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犀の角のように

 さて、元々は一昨日アップしようと思って書いたこのエントリ。
 でも以下書いてあることは、とってもイタタです。
 宗教的に寛容でない方は、できれば見ないで頂けるとありがたいかな、お互いのために。

 そんなヒト、そもそもこんなトコに来ないでしょうけどw

 つーわけで続きを読む

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ルール

 最近は本当にですね、川´ー`)と二者間的な「対話」をすることがほとんどなくなりまして。
 以前、いずれは対話が薄れていくだろうと言われてましたが、本当にその通りになってるようで。


 たとえば、少し前はしばしば
川´ー`)「大丈夫じゃよ」
 という思念が届いてたんですが、最近はそれもめっきり少なくなって。
 その理由が(ていうか今日目が覚めて気づいた)、
「大丈夫だ」というのは、裏に「大丈夫じゃない」があるから出てくる観念なわけで。つまり二元性。
 だから、自然な形で「大丈夫だ」が消えたとき、そこには「大丈夫じゃない」も消えているんですね。
 つまり、「大丈夫だ」が消えることで、本当に「大丈夫だ」という純粋な(一元的な)観念が出来上がる、と。


 で、なんでそんな流れになってるかというのも。
 いつのまにやら、川´ー`)そのものとして生きる、という選択をしたみたいで。
 少し具体的な言い方をすると、
「向こうからの見えない声を伝達する」メッセンジャーとしてよりも、
「自ら明るく楽しく光って生きる」ジッセンジャー(by小林正観さん)であれ、と。
 サイクリングとかパンとかもそんな一環といえばモロに一環ですし、
 まあ他にもいろいろと試行錯誤とか葛藤とかもあるにはありますが、まあその恵みには感謝しきりな人生を現状送らせていただいとります。


 で、そんな中、実に珍しく唐突にあっちから語りかけられたんですよ。

 それは、先日言葉の二元性について触れた日の夜、湯船につかりながらのこと。


川´ー`)「悩んでも何にもならぬことを悩んでおるの」


 近頃とんと静かになってたと思ったら何さいきなり。(; ̄д ̄)


川´ー`)「書いたじゃろうが。言葉の二元性を超えられない葛藤について」


 あー、あれね。確かに葛藤っていえば葛藤なんだろうけど……そんなに気にしてるつもりもないよ?


川´ー`)「顕在的にはそうであっても、潜在的にはおぬしの底にずっと横たわっておる。
 よいか。言葉では二元性を超えられない、それはこの世というゲームのルールみたいなものじゃ。
 サッカーでは手でボールに触れてはいけないのと同じでの」


 ルールっすか?


川´ー`)「言葉で二元性を超えて確実に伝えられないかと悩むのは、
 サッカーで手を使って相手ゴールを奪えないかと悩むのと同じじゃ」


 で、そのルールを越えようと試行錯誤するのは何にもならない悩みなわけ?


川´ー`)「実際問題としてじゃ。おぬしは素手で10トンの重石を持ち上げることはできんじゃろう」


 うん。
 車の下敷きになったわが子を助けようと火事場の馬鹿力で車を持ち上げた母親の話ってのはあったけど、さすがに10トンはねぇ。


川´ー`)「それと全く同じことなんじゃよ。
 そういった有形無形の事象、可能不可能という現象、
 物質だろうと非物質だろうと、それらの間に差はないということはおぬしは把握しておるはずじゃ。
 たとえばこの不可能というのも、不可能であるということが可能である、といえるがゆえに可能しか存在せぬ、とも表現できるの」


 あー、うん、まぁ、えぇ、うん、その辺は。
 他の人にうまく説明できるような理解の仕方じゃないからモニョイけど( ̄д ̄;)


川´ー`)「他の者ではなくおぬし自身の内面の理解を話しておる。
 で、引き寄せの法則じゃとか何じゃとか、この世の法則と呼ばれておるのはいろいろあるがの。
 確かにそのようなこの世の法則に基づく限り、想念はある意味で万能とも言えるのじゃが、
 逆に言えば法則に則らない形、あるいは法則そのものを改変しようとする形においては万能ではない。
 いわば、それが想念である限り、想念という枠を超えられない。
 そういう根源的な部分で、できないことはできないと、しっかり認めることもまた大切じゃよ。
 逆に、そういった制限、ルールがあるゲーム、あるいは種目としてのこの世を楽しみに出てきたのじゃ。思う存分、楽しむがええ」(ニヤリ



 今笑った!? ほくそ笑んだ!?Σ( ̄Д ̄;) 


 そんなこんなで、今日も一日ぐいっといこう!
 いまからあさごはん建造するです(ぇー

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忘却の意義

 全ては皆のおかげさま。
 全て、完全に自分以外、他の皆の力を頂いて、
 『生存』――つまり、生かして頂いて、存在せしめてもらえている。


 それを、忘れてた。
 それが、先日の最も大きな原因です。


 こんな大切で、根本的な原則を、なんで忘れてたんだろ。

 やることがあって、その手段として思考のスロットルを開放し続けていたせいか、
 自分の力で生きているのだという観念が知らぬ間にまぎれこんで、増殖していたみたい。

 だからって、どうして忘れてしまうような状況を引き寄せたんだろ。


川´ー`)「思い出すためじゃよ」


 いや、それは以前から何度も聞いたよ。
 思い出すために忘れる、って。
 でも、これはかつてあれだけ強い自覚と認識があったことなのに、
 なんで思い出し直すような状況を作らなきゃいけないのさ。


