えない。ただその素材を提供するだけだ。
それを、我々よりも強い我々の心が好きなように変えたり、用いたりする。
我々の心がそれを幸にも不幸にもする唯一の原因であり、支配者なのである。>
モンテーニュ「エセー」より。
人生の99%は、何の疑いようもなくうまくいってるんだよ。
残り1%も、うまくいってないように見えて、うまくいってるんだよ。
1%を無理矢理100%に粉飾して不幸自慢するくらいなら、
99%を四捨五入して幸福自慢してみなよ。そっちのが楽よ。
そんなこんなで。
昨日はさんざっぱら電波カーニバルな戯言を、
産廃不法投棄ばりに垂れ流させてもらっちゃったわけですが、
今更ながら、あれ全部、
(; ̄Д ̄)<妄想ですから!(ぇぇー
(c)m●caさん
いやぁ、ぶっちゃけね、そのくらい恥ずいww
天照さん絡みについても、後出しじゃんけんと受け取られちゃう恐れがあるのはどうしても否めないし。
けどね。恥ずい以上にどういうわけか、
全部明かして吐き出して、すっごくスッキリというか、心が楽になったんです。
今まで誰にも言ったことなかったことだったからかもしれないけど。
そもそも、後出しじゃんけん扱いされる可能性も、もちろん始めから承知の上。
始め(一気に書くと決める前)は、その点正直踏ん切りがつかなかったんですが、
川´ー`)「後出しだろうが先出しだろうが、わしらの次元では全く関係ないぞ」
なんて言われたり。
更に公開を決意した一昨日から昨日書き終えるまでのたった二日間に、
度々繰り返しこれでもかと目にしたエンジェルナンバーがありまして。
それは「555」、そして「1&7」。
自己顕示欲かもという不安だって、そりゃぁありましたよ。
だけど、書き上げて公開してみて、ようやく改めて明確に察したことがあるんです。
まずこうしてブログに人目に触れる形で、今自分が触れている要素を、書きまとめる。
いわばのっぴきならない状態に自分を追い込む。追い込んで、一時的にでも自分への枷を外す。
この全てが、現段階の自分にあるエッセンスを再整理・再確認するための手段だったと。
同時に、その再構成によって、また新たな創造を進めていくための一プロセスだったと。
思えば、それをはじめから川´ー`)に促されてたわけで。
だから、あんな風に書いたのも全部、原則的に、
『自分のため』
なんです。
『自分が幸せであると認識し続ける』
という信念に基づく方法論の、一環なんです。
どこまでいっても、自己中心的なエピキュリアン。
それが「私」という人間稼業、その現在の奥底です。
とはいっても、そうしてできた落書きが、もしかしたら誰かの役に立つかもしれないね、ってのもあるにはあります。
見知らぬページで目にした何気ないワンフレーズで、大きな気付きを得たこともある自分のように。
とはいえ、そっちはたわしの責任範囲を超えますから、どうにもできません。
だから、どうにもしません。
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一日四度のアップはこれっきりに以下同文(ぇぇぇー
思いっきり余談なんですが。
ニール・ドナルド・ウォルシュ氏の『神との対話』シリーズという、その業界では超有名(らしい)な本がありまして。
二ールさんはエイブラハムとの対話の推薦文も書いてて一応存在は知っていたんですけど、どんな本かまでは全く知識がなく、そうこうしている内に読み始めたあくえりあんさんのブログで、
「ブックオフでたった100円!」w
ってのを知って、ああ、なら読んでみようかなーと探しに出かけたのが去年末のこと。
でも近所に二件あるブクオフには置いてなくて、
ああ~、今回は縁がないのかな、と思ってしばらく放置してたんですね。
そうして忘れた頃(ちょうど例の有漏地フィーバーの少し前)、
やけに川´ー`)がせっつくもんだから面倒くさいけどなんとなく遠出して行ってみた別のブックオフで1・2・3巻まとめて発見。( ̄Д ̄;)
手持ち軍資金の都合もあって、別シリーズの『神との友情』上下巻も含めて二回に分けて確保成功!
