常に曖昧に。
心配というものを、ただ不安がることだと思っている人のなんと多いことか。
大切な人のことを心に捕まえては、
「災難に遭いはしないか」
「気苦労を背負いはしないか」
「不幸になりはしないか」
「今、そうではない」悲観的な状況を、頭の中でクリエイトしてシミュレートして、わざわざ自分で自分を不安にする行為に事あるごとに耽る、そんな人のなんと多いことか。
それを美徳とし、道徳とする価値観を頑なに堅持している人の、なんと多いことか。
「心配」。
呼んで字のごとく、「心を配る」こと。
つまり、本当の心配とは「配慮」だ。
彼に「無事であってほしい」なら、
「災難に遭う」ことへの抵抗を意図するのではなく、「無事である」ことへの肯定を意図して配慮する。
彼女に「心安らかにいてほしい」なら、
「気苦労を背負う」ことへの抵抗を意図するのではなく、「心安らかにある」ことへの肯定を意図して配慮する。
わが子に「幸せであってほしい」なら、
「不幸になる」ことへの抵抗を意図するのではなく、「幸せである」ことへの肯定を意図して配慮する。
「配慮」として現れる「行為」、その内容がどちらの意図でも同じであってもちろん構わない。
ただ、その「行為」の根底・根源にある「あり方」がどちらにあるかで、実はまるで別物になる。
さて、どちらが大切な人にとって、そして何よりあなた自身にとって、「幸せ」だろうか?
そして、あなたの「大切な人」は、あなたが心配の名を騙る恐怖や不安に心を苛まれ、蝕まれるのを、はたして望むだろうか?
<心配するあなたの不安そうな表情を見れば、あるいは心配して書き送る言葉を目にすれば、相手の思考も望まない方向へ向く可能性はある。
誰かの役に立ちたいと思ったら、その人が望むとおりの姿で見てやることだ。そういう影響なら与えたいのじゃないか>
エスター・ヒックス+ジェリー・ヒックス「引き寄せの法則 エイブラハムとの対話」より
<悲観をその基盤とし、不幸と悲哀を善とするこの道徳……この善悪の価値表は、速やかに破り捨てなければならない>
ニーチェ「善悪の彼岸」より
2010/12/30 08:17