常に曖昧に。
さーて、年の瀬にもなって一年半以上ぶりに更新再開したと思ったら、何書いてやがんだこいつ頭おかしくなったんじゃねーべ?
……とお思いの皆々様、実は、おかしいのは最初からです(ぇー
んなこたぁ知ってるよだってさ。ぺっ(ぇー
……まあ、ちょっとした紆余曲折とめぐり合い(?)があったんですよ。
で、知ったんですよ、自由なんだーってw
だからこのブログも自由にやることにしますた!すた!
ただそれだけです。
それ以上でもそれ以下でもないブッチャン的に。
そんなわけで、理解の範疇を超えることを書き流してても、あんまり石とか消火器とかは投げないでいただけると幸いでs(´¬`*)
ちなみに気付いちゃった人は解ってるはずなのに水を差すみたいだから誰も言わないんだと思うけどそこを敢えて放言しちゃうと、年の瀬とか新年とか本当は幻だかんね!(ぇー
もちろんたわしはそういう文化としてがっつり堪能しますけどっ!(ぇー
そんなこんなで皆様良い音塩ー(伝わる人には伝わるミスタイプ
<あなたが何か物を欲しがっているとき、
あなたが本当に欲しがっているのは、
その物自体ではなく、その物を手に入れたときに味わえるあなたの感情です>
それが真実かどうか知りたければ、自分の本当の内面と真摯に対話してください。
でも、多くの人は、その行為すら難しいかもしれません。
なぜなら、多くの人は四六時中思考や心の内に様々な雑音(ノイズ)を垂れ流し続けているからです。
不安、恐れ、悲嘆、後悔、愚痴、悪口、不平不満、文句、泣き言、
そんなネガティブなものはもちろんですが、あるいは将来への希望や展望など一見ポジティブなものも、実はノイズである場合が多々あります。
なぜそれがノイズなのかは後で軽く触れますが、とにかくそんなノイズだらけの中では、自分の「本当の」内面からくる微細な「声」は、簡単にかき消されてしまいます。
でも、そんなノイズ、むしろ騒音エンドレス状態であることにさえ、気付いていない場合がほとんどです。
普段暮らしていて、冷蔵庫の動作音って気になります?
いつも鳴り続けているから、大抵は慣れてしまって気にすることすら思いつかないでしょ。
それで、ふと停電にでもなって、その音も消えたときに初めて、
「あ、こんなに静かだったんだ!」って、冷蔵庫からのノイズが「それまでずっと存在してたことに気付く」。
ちなみに、それに気付けるようになる、つまり「意図的に停電状態を発生させる」のが、いわゆる瞑想です。
瞑想と聞いて、結跏趺坐して印を組んで半眼で微動だにせずに~なんて堅苦しくイメージする人もいると思います。
でも、それは行為です。
瞑想は行為じゃありません。
今この瞬間に、心と意識が集中している「状態」のことです。
だから、別に座ってなくても、立っていても歩いていても運転してても台所で玉ねぎの皮を剥いていても、瞑想はできます。
その状態にある間、一切の例外なく、上で挙げた「ノイズ」の数々は、存在することができません。
なぜなら、それら「ノイズ」の全ては、「今この瞬間」ではなく「過去」や「未来」に心と意識がタイムスリップしている時にしか、発生しないからです。
それは「今この瞬間にしか実在しえない」自己の力を、「過去や未来という非実在」に注ぎ込んで捨ててしまうということ。とんでもないパワーロスを産む行為です。禅でいえば有漏地(うろじ)。
言い換えれば、瞑想とはそのパワーロス行為をやめること。要は、行為に対する「無行為」です。
……さて。最初に戻りましょ。
<あなたが何か物を欲しがっているとき、
あなたが本当に欲しがっているのは、
その物自体ではなく、その物を手に入れたときに味わえるあなたの感情です>
瞑想などを通じて自分の本当の内面の声に気付けたら、それが本当かどうかはわかります。
もちろん、物を欲しがることが悪いなんて言うつもりは毛頭ありません。
どんどん欲しがったっていいんです。それも自由で立派な一つの方法です。
伝えたいのは「『その物(外側)を得ることでしか、本当に欲しい感情(内側)を得ることは出来ない』という無意識の思い込み=固定観念に嵌っていませんか?」ということです。
もしそれを飲み込めたなら、物に依存しなくても楽しめるようになるきっかけが手に入ります。
依存しても楽しめるけど、依存しなくても楽しめる……つまり、選択肢がぐんと拡がります。
だって、感情にお金がかかりますか?