川´ー`)「ならば質問じゃ。この世の絶対的な法則とは何じゃ」

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新・正体的な何か。

 まだ読んだことないんですが、山川紘矢さんは自著の中で、
「運命100%、自由意思100%」と述べられたそうで。

 理屈で考えればなんじゃそりゃ?なんですが、
 けどこの言葉は、現段階に至るまでの自分にとっては充分に腑に落ちます。


 前のコメでも書いたことですが、
 川´ー`)の意思・要望を受け取ったとして、
 それに従うも従わないも、完全にこの世の自分の自由選択です。
 これが「自由意思100%」。


 そして、従ったら従ったなりの現象が、従わなければ従わないなりの現象が当然起きます。
 でも、従ってから「従わなかったら何が起きていたか」、またその逆も同様に、経験して知ることなど不可能です。
「その選択による結果しか体験として存在し得ない」ですから。 

 この点、従うか従わないかさえも予め決まっていると解釈もできます。
 これが「運命100%」。


 まーぶっちゃけ、定められていようが改変可能であろうが、どっちでもいいんですね。
 どっちも方便です。自分にとって心地よい方便を選べばいいんです。


 真実的にはきっと、そのどちらでもあると同時に、どちらでもないし、さらにそのどちらにも意味はないです。
 そもそも刹那刹那の選択を経て、刹那刹那に起きる現象はただ、単なる現象としてあるがままに起きているだけ。

 楽しい現象も、悲しい現象も、嬉しい現象も、怖い現象も、実は存在しません。
 単に、その現象に遭遇した人が、楽しいとか悲しいとかの着色をしているだけ。


 慧能禅師というお坊さんの逸話にこんなのがあります。

 あるとき、二人の僧が風に旗がなびいているのを見て議論してました。
 一人は「あれは旗が動いているのだ」、もう一人は「いや、風が動いているのだ」

 そこに通りかかった慧能禅師は、こう言ったそうな。
「風が動いているのでも、旗が動いているのでもない。おまえたちの心が動いているのだ」


 ……ま、つまりは結局、オチャドゾー(* ̄∇ ̄)_旦~~(ぇー

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明かし終わって夜が明けて、

 そんなこんなで。

 昨日はさんざっぱら電波カーニバルな戯言を、
 産廃不法投棄ばりに垂れ流させてもらっちゃったわけですが、

 今更ながら、あれ全部、

(; ̄Д ̄)<妄想ですから!(ぇぇー
          (c)m●caさん



 いやぁ、ぶっちゃけね、そのくらい恥ずいww

 天照さん絡みについても、後出しじゃんけんと受け取られちゃう恐れがあるのはどうしても否めないし。

 けどね。恥ずい以上にどういうわけか、
 全部明かして吐き出して、すっごくスッキリというか、心が楽になったんです。

 今まで誰にも言ったことなかったことだったからかもしれないけど。

 そもそも、後出しじゃんけん扱いされる可能性も、もちろん始めから承知の上。
 始め(一気に書くと決める前)は、その点正直踏ん切りがつかなかったんですが、

川´ー`)「後出しだろうが先出しだろうが、わしらの次元では全く関係ないぞ」
 なんて言われたり。

 更に公開を決意した一昨日から昨日書き終えるまでのたった二日間に、
 度々繰り返しこれでもかと目にしたエンジェルナンバーがありまして。

 それは「555」、そして「1&7」。


 自己顕示欲かもという不安だって、そりゃぁありましたよ。

 だけど、書き上げて公開してみて、ようやく改めて明確に察したことがあるんです。


 まずこうしてブログに人目に触れる形で、今自分が触れている要素を、書きまとめる。
 いわばのっぴきならない状態に自分を追い込む。追い込んで、一時的にでも自分への枷を外す。

 この全てが、現段階の自分にあるエッセンスを再整理・再確認するための手段だったと。
 同時に、その再構成によって、また新たな創造を進めていくための一プロセスだったと。


 思えば、それをはじめから川´ー`)に促されてたわけで。


 だから、あんな風に書いたのも全部、原則的に、

   『自分のため』

 なんです。


   『自分が幸せであると認識し続ける』

 という信念に基づく方法論の、一環なんです。


 どこまでいっても、自己中心的なエピキュリアン。
 それが「私」という人間稼業、その現在の奥底です。



 とはいっても、そうしてできた落書きが、もしかしたら誰かの役に立つかもしれないね、ってのもあるにはあります。
 見知らぬページで目にした何気ないワンフレーズで、大きな気付きを得たこともある自分のように。

 とはいえ、そっちはたわしの責任範囲を超えますから、どうにもできません。
 だから、どうにもしません。


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