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おかゆは消化に良い?

 前回の続き。


 で、どうひっくり返すのさ。

川´ー`)「硬い物に異を唱えるならば、柔らかいものならばどうか、ということじゃよ」


 あー、あー……なるほど。
 異を唱えたっつーのも何か違うけど置いといて、そゆことなら。


川´ー`)「思いついたの。ならばそれで話を展開してみるがええ」


 おk。んじゃ早速……。



 いわゆる消化の良い食べ物の代名詞って言ったら、何を思い浮かべます?
 あくまでたわしの『「世間一般的な印象」に対する独断と偏見』で言えば、

   おかゆ

 なんじゃないかなと。

 消化に良いから、大して噛まないで飲み込んでも平気さー、
 だなんて無意識のうちに(←ここ重要)思い込んでる人、多いんじゃないですかね。


 結論から言うとですよ。

 噛まなきゃ、おかゆにする意味ないです。


 おかゆってのは、ただそれだけで消化に良いわけじゃないんです。
 内臓での消化に都合の良い状態に持っていく(=噛み砕く)ことが、力の弱った病人でも容易いほど極めて柔らかいがゆえに、消化に良いんです。

 健康な人でも留意すべきですが、これが身体の弱った病人ならなおさら、おそらく高確率で内臓・消化器官も弱ってます。
 それなのにろくに噛まずに飲み込んだおかゆを消化しようとして胃腸に余計な負担をかければ、かえって身体を弱めることにもなりゃしませんか。


 いや別に、病人におかゆを食わせるのが良くないって言ってるんじゃないですよ。
 おかゆすら咀嚼しない病人(もちろん病人に限った話じゃないですけど)が、おかゆより固くて咀嚼しにくい食べ物を満足に咀嚼するとは限りませんし。

 でも一方で、患者によっては逆に、
 さらっと飲み込んでしまいがちなおかゆより、適度に固くて「噛む気にさせる」食べ物を与えた方が、結果的に肉体への負担軽減と早期回復に繋がる事もあるんじゃないかなー、とも言えるわけで。


 ま、ケースバイケースでしょうが、その辺は患者本人(または自分自身)と相談する価値はあるんじゃないかなと。


 ……って、なんじゃこりゃ。
 いつのまにか看病するシチュエーションに話が脱線しとるがな( ̄д ̄;)


川´ー`)「まあええ、おぬしの行き当たりばったりは今に始まったことではない」


 うるさいよ! Σ( ̄д ̄#)


川´ー`)「わしからもよいかの」


 華麗にスルーされたよ……はいはいどうぞ。


川´ー`)「これは多くの者が、知識としては知っておっても、実生活上の実感としてほぼ意識しておらぬ事実じゃから改めて言うぞ。

 口は、消化器官じゃ。
 胃や腸と同じ、内臓の延長じゃ。

 更に消化器官としての口はの、胃腸など他の器官にはない重要な2つの特性がある。何かわかるか?

 一つは消化器官の中で唯一、食物を物理的に裁断・粉砕する機能を持つ、ということ。
 もう一つは、意識的に、つまり自己意志を持って作動させうる唯一の消化器官である、ということじゃ。

 口は「言葉・声」という、「意志・意識」の波動を強烈に発する場所でもあるということは非常に示唆的だと思わぬか。
 口を経由する意志は、外に向けては言葉となるが、同じく内に向けては咀嚼という形で、やはり言葉同様強烈にその人物を形作る。
 喉には第五チャクラがあるとされておるの。このチャクラは意思表示を司るというが、やはり口に直結しておる。
 言葉という外向きの意志も、咀嚼および嚥下という内向きの意志も、全て喉を通るからの、さもありなんじゃ。

 さて、口を消化器官として見た時、咀嚼というのはまさしく、イコール消化であるとわかるの。
 では、じゃ。ここでひとつ聞こう」


 なにさ。( ̄Д ̄ )


川´ー`)「おぬしはここまで、『咀嚼』と称して、『顎を動かし、歯で噛み倒すこと』の大事さを語ってきたの。
 じゃが『咀嚼という消化』には、もうひとつ、見逃してはならん重要なファクターがあることに気づかんか?」


