常に曖昧に。
ふぃーっと。
先月から抱えて詰まってた案件が、おかげさまで昨日ようやく片付きまして。
これで少しは更新にもリソースを割けると思うます。ほったらかしぎみでほんとすまそん。
巡回もほとんどしてなかったしなぁ、ぼちぼちネットお散歩しよっと。
さて、sarasaさんにいただいたコメントでふと思ったんですが。
確かにたわしも含めて、なかなかほとんどの人は一つの方法論に固執しちゃい気味なんですよね。
昨日買ったスマナサーラ長老の『怒らないこと』に、
「『私こそが唯一正しい』が人間の本音」
とありましたが、うむ、これにも当てはまるなぁ、と。
正しい、は、間違い、があるからこそ存在する二元相対の観念。
人はとかく、あらゆるものを二元相対的に見ようとします。
言葉や思考、またそれらが表現するものも、全て二元性の上に成り立っています。
でも、この世は実は一元絶対の世界。
そこを履き違えるから、そのギャップが苦しみという摩擦になるわけで。
ちなみにここでいう苦しみってのは、怒りや嫉妬や渇愛といった、自分の心を束縛する思いや感情。
まあ、一元性と二元性、という考え方自体も実は二元性的な観念に基づいたものなので、
本当には一元性も二元性もないってことでもあるんですが、
ああもう二元性に基づいてしか言葉では説明できないのがもどかしいw
まあだから、要はお釈迦さんとかが言ってるのって、
この二元相対性による幻の世界から、一元絶対性による真実の世界に戻りましょうよ、ってことでもあるんでしょうね。
ほとんどの人が現実だと思っている二元相対世界が実は幻想で、同じく幻想だと思っている一元絶対世界が実は現実ですよ、っていう。
となると、そのアベコベを見抜くのが目覚めで、アベコベを元通りにするのが悟りって解釈もできなくもないかもしれないけどそれはまあいいや(ぇー
にしても、言葉にするとやっぱりニュアンスのズレや誤誘導の危険性が出てきますねぇ。
書かなきゃ話にも記事にもならないんで書いちゃいますが。w
でね。
さっきの『怒らないこと』には、こうもあったんですよ。
「『私は正しい』と思うから怒る」と。
案件詰まらせてたここしばらくの間、結構この怒りに属する感情が湧いてしまうことがあったんですが、
振り返ってみれば、ただの一つもの例外なく「自分が正しいと思っていた」から、なんですよね。
だからどんな種類でも怒りが湧いたら、それを治めるには、
「自分が正しいわけではない、相手が正しいのかもしれない」
そう思うことがまず入り口だと、身をもって痛感します。
……が、それはあくまで入り口なんですね。
対処療法的であって根本治療的ではないというか。
そこから更に進めて。
正しいというのは間違いというものがあって成り立つ二元性の産物なのだから、
そもそも自分にも相手にも、正しいも間違いもないのだ、ということを把握する。
それを敢えてこの二元相対世界でも解釈できるように言えば、
強いて言うなら正しいしかない、ということになる。
もちろんそれは一元絶対における正確な表現ではないけれど、
そこを踏まえた上で、それが、あるがまま、ということになる。
そこまでいくと、これまでの色んな精神的な知識や解釈とも有機的に結合し始めるんですよね。
結局のところ、「いまここ・今この瞬間」に何もかもがあるということを見抜いていること、それが唯一の全てなんだと、改めて腑に落ちている次第。
そういうことを実感できたという意味で、ここしばらくの経験は面白いものだったと、省みています。
とまあ、またとりとめもない徒然でしたが、今日はこのへんで。
南北くんもぼちぼち再開取り掛かるかぁ。