タダで本当に欲しい結果が手に入るなんて、お得だと思いません?
納得するも、バカバカしいと思うも、全ては自由です。
某所で「悟り」についての話題があって、ふと思ったこと。
本当は、この世に悟った人なんていません。
だって、悟るってのはある真実に気付くってこと。
いわば、どんなに否定しようとしても否定のしようもなく、ある意味力ずくとさえ言えるくらい圧倒的に、だけど素直に納得させられてしまう現象。
その真実に気付いてしまうと、あらゆる存在・非存在の一切合財が、例外なく全て同一で単一で唯一のものだって理解してしまうから。
そうすると、悟った人は、その自分以外の存在・非存在は全て自分だって見抜いてしまう。
すると、「自他」でいうところの「他」が消滅しちゃう。
「彼我」の「彼」でもいい。とにかく消えちゃう。
でも、それだけじゃない。
「他」が消えちゃうと、「自」も存在できなくなっちゃう。
なぜって、よく考えてみてほしい。
「自」も「他」も、互いの関係性なくして、互いに存在できない概念でしょ。
「右」という指向なくして、「左」は存在できない。
「硬」という評価なくして、「軟」は存在できない。
「悪」という観念なくして、「善」は存在できない。
片方がなくなれば、もう片方は比較対照を失って、ただ「それ」としか認識できないでしょ。
水密隔壁で左右に区切った水槽に水を満たせば、右の水と左の水で別れているように見えるけど、その隔壁を取り除いて境界がなくなった途端、右の水と左の水を区別できなくなっちゃうでしょ。それと同じ。
だから、悟った人は、悟った時点で、悟った人の自己、悟った「私」が消えちゃうんです。
よって、この世に悟った人なんていないんです。
ただ、「悟りの状態」があるだけなんです。それが本質です。
……。
でも、やっぱり、悟ってる人はいますw
矛盾してる? でも正しいの。
言葉なんて、一度に一方向からしか物事を表現できないとても不便なツールなんだから。
ついでに言えば、「正しい」も「しか」も「不便」も、「悟ってる人」の眼からみればただの虚構や虚飾でもあるわけで。
だけどこれもほんとは正しくなくて、「虚構」や「虚飾」というのも余計なわけで。
だけど「正しくない」や「余計」も以下無限ループ。
これが、言葉というものの限界。
大抵の人は、言葉で表現できないもの、理屈で成立できないもの、それらを拒絶し、否定する。
だけど、本当の「それ」、
その全ては、理屈を超えた、ものの見方の先にある。
固定観念を脱して、ついでに言葉という枠組みの形骸も脱して、自由自在に観れば観られるよ。
元々、最初は誰もが「それ」を観てたんだから。
ただそれだけのお話。
上のごとく下もしかり。
下のごとく上もしかり。
ずっと上にあると皆が思っている太陽は、
大気圏外に出てみれば下にあったり左にあったり後ろにあったりする。
あなたが下だと思っている方向は、
地球の真裏にいる人にとっては上になる。
上も下も右も左も、自分中心。
自分中心が生んだ固定観念。
そうやって、いつでも人は自縄自縛している。
しかも大抵、その縄の存在にさえ気付いていない。
だけど、他者中心になれば自由なのかといえば、そうじゃない。
なぜなら、自分中心以外のあり方は、ありえないから。
ここでのポイントは、自分中心の「自分」というもの、その解釈の根本的な、人類がずっと遺伝させてきた根深い誤解にある。
その誤解を、たとえば仏教では有身見(うしんけん)といって煩悩の一つに数えている。
地球に帰還した宇宙飛行士が、その後牧師や農家などへと転身するケースが多いというのも、上も下もない宇宙空間でそういった「誤解」を砕かれて、「本当のこと」に気付いたからなのかもね。
<人生を 楽しむ人は 観自在>
今朝海にログインして、鬼絵さんとの話の中でふと、そんな一句が浮かびました。
仕事、というか生業を遊び(あるいはゲーム)と捉えることができる人は、いろんなことを楽しみながら生きられます。
そんなことはできない、そんな風には考えられない、とほとんどの人は言うかもしれません。
本当は、人生に仕事も休みも存在しません。
仕事と呼ぶものも休みと呼ぶものも、その全てが、「人生」です。
ただ、人間の意識がそれを細かく切り取って、それぞれに仕事だ休みだと名札を貼り「定義」しているだけに過ぎません。