 もひとつ?( ̄д ̄;)


 続くです。

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思いたったように時々硬い物を食べる人に注意。

川´ー`)「顎を鍛えるためにたまには固いものを食べよう、というのは、普段よく噛んで食べない人間の世迷言じゃな」

 ってな一言を以前唐突に受け取ったんですよ。
 で、ちょいと考えて、色々思い至ったことがやっぱりありまして。


 いつだったかもう何年も昔。
 某少年漫画誌の読み切りで、あるプロ野球のピッチャーの話があったんですよ。
 トレーナーに「もし5年後に150km/hを投げたいのならば」と提示されたトレーニングメニューを誠実に受け入れ、実践したそうなんですね。
 その内容とは、まず高負荷のウエイトトレーニングを一切しない。
 逆に、1kgとか500gとかの極めて軽いウエイトを用いたエクササイズを、長時間に渡って続けるというもの。
 自身のチームが優勝し、その祝賀会の最中でも、彼は軽いダンベルを手放さずゆっくりとエクササイズを続けたそうです。
 そして5年後本当に150km/hを記録した、というお話。

 それと全く逆パターンなんですが。
 たわし中学高校の頃過度な筋トレのお陰で肩や内臓を壊した経験がありまして。
 おかげで今でも、特定の動作では片方の肩関節に違和感があるです。


 「継続は力なり」&「急いては事を仕損じる」って言うでしょ。


 咀嚼も、同じだと思うんですよ。
 本当によく噛んで食べる人は、どんな食べ物であっても、
 柔らかいものも硬いものもその中間のあらゆるものも、
 ゆっくり優しく噛んで噛んで噛み締めて噛み抜いて、食べる。
 特別に意気込んで力を入れる必要はなく、ただ反復するのみ。

 そりゃ硬いものほど力を入れなければいけないこともあるでしょうけど、
 それだって水滴岩を穿つ、ゆっくり優しく噛み繰り返せば必ず咀嚼できるようにできてます。
 だって、どんなに硬くたって食べ物だもの。

 とりあえずは噛み砕かないと如何ともしがたい物も、一旦噛み砕いてしまえばあとは他の食べ物と同じ。
 じっくり噛めばいいんです。

 がしっと噛もうとするのではなく、力を抜いてただ顎を動かすだけのつもりで。



 それのどこが素敵なのかというと。

 じわじわと、でも次から次に食材の奥から味が出てくる。

 そして、噛むという運動に、無理がない。



 そう、無理をすれば続かないですよ。
 だって、理が無いんだもの

 逆に、無理せず続けていけば、咀嚼癖がついてくる。
 そうなればこっちのもん。



 なのにですね。

「よく噛むと健康にいいらしいから、たまにゃスルメでも噛んで顎を鍛えるか」
 ってな具合に、たまに思い立って硬いものを食べようとする人っていますよね。


 たしかに、世迷言なんですよ。
 どこがどう世迷言かって、


 食べ物をよく噛むことによる健康の獲得というのは、
 平素積年の継続の末に、咀嚼によって胃腸への負担軽減が大きく積み重なった結果、
 内臓が本来の健全な状態を取り戻し、付随して全身に活力が無駄なく循環するからこそ、なんです。


 つまり「顎を鍛える=健康にいい」でも、「顎が丈夫=健康である」でもないんです。
 
 どんなに顎を鍛えても、普段噛まなければ意味がないんです。
 普段からよく咀嚼するという習慣が身についているその結果として、顎が鍛えられるというのはあっても。

 普段からよく咀嚼して、消化器への負担を最低限に留め置くよう心がけているからこそ、健康に繋るんです。


 必要なのは、「噛む力の強さ」ではなく、「咀嚼する癖」なんです。


 わざわざ「硬いものを食べよう」なんて思い立つってことは、
 要するに、普段よく噛んで食事をしていない、って証拠でしょ。

 普段しっかりと咀嚼しているなら、
「健康のために硬いものを噛んで顎を鍛えよう」
 だなんて特別に意気込んだりなんてしませんもん。
 しかも、見当違いな意気込みを。




川´ー`)「ちょいと待つがよい」

 あ、宇意さん。何さいきなり。

川´ー`)「今おぬしが話題にしたのは固い物についてじゃの」

 そだね。
 健康のためにと称して硬い食材をわざわざ選んだりする必要なんてない、って力説したい。

川´ー`)「ならば、そこで話題をひっくり返してはみんかの?」

 ひっくり?


