常に曖昧に。
昨日ですね、蛍光灯買いに近所のコジマ行ったんですよ。
ついでにオーブンとかの調理家電も眺め歩きつつ、
ホームベーカリーコーナーで
「あ~、ここもGOPAN売り切れなんだねー大人気だねー」
とか感心した矢先、ふと視線を下にやると、
まさかこんなとこにCUOCAの食パンミックスが置いてあったなんてΣ(@Δ@;)
いやー、一度試してみたかったのだよーこのミックス!
でもそのために通販したり高速バスで片道一時間半揺られて最寄の実店舗に行くのもさすがになー、
と、ぶっちゃけ完全に忘れこけてたわけですが、ここにきてまさかまさかの灯台下暗し。
ただね、これ、パッケージにはホームベーカリー用って書いてるんですよ。
でもたわしんとこにはHBはない。
手ごねでやったる。即断即決(ぇー
ちなみに中身はこんなセット。
今回選んだのは苺ミルク。銀の小袋はイースト。
つーかどーせ基本的に材料は同じなんだからやってやれないはずはないわー。
HBと水加減とか違ってくるはずだけど挑戦しちゃる玉砕上等~!
……と鼻息荒く買って帰り、改めてパッケージを見てみると、裏にこんな一文。
同梱の紙には手ごね用の水量までちゃんと用意万端書いてくれてた……ww
さすがはクオカ……全部お見通しってわけか……ッッ!!(ぇー
そんなこんなで。
さー、いつチャレンジしよっかな、とwktk中でございます。
……ところで、福岡クオカはダジャレで出店したとしか思えないんだ……(ぇー
いや、行った事あるけどすっごく洒落た感じのナイスな店舗ですよ?
と、そんな前フリはここまでにして。(ぇー
今日は、なんでたわしが精神的なことに織り交ぜて「飲食について」書いてるかっつーことを。
ぶっちゃけ言うと、直接的にはある人物の影響なんです。複数。
その内一人は、お釈迦さん。
たわしは、心正しくあることは多くの病を寄せ付けぬ最高のワクチンだ、とは思ってます。
でも、それが昂じすぎて宗教的・精神的なものにばかり傾注しちゃうと、知らず物質的な肉体をおろそかにしちゃうこともあります。
あるいは、気合と根性と大和魂だけで全て難事は乗り切れるぞー、みたいなのも根本的に一緒なわけで。
そうなると惨憺たるもので、健全であるために精神面を研いでいるはずが、精神的プライドを高めるだけの不健全なアリ地獄にずぶずぶはまってっちゃう。
不健全だから、どこかで気付かない限り体も心も一蓮托生でどんどんぐだぐだになってっちゃう。まさに本末転倒。
一時期はたわしも明らかにそんな罠に陥っちゃってた時期もありました(今もときどきあるけど)が、阿部敏郎さんがブログで紹介しているこのエピソードは、その辺りを戒めてるとも解釈できるものでもあるです。
そして雲黒斎さんも、断食では悟れないと悟ったお釈迦さんの経緯をめっちゃ噛み砕いて紹介してくださってます。
食べるという肉体的な行為は、物質的なエネルギー摂取行為であると同時に、性欲睡眠欲と並ぶ、必要であるがゆえに快楽を伴い、それゆえに不必要な分まで味わおうとしてしまう性質のものです。
その「不必要」が、己の運命を不本意なものにしてしまっている事に気付いていない、あるいは直視したがらない人は、軽く周囲を見渡すだけでも(自分を含めて)ごまんといる……悲しいけど、その事実に気付けるようになってしまったのも、また縁なんでしょう。
そんな、食という人間の『欲』と上手に付き合う方法。
それを突き詰めていこうとすると、必ずと言っていいほど精神的な哲学世界と交わってくるんじゃないでしょうか。
どちらが先、ということでもなく、おそらくは車の両輪的に。
そして、もう一人。
飲食と霊性(スピリチュアリティ)を併せて理解する上で、日本人なら避けて通れない人がいます。
その名は、水野南北。
今日からしばらく、この人について語って、というか紹介していこうかと思います。
興味のある奇特な方だけお付き合いを。(ぇー
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<私の、あるいは我が子のその病を根本から癒したいのなら、
まず本当に踏み出すべき第一歩は、
『その病が治らなければ、私は、あるいは我が子は幸せではない』
という、無自覚に握り締めている誤った観念を、手放すことだ。>
人間としてできること、味わえることが、仮に1000あるとします。
病によって、それが990に減っているかもしれない。
欠けてしまっている10を、人はしばしば嘆き、ぼやき、
10欠けているから不幸なのだと、その欠け分を取り戻そうと苦悶します。
だけど、それは、
『できることが990も残っている』
ということでもあります。
確かにできないことが10ある。
けれど、残った990へと心から目を向けさえすれば、
病であっても充分な幸せに恵まれていると、気付けるものです。
いいや、私の場合はできることが800、いやいやこの子は600なんだ、というかもしれない。
でも、それでも800、600もできることがあるんです。
手足が動く。
だから字も書けるし、歩きもできる。
五感が利く。
だからテレビも視聴できるし、花の香りも嗅げる。
そして何より、体がある。
だから、いずれ必ず去り逝くにもかかわらず、まだこの世の生を受けていられる。
それらも、990、800、ないし600の中の、立派な1です。
欠けている部分ばかりを主張していると、
今ある幸せを、見ているようで全く見ていない状態へといつの間にか陥ってしまいます。
今あるものに目を向け続ければ、今あるものが増えていく。
今ないものに目を向け続ければ、今ないものが増えていく。
病というものは、そういった『価値ある法則』に気付いてもらうために、
天が与えてくれるプレゼントなのかもしれません。
おお! mocaさんブログ復活とな!
