常に曖昧に。
かつて、我慢によって自分という木を枯らした。
幹を縛りつけ、枝葉を全て覆い隠し、
天と地の滋養を拒んで、痛めつけ続け、
そうやって枯らし、殺した。
次に、我慢をしないことによって、新たな自分は芽吹いた。
嘘のように流れ込む栄養と恵みに驚きと感謝を捧げながら、
枝葉をとにかくただ、茂るに任せるがまま茂らせてきた。
省みれば、その生命力に酔いしれるあまり、
萌えるばかりの枝葉を剪定することを、
心の奥底で邪道と見ていた部分があったように思う。
これからは、その枝葉を整えていこう。
整えたい枝葉は、何構わず剪定していこう。
我慢することを自分に許そう。
両極を知った今ならできるはず。
我慢という枠も超えた、第三の道にだっていけるはず。
<子路曰く「南山に竹あり、揉めずして自ら直く、斬りてこれを用ふれば犀革に達す。これを以てこれを言へば、何の学ぶことかこれ有らん」
(※南山の竹は矯正せずとも真っ直ぐで、切って使えば厚い犀革も貫くという。天から才能を与えられた者は、何も学ぶ必要などないのでは?)
孔子曰く「括してこれに羽をつけ、鏃してこれを礪かば、その入ること亦深からずや」
(※その南山の竹に矢羽をつけ、鏃をつけて磨けば、犀革を貫く程度ではすむまい?)>
「孔子家語」より。
myGAMECITYの「空の向こうに」で7万キロ超えた瞬間、
マウスの左ボタンが戻らなくなって爆死したwww
いや、十分ハイスコアだしマウス自体はすぐ直ったけどもw
それはともかく、とりとめもなくちょっとアレな話を。
たとえば前回の「あきらめる」の内容についても、確かに経験ではあるんです、あるんです、が。
なんといいますか、自分で書いた気がほとんどしないんですよ。
なんかするするといつのまにか指が動いていつのまにかアップしてたみたいな。
で、「あきらめる」を書いてアップしたまさにその日、
詳しい経緯は省きますが、精神的に大きくネガティブへ振れまして。
いや、現実的な出来事が起きたわけじゃないんです。
要は以前も書いたような「有漏地カリキュラム」。
いわば今この瞬間から遊離した思考の暴走で、ネガティブな想念ばかりが湧いてくる状態。
しかも、今回の波状攻撃の中で最大&最凶の。
ピンポイントで突かれたくないところを、
これでもかこれでもかこれでもかと突いてくる突いてくる突いてくる。
まるでシャイニングフィンガーソード(違
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何かを追究する「道」ってのは不思議なものでね。
そこに立つ人は大抵、難しく考える。
だけど「大事なこと」は何もわからなくて、
それでも、だからこそ難しく考えて、
難しく考えて、
難しく考えて、
難しく考え抜いて、
それでもやっぱり本当にわかりたいことはわからなくて、
悩んで、力んで、悶えて、
やがてそんな風にあり続けることに疲れて、力が抜けて、
そうして難しく考えることからすっと手を離した瞬間、
わかるようになっているんだ。
彼らが欲しがる「大事なこと」は、
あまりに当たり前すぎて、さりげなさすぎて、
いつだってただここに、そこに、
そしてこことそこの間の全てに在るだけなのに、
それなのに難しく考えるあまりに、
どこかにあるはずだと追い求め、
掴み取ろうとするあまりに、
気付けないでいるだけなんだ。
いいかい。
あきらめる、という言葉、
その本当に意味するところは、ただ断念することじゃない。
今まで、感じていたのに気付けないでいたもの、
見えていたのに見ていなかったこと、
「どこかにある」という思い込みの傘が生んだ影で隠れてしまっていた、
「いつだってここにある」大事なことへと、光が届くようにすること。
光を遮るものを手放して、影の中に埋もれてしまっていたものを明らかにすること。
「あきらかにせしめること」
それが、あきらめるという言葉の奥にあるもう一つの意味なんだ。
「この人の、こんな所が好き」
と言ってはばからない人の中には、
「この人」が「こんな所」にそぐわない部分を見せると、途端に眉をひそめる人もいる。
「この人」が自己を表現するのに「どんな所」を見せたって、自由なのにね。
結局、眉をひそめる人が好きなのは、
「この人のこんな所」でも「こんな所のあるこの人」でもなくて、
「こんな所こそがこの人だ」と言わんばかりに『あるがままの「この人」』を覆い歪めてしまう、
自分の「色眼鏡」なんだ。
……もちろん「眉をひそめる」のもまた自由であり、そして個性って場合もあるから、一概に斬って捨てるものじゃないのは承知の上。
ただ、「その見方しか選択肢にない」という不自由な状態に陥っていないかどうかが大きな分かれ目。
とはいえ、かく言う自分にも、大なり小なりそんな部分はある。
後から気付いて「あちゃー」となるばかりではなく、その時に気付けるようにもなったのは幸いだけれど。
それよりもむしろ、どんな『色眼鏡』で見られても、
自分そのものはいつだって天然色、あるいは無色だとわかったこと、
そして、何より、自分自身をそんな本来の色のままで見られる瞬間が昔より圧倒的に多くなったのが、嬉しい。
<有漏地より 無漏地へ帰る 一休み
雨降らば降れ 風吹かば吹け>
一休宗純
ちょっと、あっちに直接書くのはやめとけーってお達しが川´ー`)から来たんで、今日二度目ですがこっちに書いちゃう。
ってこっちならいいんかい……( ̄д ̄;)ビクビク
んーとですね、いわゆる精神世界ってカテゴライズされてる業界じゃ、
「あれは闇の罠だ」
「あの人は闇に支配されている」
「それこそ闇の思う壺だ」
って、「闇」って名称で忌み嫌われてる「もの」があるんですが、
「もの」って言っても、そこは精神世界。
形がないから具体的に示せやしません。
ま、そこはどーでもいいことですが。
たわしこれ、「レッテル」にしか見えないんですわ。
理由はどうあれ、「闇」って名付けちゃうことで、そこに固定化された観念を注入してしまう。
そうすることで、本来不可分なものを、あたかも摘出手術できるような状態におけたみたいに錯覚しちゃう。
ぶっちゃけ、
『「光」と「闇」とは別々のもの』
って思ってるわけですよ。多分大半の人が。
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