 次回に続きマス。

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食の矛盾を乗り越えることとは

 えーっと、実は、昨日の朝はですね。
 クンバハカについてじゃなくて、アノ存在の正体的な何かについて触れたエントリを上げようと思って用意してたんですが、
 唐突に開眼(ぇー)しちゃったもんだから、今日に回そうということで……


 と、思ってたんですが、
 今日もまた別の書きたい事が出てきたのでそっちをアップします(ぇぇー

 正体的な何かについては、またまた明日に回しちゃいますすんまそん( ̄д ̄;)
 特にコトノハさんが楽しみにしてるのかも?w
 つーかしれっとその予想惜しいっ(何



 では、本題。
 うみさんのブログのこのエントリで、特に心に触れる部分があったんですが、
 コメント欄で返すにはちと長文になりそうだったので、こっちで書くことにしたんですよ。


 それは、さむらいさん、そして、けいさんのコメント。


>ですがすぐに「いや…まてよ」…屠殺よりも苦しんで死んだのかも知れないけれど、鶏肉と何処が違うのか?
>そう思うと、いつも普通に肉を調理して…例えば軟骨や筋を処理する時には「感謝」が無いわけです、確実に食材や料理を粗末に扱ってはいなかったつもりなのに、何か違うなと
>「食」に対して感謝していたつもりでしたが、何だかもっと“根本”で違っていたのかも知れない


>いつも思うのが、植物も生きているから殺生になるのかな?と言う所です。
>それを言い出すと人間は生きて行けなくなりますが、
>人によっては顔があるものを食べるのが殺生だという人もいますし、



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咀嚼と健康のパラドックス

 南北さんのお話の途中ですが、今日はちょっと別の話題を。



 この世はパラドックスで出来ているといっても過言ではないな、と思うことがあります。


 たとえば、願いごとは求めれば求めるほど叶わない。

 それは、求めるのは願いが叶っていないということであって、願いが叶っていない状態に焦点がいっているから。
 叶っていないという不足感を元に渇望すればするほど、叶っていない状況を更に引き寄せてしまう……etc.


 今日はそんなパラドックスの内、
 川´ー`)と話している内に出てきた「咀嚼」についてのパラドックスを、対話形式でお送りいたしまs


 ……公開していいのかなぁ、これ。( ̄д ̄;)


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個人的食肉観。

 リファラ辿ってたら、同じ名前のキャバクラがあるってわかって思わず爆笑( ̄∇ ̄;)



 さて。

 先日、肉は極力食べないって書きました。

 でもこれ、宴席とかの他にも2つほど例外があって。


 その内の1つは、どーーーーーうしても食べたいとき。
 そうしょっちゅうあるわけではないですが、しかし心や体が食肉を必要としている時には、意固地になって食べるのを拒むのは逆に良くありません。
 もちろん、ただの煩悩的貪欲的欲求な場合もあるので、その見極め、判断にはしっかり自分の内面と面談する必要がありますがw



 そしてもう一つ。
 上の、「心や体が食肉を必要としている時」とある意味同じ事なのですが、

「心身が明らかに弱っているとき」

 です。



 ……よし。

 現代の一般的な観念とは違うのは重々承知の上だけど、
 ここで敢えて断言してしまいませう。


 肉は、薬です。


 ひとことでいえば、これがたわしの食肉観。

 大量生産のためのコスト最優先、あるいは人間の喧嘩や愚痴が絶えない、不健全な環境で育った家畜の肉は毒ですが、健やかな環境でのびのびと育った家畜の肉は、薬です。


 「食料品」ではなく、「医薬品」です。


 用法用量を守って、初めて効果が期待できるものです。

 多量摂取や常食とするものではないし、そんなことをすれば逆に様々な害を引き起こします。
 現代の様々な医薬品と同様に。


 江戸時代、肉(特に牛肉)を食べることは「薬喰い」とも呼ばれたそうです。→wikipedia「牛肉」
 薬と認識されていたので、当然、病で体の弱った人などに食べさせるものでした。