おじいさん節をまた味わえるのはうれしいのう~ヾ( ̄∇ ̄*)ノ
実は最近は、とんと川´ー`)と『視覚的な』イメージを伴って繋がることがめっきり少なくなりました。
意図すればイメージも伴うんですけどね、その必要がなくなったというか、ともあれ僅かながらも一体化の進行しているような感触は何となくあります。
そんな中で今日、通勤途中に歩きながら空を見上げた瞬間、
何の前触れもなく突如として、川´ー`)からの短いメッセージが飛び込んできやがりました。
付随するいくつかのインスピレーションとともに。
本当は今日アップするために書き上げてた別の記事があったんですが、それは明日以降に回して急遽そっちのやりとりを衝動的に編集して紹介してみたり。
そのメッセージは、
「そのものになれ」
という、たった7文字。
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へー、ヘミシンクって今結構話題になってたのね。
実はたわし、まだうつ病の真っ只中で大絶賛通院中だった数年前に、買っちまってたんですよ。
モンロー研究所のゲートウェイエクスペリエンスを。
(  ̄Д ̄)<ついかっとなってやった。こうかいはしていない。
つってもフルセットじゃないです。
Discovery1~6まで。たしか1万円はしなかったと思う。
どういう経緯で知ったのかまではさすがに覚えてないんですが、
たしか、その時見かけたWebページか何かで
《眠くなるので運転中には聞かないでください》
みたいな注意書きを目にして、
その当時慢性不眠でハルシオンとかスローハイムとか(※薬局処方の睡眠薬)も連日服用する状態だったたわしは、
「あー、てことはこれ聞いたらよく眠れるんじゃね?」
ってことで注文したような覚えがw
その頃は今のように川´ー`)みたいな存在なんて知らないし、
スピリチュアルなことにも全くといっていいほど興味なかったし。
聞き始めた当初はラリホー効果てきめんでw
おおーこりゃいいわーと。
それでしばらくは毎日毎晩聞いてたんですが、次第にその効果が出にくくなってきたんですね。
あー、これは睡眠薬と同じで耐性ができちゃったのかもね……と判断してがっかり気味にお蔵入り。
あ、ちなみに今は睡眠薬(てゆーかいわゆる薬全般)なんて全く飲んでないですヨ。
瞑想とかに目覚めてからは、ちゃんとぐっすり眠れるしばっちり起きれてます。
……でも、その当時に一度だけ、すごく不思議な体験があったんですよ。
それは、こんなお話。
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リファラ辿ってたら、同じ名前のキャバクラがあるってわかって思わず爆笑( ̄∇ ̄;)
さて。
先日、肉は極力食べないって書きました。
でもこれ、宴席とかの他にも2つほど例外があって。
その内の1つは、どーーーーーうしても食べたいとき。
そうしょっちゅうあるわけではないですが、しかし心や体が食肉を必要としている時には、意固地になって食べるのを拒むのは逆に良くありません。
もちろん、ただの煩悩的貪欲的欲求な場合もあるので、その見極め、判断にはしっかり自分の内面と面談する必要がありますがw
そしてもう一つ。
上の、「心や体が食肉を必要としている時」とある意味同じ事なのですが、
「心身が明らかに弱っているとき」
です。
……よし。
現代の一般的な観念とは違うのは重々承知の上だけど、
ここで敢えて断言してしまいませう。
肉は、薬です。
ひとことでいえば、これがたわしの食肉観。
大量生産のためのコスト最優先、あるいは人間の喧嘩や愚痴が絶えない、不健全な環境で育った家畜の肉は毒ですが、健やかな環境でのびのびと育った家畜の肉は、薬です。
「食料品」ではなく、「医薬品」です。
用法用量を守って、初めて効果が期待できるものです。