「できない」という人は、単にその原則に気づいていないだけです。
気づいていても、戯言や屁理屈と考えて認めていないだけです。
別に批判や否定をしているわけでもなければ、そのつもりもありません。
良いとか悪いとかの話ではなく、単にそうである、というだけです。
もちろん、仕事と休みを分けて捉え、そのメリハリからやり甲斐を見出しているのなら、それはそれでとても素晴らしいと思います。
でも、少なくとも自分の周りを見渡す限り、メリハリをつけているつもりであろうがなかろうが、大多数の人はそうであるようには見えません。
その人たちにとっては、仕事は生活のために不本意ながらも従事しているもので、更には休みも結局のところ次の仕事のための骨休めに過ぎません。
つまり無意識のうちに休みも仕事の内と捉えてしまい、結果休日にも息を抜ききれずにいるのです。
それでは、いつまでも疲れっぱなしなのも当然です。
「観自在」とは、「観ること自在」。
観音菩薩の別名である「観自在菩薩」の観自在です。
それは、あらゆる固定観念なしに、「あるがままの物事」を観ることができるということ。
観念とはつまり、「あるがままの物事」に対して人が意識の中で下す、「評価」や「定義」や「価値判断」です。
「これは仕事で、あれが休み」これも観念です。
そして「その観念によって定義された価値こそが現実である」と、それが確固たるものであると無意識的に決め付けてしまうのが、「固定観念」です。
「この価値こそが当然である」という「固定化された観念」です。
「この物事にはこんな価値があるのが当然で、当たり前である」という観念を何度も何度も何度も頭の中で繰り返してきた(あるいはそういう情報に触れ続けてきた)結果、固定化されてしまったのです。
固定観念は、大なり小なり、あからさまなものから一見そうは見えない巧妙なものまで、人間社会のあらゆるところに普遍的に存在しています。
むしろ、人間社会の構造は現状、固定観念によって構築されているといっても過言ではありません。
上で挙げた「大多数の人」はおそらく、この固定観念という「色眼鏡」を通して見た物事を、絶対的な現実だと思い込んで疑っていません。
その思い込みが、「いつまでも疲れっぱなし」…ひいては、幸せでない(不幸な)状況を継続させています。
逆に、「観自在」つまり色眼鏡を介さずあるがままに物事を見られる人は、同時にあらゆる観念=色眼鏡を自在に入れ替えて物事を見ることもできます。
多くの人が「不幸だ」としか捉えない出来事を、観自在の人は「幸いだ」とも「幸でも不幸でもない、ただの出来事だ」とも自然に、自由に解釈することだってできるのです。
(もっとも、自分でも気づかないほど固定観念にどっぷりとらわれちゃってる人からすれば、「そんなことできるもんか」と思うかもしれませんが…)
なら、「あるがままの物事」とは何なのか。
それは、いかなる物事においても、それを「物事という枠組み」に捉えてある以上は存在します。
とはいえ「定義の外にあるもの(禅でいうところの不立文字)」なゆえに、言葉によって「定義」してしまうと、矛盾しているようにも見えてしまいます。
それでもあえて、上の「仕事と休み」で自分なりの回答例を出すなら…
これも既に上で書いてますね。
「人生」です。
自分としては、しばしばこう考えています。
「人生というお仕事の余暇に、労働という趣味に従事している」
(言葉にすると前後の話と噛み合わない印象を受けるかもしれませんが、字面にとらわれず、裏に流れている感覚を汲み取ってもらえるとありがたいです)
とにかく、繰り返しになりますが、いかなる物事も「あるがままに観る」ことは可能です。
日々の生活の中でその原則を見出し、理解したとき、それまで「自分は幸せでない、不幸だ」と漠然と思っていた人は、その不幸は外部の物事によってもたらされていたもの(=自分が被害者)ではなく、不幸の原因を自分自身で後生大事に握り締め続けていた(=自分が加害者)であったことに気付けるかもしれません。
というか、いつかの自分がまさにそうだったなぁ…と、ふと思い出したクリスマスの朝のひとときでした。
全ての存在に、感謝。
ちなみにタイトルはメリークリスマスの略だから!(台無しだー