 でも一方、
 先日も書いたとおり、「食肉の持つネガティブなエネルギー」ってものも確かにあります。

 大量生産のために毒へと捻じ曲げられた肉は別としても、
 それは今も昔も、基本的には変わらないのではないか、と思います。


 だけど実は、その「ネガティブエネルギー」を、
 体内に取り込む前にある程度中和してしまう方法があるんです。


 「感謝」です。


 世界各地で今も狩猟によって日々の食料を得る原住民族の多くには、狩りの前に感謝の祈りを捧げる風習のあるところが多いそうです。
 すると、その祈りに導かれるようにして、食料となってくれる動物が狩人の前に姿を現してくれる、といいます。
 そうして得た肉を、部族の皆で歓喜しながら分け合う。
 そうやって、彼らは自然とともに脈々と生き続けてきました。


 さきほどの薬喰いの例でも、当時としては高価な薬なので、
 やっぱりありがたがられ、感謝の元に「服用」されてたんじゃないでしょうか。




 たわしの場合は、こうしてます。

 まず、箸でつまんだ肉をじっと見つめて、「ありがとう」と告げる。
 人目があって憚られるときは、心の中でもいいから「ありがとう」と真摯に伝える。

 肉を提供してくれた動物さんが育ってきた日々を走馬灯のように思い描き、
 最期に味わった痛みも想像とはいえしっかり心で受け止めて、
 その上でやっぱり感謝して、身を挺して血肉になってくれてありがとう、と感謝した上で、口に入れます。

 それから、噛む。
 噛んで噛んで噛んで噛んで噛んで噛んで噛んで、噛んで、隅から隅までひたすら噛む。
 10回20回どころの話じゃありません。
 エキスも肉汁も全部引き出すほどの執拗さで、肉の繊維も感じられなくなるくらい、ミンチにするよりもずっと徹底的に、一心不乱に噛み倒して、唾液も絡んで完全にドロドロな状態になってから、ようやく飲み込む。


 そうすると、ただ単に「ひょいぱくっ」と食べて飲み込むだけの時と比べて、
 ずっと心身への悪影響は小さく、逆に好ましい影響が表に現れてきます。


 実はここ数日、まとわりつくような心的不調和、とでもいえる低調な波を抱えてたんですよ。
 その間、体調も朝の寝起きも普段と比べて少々良くなくて。
 で、昨夜、鶏肉を一切れ、上の方法で食べたんですね。


 今朝は目覚めも心も体もめっちゃすっきりw



 ちなみに。
 あくまでも自分の場合は、と断っておきますが、

 冒頭二つのような理由で肉を食べる際、その量はささやかなもので充分です。
 ほんの一切れ、重量で言えば50gもあれば、大抵は十二分に事足りるみたいです。

 なんせ、噛み倒すお陰で充分に食材の味を堪能しつくせるので、次から次に貪り食う必要もなくなるんです。
 それに、何度も噛み続ける行為は、瞑想としてもすっごく自然に生活に取り入れられるし。
(これらの点はなにも肉に限ったことじゃありませんが)

 ていうか、いくら感謝したところで分限を守らず大食いすればやっぱり毒になるからね。



 まーこんなところで、今回の要点。

 ・肉は薬と心得え、用量用法を把握し守る。

 ・感謝してから口に入れ、とことん噛み倒してから飲み込む。


 精神あってこその肉体ですが、肉体あってこその精神でもあります。
 スピ世界に傾倒していると物質的な肉体がおろそかになってしまいがちですが、
 こういったところから肉体も大事にしてあげる方が、よほど精神的じゃないかな、という自分自身への指差し確認も兼ねて。

 そもそも、無駄食いしないのもよく噛むのも一切追加コスト不要なのがステキ。
 あとは、やるかやらないか、ただそれだけのお話だもん。

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