多量摂取や常食とするものではないし、そんなことをすれば逆に様々な害を引き起こします。
現代の様々な医薬品と同様に。
江戸時代、肉(特に牛肉)を食べることは「薬喰い」とも呼ばれたそうです。→wikipedia「牛肉」
薬と認識されていたので、当然、病で体の弱った人などに食べさせるものでした。
でも一方、
先日も書いたとおり、「食肉の持つネガティブなエネルギー」ってものも確かにあります。
大量生産のために毒へと捻じ曲げられた肉は別としても、
それは今も昔も、基本的には変わらないのではないか、と思います。
だけど実は、その「ネガティブエネルギー」を、
体内に取り込む前にある程度中和してしまう方法があるんです。
「感謝」です。
世界各地で今も狩猟によって日々の食料を得る原住民族の多くには、狩りの前に感謝の祈りを捧げる風習のあるところが多いそうです。
すると、その祈りに導かれるようにして、食料となってくれる動物が狩人の前に姿を現してくれる、といいます。
そうして得た肉を、部族の皆で歓喜しながら分け合う。
そうやって、彼らは自然とともに脈々と生き続けてきました。
さきほどの薬喰いの例でも、当時としては高価な薬なので、
やっぱりありがたがられ、感謝の元に「服用」されてたんじゃないでしょうか。
たわしの場合は、こうしてます。
まず、箸でつまんだ肉をじっと見つめて、「ありがとう」と告げる。
人目があって憚られるときは、心の中でもいいから「ありがとう」と真摯に伝える。
肉を提供してくれた動物さんが育ってきた日々を走馬灯のように思い描き、
最期に味わった痛みも想像とはいえしっかり心で受け止めて、
その上でやっぱり感謝して、身を挺して血肉になってくれてありがとう、と感謝した上で、口に入れます。
それから、噛む。
噛んで噛んで噛んで噛んで噛んで噛んで噛んで、噛んで、隅から隅までひたすら噛む。
10回20回どころの話じゃありません。
エキスも肉汁も全部引き出すほどの執拗さで、肉の繊維も感じられなくなるくらい、ミンチにするよりもずっと徹底的に、一心不乱に噛み倒して、唾液も絡んで完全にドロドロな状態になってから、ようやく飲み込む。
そうすると、ただ単に「ひょいぱくっ」と食べて飲み込むだけの時と比べて、
ずっと心身への悪影響は小さく、逆に好ましい影響が表に現れてきます。
実はここ数日、まとわりつくような心的不調和、とでもいえる低調な波を抱えてたんですよ。
その間、体調も朝の寝起きも普段と比べて少々良くなくて。
で、昨夜、鶏肉を一切れ、上の方法で食べたんですね。
今朝は目覚めも心も体もめっちゃすっきりw
ちなみに。
あくまでも自分の場合は、と断っておきますが、
冒頭二つのような理由で肉を食べる際、その量はささやかなもので充分です。
ほんの一切れ、重量で言えば50gもあれば、大抵は十二分に事足りるみたいです。
なんせ、噛み倒すお陰で充分に食材の味を堪能しつくせるので、次から次に貪り食う必要もなくなるんです。
それに、何度も噛み続ける行為は、瞑想としてもすっごく自然に生活に取り入れられるし。
(これらの点はなにも肉に限ったことじゃありませんが)
ていうか、いくら感謝したところで分限を守らず大食いすればやっぱり毒になるからね。
まーこんなところで、今回の要点。
・肉は薬と心得え、用量用法を把握し守る。
・感謝してから口に入れ、とことん噛み倒してから飲み込む。
精神あってこその肉体ですが、肉体あってこその精神でもあります。
スピ世界に傾倒していると物質的な肉体がおろそかになってしまいがちですが、
こういったところから肉体も大事にしてあげる方が、よほど精神的じゃないかな、という自分自身への指差し確認も兼ねて。
そもそも、無駄食いしないのもよく噛むのも一切追加コスト不要なのがステキ。
あとは、やるかやらないか、ただそれだけのお話だもん。