……ま、100円だったのはハードカバー版全5冊中1冊でしたがw
しかし特筆すべきはそこではなく。
その発見した日の帰り。
気まぐれにふらっと立ち寄った別の古本屋で、『アクセル・ワールド6』を見つけたんですね。
シリーズは5巻まで全部新刊で買って通しで読んだんですが、当時実は6巻が出てたのを知らなくて。
川´ー`)「わしの導きを素直に受け容れたご褒美じゃ。受け取るがよいぞ」
ご褒美って、自分で買うんじゃないか!ww
川´ー`)「今手に入れねばもう割安で手に入れる機会はないじゃろうな。おぬしはこの手の本(※ラノベとかコミックとか)は新品で買いたがる癖があるからの」
うー。(-公-;)
そんな風に説き伏せられ、当時ワケあってちょっと倹約したのもあって、結局ゲット。
そうして読んでみたら、『ご褒美』に秘められた意味は実は価格だけじゃなくて、
個人的にとってもびっくりのシンクロニティ。
ネタバレになっちゃうので詳しくは書きません。
知りたければ是非読んでみてください。できれば1巻から(ぇー
キーワードは、
『6巻で初登場のキャラ』、
『【UI】』、
そして『巫女』!(これだけでバレバレだw
ちなみに『アクセル~』はとっくに読破したけど、『神との』シリーズはまだ半分も読み終えてません(ぇー
そんなシンクロ大好き・茶目っ気たっぷりな宇意さん川´ー`)。
今回は前回の引きで触れた、転換のためのトリガーとなった「とある伝達」について書きます。
それは、川´ー`)の、言うなれば素性、あるいは正体と言えるもので。
宗教的なものに寛容な方だけ続きをどうぞ。
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一日三度のアップはこれっきりにしたいww
記事の雛形は随分前に作ってあったんですけどね、
さすがにこんな話題&分量を読むに堪える(堪えるのコレ?)ようにまとめて清書するのはちと一仕事だわぁ( ̄∀ ̄;)
とまあ、それはともかく。
前回・前々回と物語的なスタイルで電波なこと書き連ねてきましたが、
実はこんな物語なんて存在しません。(ぇー
いや、真っ赤な嘘をついているというわけではなく。
物語として語る「過去」が「『今この瞬間』であった時」は存在したけれど、
それが過去となった今、その物語は記憶という非実在の中にしか見て取れない、ということ。
たとえば実際のところ、
前回は川´ー`)が守護霊ではないと知ってすぐに、川´ー`)の姿をイメージしたみたいな描写になってますけど、本当はその間に随分と(一ヶ月くらいかな?)間があって。
当初は、(今思えば雲さんみたいなスタイルに憧れて)どんな姿か見せてくれない?って聞いてみても、
川´ー`)「その必要は無い。例えばあの世に聞いたこの世の仕組みでは、ブログという可視性のコンテンツに影響する上でも都合が良いゆえに、視覚化できるイメージがもたらされたのじゃ。現段階におけるおぬしにはまだ早い。イメージを産めるほど接続は安定しておらんし、また安定しておっても現状その必要も無い」
って突っぱねられたんですよ。
萌え系巫女さん(笑)の映像が出てきたのは、それから少々月日が経った後の話で。
要は、今思い出し書き起こしているこの物語は、過去を実在化するものではなく、
「単に『今この瞬間』に思い出している記憶情報をベースとして、
更にある程度記事として読みやすいよう編集を加えたもの」
にすぎません。
だから、長々と目を通して頂いておきながらこう言うのも心底申し訳ないんですが、
こんな物語を見ても実は大した、どころか本質的には全く意味なんてないんです。ぶっちゃけ。
重要なのは、今この瞬間あなたが何を思い、何を感じているか。
それこそがあなたのリアルであり、あなたの作っているリアルである、ということ。
リアルは外側ではなく内側に、過去でも未来でもなく今この瞬間にあるということ。
全ての存在は、人格も、状況も、あなたも、わたしも、
常に一瞬一瞬、新しく生まれ変わり続けているんです。
一瞬過去の自分がこうだったから、一瞬後である今この瞬間の自分もこうあらねばならない、なんてことはないんです。
諸行無常すなわち変化という連続性はあっても、それは決して、
「(過ぎ去り、すでにそうである)過去が今この瞬間の自分までも固定する」
というものではないんです。
今この瞬間を感じ続けるということは、
その一瞬の連続性の中にある、無量大数すら超える量の無限微細な刹那の数々を全て、感覚という意識のマウスポインタに捉え続ける、
という感じで喩えられることでもあるんです。分かりにくい比喩ですみませんが。
いずれにせよ到底、思考や理屈というものの処理能力で捌ききれる領域ではありません。感覚で捉えるしかないんです。
その要諦だけ、わかるならわかるなりに、わからないならわからないなりに踏まえておいてもらえれば、と思います。
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